ローマ 3章

「しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。」(3:21)

「律法とは関わりなく」とは、別に旧約聖書の「律法」がどうでもいいと言う話ではありません。

「律法」は2節にあるようにユダヤ人に与えられた契約のしるしでした。

しかし、「ユダヤ人の王」として十字架に架かられたイエス・キリストは「律法」を成就したので、今、ユダヤ人でなくても、誰でもイエス・キリストを信じるだけで「正しいとされる」(義認)のです。

裁判官が裁きの座から降りて来て、法衣を脱ぎ、私たちの代わりに罪の報酬である死を受けてくださいました。

正義は執行され、私たちは自由にされました。

ですから今、「どんな人間であろうと、私たちは皆、キリストを信じるという、この方法によって救われるのです。」(22節LB)

ローマ 2章

「それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。」(2:4)

他者を指さすとき、三本の指が自分を指しているように、ブーメランのように自分に返ってきます。

ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。」(2:1)

他者を裁く自分が裁きを免れることはないということです。

そのようなことを行う者たちをさばきながら、同じことを行っている者よ、あなたは神のさばきを免れるとでも思っているのですか。」(3節)

ですから、あたかも神のように自分の正しさで他者を裁かないように気をつける必要があります。

さらに、神のやさしさは計り知れず、どんな人の人生も変えることができることを、私たちは忘れてはいけないと思います。

※ 今日の14時からの東京リバイバルで小山牧師が証メッセージをします。

ローマ 1章

「この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。」(1:2-4)

聖書の言う「福音」とは

「御子に関するもの」、

「私たちの主イエス・キリストです。」

「ダビデの子孫から生まれ」

と言う意味は、

「このお方こそ旧約聖書で約束されてきたメシアである」

という知らせということです。

そして、

「死者の中からの復活」の「死者」は複数形であり、

「初穂」(1コリンと15:20)

としての復活のことで、

「新しい創造のはじまり」として印を付けられた「メシア」であると言う知らせです。

ですから、私たちが宣べ伝える「福音」は、聖書が約束した通り

「イエス・キリストが主」

と言う知らせです。

「あなたの神は王となった」(イザヤ52:7協会共同)

と言う知らせです。

使徒 28章

「パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねて来る人たちをみな迎えて、少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」(28:30,31)

使徒の働きの最後の言葉をメッセージ訳ではこう訳しています。

彼のドアはいつも開かれていた。

キリストの福音は全ての人に解き放たれました。

歴史が物語るようにこの後、世界の中心ローマから地の果てまで広がっていきます。

パウロのドアというより、キリストのドアは、今も開かれています。

それはユダヤ人だけでなく、全ての人に開かれています。

誰でもイエス・キリストを信じるなら、罪赦され、救われます。

教会の使命は、誰でも主イエス・キリストのことを知ることができるようにいつでもドアを開き、歓迎し、聖書のメッセージを宣べ伝え、教え続けることです。

使徒 27章

「ですから、皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになるのです。」(27:25)

パウロはリーダーである百人隊長に警告をしました。

「しかし百人隊長は、パウロの言うことよりも、船長や船主のほうを信用した。」(11節)

どんなに危険を察知しそれを伝えても、聞いてもらえない、無力さを感じる時があります。

思った通りの状況にパウロは言います。

「皆さん。あなたがたが私の言うことを聞き入れて、クレタから船出しないでいたら、こんな危害や損失を被らなくてすんだのです。」(21節)

聖書の神は、失敗したら終わりではない、セカンドチャンスの神です。

神は私たちを見捨てることも、見放すこともありません。

だから私たちはパウロのように希望のメッセージを語り続けます。

「さあ、元気を出して、私は神を信じています。神様がおっしゃることにうそはありません。」(LB)

使徒 26章

「こういうわけで、アグリッパ王よ、私は天からの幻に背かず、」(26:19)

パウロのポイントは「天からの幻」に従順したということでした。

「天からの幻」とは、第一にイエス・キリストの顕現です。

そして、「異邦人の使徒」としての召命です。

私たちも「天からの幻」(ヘブンリービジョン)に生きることが大切です。

「幻がなければ、民は好き勝手にふるまう。」(箴言29:18)とありますが、私たちは「天からの幻」が必要です。

私たちは今、「天からの幻」を神の御言葉である聖書からいただくことが出来ます。

パウロに与えられた

それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。」(18節)

という「天からの幻」は、

キリスト教会に与えられた「天からの幻」

でもあると思います。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げ、「天からの幻」に生きましょう。

※ 本日のSSCの主日礼拝も、三密にならないよう、第一礼拝(9時)と第二礼拝(10:25)に分散しての出席をお願いします。第二礼拝はライブ配信されます。(18時からの第三礼拝は自粛中です。)
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使徒 25章

「ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関すること、また死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのです。」(25:19)

使徒パウロの主張、それは、イエス・キリストが生きているということでした。

キリスト教会が大切にしている主張は、キリストが生きているということです。

復活は福音の中心です。

もし、キリストが死からよみがえられなければ、十字架は意味がありません。

使徒パウロは言いました。

キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。」(1コリント15:14)

イエス・キリストは死の力を打ち破り、復活し、今生きておられます。

天においても、地においても、すべての権威がキリストにあり、キリストの統治は始まっています。

もうすぐキリストは再びこの地に来られ、全てを正されます。

イエス・キリストこそ、生ける神、主の主、王の王です。

使徒 24章

「しかし、パウロが正義と節制と来たるべきさばきについて論じたので、フェリクスは恐ろしくなり、「今は帰ってよい。折を見て、また呼ぶことにする」と言った。」(24:25)

使徒の働きの22章から26章まで裁判の記事が続きます。

22章では民衆の前で弁明し、

23章でサンヘドリンというイスラエルの宗教指導者たちを前に弁明します。

24章は総督フェリクス、

25章では総督フェストゥス、

26章ではアグリッパ王の前で裁判が行われます。

裁判の場がパウロにとって福音宣教の場でした。

総督フェリクスはキリスト教信仰について知りたいと願い、パウロから話を聞きました。

しかし、彼の動機は「金をもらいたい下心」(26節)程度のものでしかありませんでした。

ですから、「折を見て」と、信じる機会を逃してしまいました。

「折を見て」いると機会を失います。

今日が救いの日です。

使徒 23章

「その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」と言われた。」(23:11)

使徒パウロは、もっとも信じ受け入れて欲しかった同胞のユダヤ人たちに拒絶され、落ち込んだのだと思います。

主がパウロの側に立って、励ましました。

「エルサレムでは大変だったけれども、よくわたしのことをあかししてくれた。さあ、今度は、ローマでわたしのことをあかししなさい。」

神は過去を脇に置かせて、未来に目を向けさせました。

私たちもパウロと同じように、仲間から拒絶され、見捨てられてしまうことがあります。

しかし、主は私たちを見捨てることはありません。

暗やみに囲まれたような時も、私たちのそばに立って、過去を脇に置かせ、未来に目を向けさせてくださいます。

主は言われます。

「勇気を出しなさい。あなたの人生には目的があります。」

使徒 22章

「さあ、何をためらっているのですか。立ちなさい。その方の名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。」(22:16)

使徒パウロは、彼の長年の夢でもありました同胞への伝道のチャンスに、神学的論争ではなく、自分の個人的な体験、「証」を話しました。

誰かにイエス・キリストのことを伝えるのに一番力強い方法は、自分のイエス・キリストとの体験を語ることです。(ですから専門的な教育を受けていなくても伝道は可能です。)

イエス・キリストが自分の人生に何をし、何が変わったかを人々に語ることが証です。

自分が体験したことを誰も否定することはできないからです。

パウロのポイントは三つでした。

まず、彼がどういう人物であったか、彼の過去。

そして、彼の回心、彼の人生に神が介入されたこと。

最後に、これからのこと。

神がすべての人に福音を伝えるように命じたことを話しました。

パウロのように、いつでも自分の証を語る備えはできていますか。