ヨエル 2章

「いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。」(25節)

神は私たちが失ったものを償ってくださる、回復してくださるお方です。ヨブは多くのものを失いましたが、最後にはこう記されています。

「主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。」(ヨブ42:10口語訳)

また、イザヤ書にはこう記されています。

「その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」(イザヤ40:2)

私たちの人生には様々な試練が存在します。しかし、その試練の先には、試練の倍の祝福が待っています。神は失われた年月を償われるだけでなく、その倍の祝福を与えてくださいます。

「だから、わたしたちは落胆しない。」(Ⅱコリ4:16口)

ヨエル 1章

「長老たちよ。これを聞け。この地に住む者もみな、耳を貸せ。このようなことがあなたがたの時代に、また、あなたがたの先祖の時代にあったろうか。これをあなたがたの子どもたちに伝え、子どもたちはその子どもたちに、その子どもたちは後の世代に伝えよ。」(2,3節)

ヨエルは当時のイスラエルの国がどんなに混乱している状態にあるかを指摘します。そして、彼らが直面していたイナゴの大群における飢饉には、意味があることを伝え、悔い改めを呼びかけています。それだけではなくヨエルは、これらの問題を後の世代にも語り伝えるように命じます。私たちは成功を語り伝えたいと思います。しかし聖書は、正直に私たちの失敗を、そして失敗から学んだことを、次世代に伝えていくことが大事だというのです。まず、何をするべきかははっきりしています。

「あなたがたの神、主の宮に集め、主に向かって叫べ。」(14節)

私たちは教会に集まり、共に主に祈り叫ぶことが求められています。

ヤコブ 5章

「そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」(18節)

17節に

「エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。」

とあるように、この箇所の背景には列王記第一のエリヤの話があります。列王記の箇所を見ると

「再び祈る」

という言葉には深い意味が込められていることが分かります。

「エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた。それから、彼は若い者に言った。「さあ、上って行って、海のほうを見てくれ。」若い者は上って、見て来て、「何もありません。」と言った。すると、エリヤが言った。「七たびくり返しなさい。」」(18:42,43)

つまり、予兆が見えるまでエリヤは祈り続けたということです。私たちは祈っても何も起こらないとすぐあきらめてしまう傾向はないでしょうか。エリヤも私たちと同じ人です。私たちもあきらめずに祈りましょう。

ヤコブ 4章

「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」(10節)

自分があたかも神のように振る舞うことが、すべての問題の根源であるというのが、この章のメッセージです。わがまま、気ままにやりたいがゆえに、戦いや争いは起こると言うのです。ですから、まず、神の前にへりくだることが大事だと言います。神が良い時に、引き上げてくださるから、自分で自分を引き上げてはいけないと言うのです。引き上げるのは神の役割で、私たちの役割は、へりくだることだと言うのです。膝を屈めた人だけが、立ち上がることができます。神を神として認めることが大切です。神は言われます。

「正しくさばくことのできる方は、律法を定めた神おひとりです。神だけが、私たちを救ったり、滅ぼしたりすることができるのです。それなのに、あなたは何の権威によって人を裁いたり、批判したりするのですか。」(12LB)

ヤコブ 3章

「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」(17節)

「温順」という言葉は、あまり聞かない単語だと思います。国語辞典には、

「おとなしくすなおで、人にさからわないこと」

とありますが、LBでは、

「独善的でなく、人のことばに喜んで耳を傾けます」

と訳しています。ですから、

「穏やかな従順」、

もしくは、

「教えられやすい体質」、

「扱われやすい性格」

のことだと言う事ができると思います。神は私たちに純真、平和、寛容といった品性だけではなく、温順という品性を与えたいと願っています。私たちは学ぼうと思えば、すべての人から、すべての事柄から学ぶことができます。誰からも、何からも学ぶ「温順」の品性をもつことができるのならば、私たちの人生は、必ず豊かになります。

ヤコブ 2章

「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」(13節)

英語の聖書では、今日の箇所をこのように訳しています。

「他者にあわれみをあらわしたことのない人にあわれみはありません。しかし、もしあなたがあわれみ深かったら、神があなたを裁く時、憐れみ深いだろう。」(NLT)

神が私たちに求めておられることは、他者にあわれみをあらわすことです。他者を裁く人を、聖書はとても厳しく注意します。

「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。」(ローマ2:1新共同訳)

人差し指を他者に指す時に三本の指が自分に向いているということを意識する必要があります。

ヤコブ 1章

「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。」(17節)

聖書の神は、良い神であり、良いものをくださる神です。神が与えてくださるものはすべて良いもので、完全なものです。さらに、神は変わることがありません。神は過去存在し、未来に統べ治められる神であるだけでなく、今も変ることのない、今生きておられ、私たちを愛し、導き、守ってくださる、良いものを与えてくださる現在の神です。私たちは神のイメージを聖書的にする必要があります。聖書の神は、よくある神話に出てくるような良いものを奪っていくわがままな存在ではなくて、私たちを愛し、私たちに関心をもち、良いものを与えてくださる神です。この確信に、私たちの心が深く満たされることは大切なことです。今日は主の日。主に賛美と礼拝を共に捧げましょう。

ホセア 14章

「知恵ある者はだれか。その人はこれらのことを悟るがよい。悟りある者はだれか。その人はそれらを知るがよい。主の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、そむく者はこれにつまずく。」(9節)

スポルジョン牧師が、ある信徒の家を訪問しました。すると彼の小屋の上にある風の吹く方向を知る風見に「神は愛なり」と書いてありました。それで、スポルジョン牧師は彼に尋ねました。「あなたは、神の愛が変わることがあると言いたいのですか。」彼はこう答えました。「いいえ。私は風がどんな方向に吹こうとも、それでもなお神は愛であると言いたいんです。」これが、ホセア書のメッセージです。神の民は神を裏切りましたが、ホセアがゴメルをあきらめなかったように、神もご自身の民をあきらめていません。神はひとりも滅びることを望まず、立ち返るのを待っておられるのです。これが、私たちが知るべきことです。

ホセア 13章

「あなたを救うあなたの王は、すべての町々のうち、今、どこにいるのか。あなたのさばきつかさたちは。あなたがかつて、「私に王と首長たちを与えよ。」と言った者たちは。」(10節)

偶像というのは、目に見える彫刻だけの話ではありません。まことの神よりも人間に信頼するのならば、それもまた、その人にとって偶像となりえます。LBでは、この箇所をこう訳しています。「この地の指導者はどこにいるのか。おまえは王や指導者を頼みにした。それなら、彼らに救ってもらうがいい。」残念ながらどんなに人間に期待しても、人は、人を救うことはできません。キリストだけが私たちを救うことができるのです。どんなに優れているように見える人でも、人である限り、本当の意味で人を救うことはできません。私たちは人に対して信仰をもつべきではありません。神に信仰をもつべきです。

ホセア 12章

「あなたはあなたの神に立ち返り、誠実と公義とを守り、絶えずあなたの神を待ち望め。」(6節)

信仰生活の中でもっとも難しいことの一つが、神を待ち望むことだと思います。私たちは待つことが嫌いです。何とかして物事を自分の思い通りに動かしたいと思います。しかし、神は「待ちなさい」とおっしゃられることがあります。ですから、私たちは継続的にこの御言葉を自分の心に言い聞かせる必要があります。

「絶えずあなたの神を待ち望め」。

LBでは後半部分をこう記しています。

「いつも、あなたの神に期待しなさい。」

私たちは落胆を避けるために、いつのまにか期待をしないようになります。人間が期待に添えないことは多々あります。しかし、神は期待することができるお方です。いや、期待以上に応えて下さるお方です。

「私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方」(エペソ3:20)

です。