使徒 15章

「『その後、わたしは倒れているダビデの仮庵を再び建て直す。その廃墟を建て直し、それを堅く立てる。それは、人々のうちの残りの者とわたしの名で呼ばれるすべての異邦人が、主を求めるようになるためだ。─昔から知らされていたこと、それを行う主のことば。』ですから、私の判断では、異邦人の間で神に立ち返る者たちを悩ませてはいけません。」(15:16―19)

初代教会が決めたこと、それは、異邦人に対して難しくしないということでした。

その理由は、神が「倒れているダビデの仮庵を再び建て直す」という預言が成就したからだと言います。

その真意はローマ書1章に見ることができます。

この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。

使徒 14章

「皆さん、どうしてこんなことをするのですか。私たちもあなたがたと同じ人間です。そして、あなたがたがこのような空しいことから離れて、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えているのです。」(14:15)

バルナバとパウロの宣教活動を通して人々はバルナバをゼウスと呼び、パウロをヘルメスと呼び、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになった」と、いけにえを捧げようとしました。

創造主なる神を知らない人は、何でもかんでも神々にしてしまう傾向があります。

しかし、聖書はそのような試みを完全否定します。

人が神になることはできません。

神は神、人は人です。

この世界で唯一、神が人となられたのは、子なる神、イエス・キリストだけです。

福音を宣べ伝えることは、偽物の神々から、創造主なる本物の神に立ち返る(方向転換する・悔い改める)ように求めることが含まれています。

使徒 13章

「さて、アンティオキアには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどの預言者や教師がいた。彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が「さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」と言われた。そこで彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いてから送り出した。」(13:1-3)

アンティオキアはシルクロードの出発点として知られる国際都市でした。

この地域の教会が宣教拠点として用いられたことに神の摂理を見ることができます。

注目すべき点は、宣教のはじまりが礼拝だったことです。

主に礼拝を捧げる中で、聖霊が宣教のビジョンを与え、祈りをもって、教会が宣教師を遣わします。

ですから、まず何よりも礼拝者であることが求められています。

主に礼拝を捧げる中で、聖霊が世界宣教のビジョンを与え、教会は祈りによって送り出します。

使徒 12章

「こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。」(12:5)

初代教会のリーダーの一人ヤコブが殺され、もう一人のリーダーペテロも逮捕されてしまいました。

当時の教会は人に頼ることも、お金に頼ることもできませんでした。

権力に頼ることも、政治力もありませんでした。

何も出来ないもどかしい状況の中、教会は熱心に祈り続けました。

そして、神は彼らの熱心な祈りを用いて奇跡を起こされました。

教会は祈りの共同体(コミュニティ)です。

祈りなくして教会はありません。

「熱心」と訳された単語は、

「たゆまず、根気よく、切に」

という意味もあります。

私たちは人にはできないことも、神にできないことはないことを信じ、祈り続ける姿勢を大切にしたいと思います。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

 

使徒 11章

「ですから、神が、私たちが主イエス・キリストを信じたときに私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが、神がなさることを妨げることができるでしょうか。」人々はこれを聞いて沈黙した。」(11:17,18)

私たちは自分たちが理解できる範囲内に神がなさることを限定すべきではありません。

私たちはペテロと同じように

私のような者が、どうして神のなさることを邪魔することができたでしょうか。」(協会共同訳)

という謙遜さが求められます。

少なくとも、

人々はこれを聞いて沈黙した。

とあるように、非難することは控える姿勢が求められます。

ここからキリスト教会は世界へと広がっていきます。

弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」(26節)

とあるように、ここから「クリスチャン」と言う名称は始ります。

使徒 10章

「ペテロがなおもこれらのことを話し続けていると、みことばを聞いていたすべての人々に、聖霊が下った。」(10:44)

聖書が教える聖霊に満たされる方法の一つは、みことばを聞くことです。

今、私たちはみな、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、神の御前に出ております。」(33節)

とコルネリウスは言いましたが、そのような姿勢でメッセージを聞くことを通して聖霊は来られます。

異邦人にも聖霊の賜物が注がれたことに驚いた。」(45節)とありますが、聖霊の賜物は、神の御言葉に耳を傾けるすべての人に注がれます。

そこに差別はありません。

使徒 9章

「彼が「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(9:5)

キリスト者になる前のパウロ(サウロ)は、キリスト教徒を迫害していました。

ダマスコにある教会を迫害しに行く道の途中、イエス様が現れました。

あなたはどなたですか

と尋ねると、

わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

と答えられました。

パウロが迫害していたのは教会であり、キリスト教徒でした。

しかし、イエス様はご自身を教会と同一視されました。

教会を迫害するのは、イエス様を迫害するのと同じだと。

教会は不完全な人間の集まりですから、問題がないわけではありません。

しかし、イエス様はそんな欠けだらけの教会を、ご自分と同一視されたのです。

ですから、教会を軽視することは、イエス様を軽視することと同じです。

目に見える教会を愛することが出来なければ、目に見えない神を愛することはできません。

使徒 8章

「するとその人は、「導いてくれる人がいなければ、どうして分かるでしょうか」と答えた。そして、馬車に乗って一緒に座るよう、ピリポに頼んだ。」(8:31)

エチオピア人の女王カンダケに仕えていた宦官が、礼拝のためにエルサレムに上ってきたと言う意味は、彼がユダヤ教に改宗していたと言うことです。

彼の熱心さは、その帰りにイザヤ書53章を音読していたことからも伺い知ることができます。

しかし、彼は文字が読めても、その語る意味を理解することができませんでした。

なぜなら、

ピリポは口を開き、この聖書の箇所から始めて、イエスの福音を彼に伝えた。」(8:35)

とあるように、聖書はイエス・キリストの福音を知らなければ理解できないからです。

しかし、聞いたことのない方を、どのようにして信じるでしょうか。

宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くでしょうか。

信仰は聞くことから始まります。

私たちは伝え続ける必要があります。

使徒 7章

「このモーセが、イスラエルの子らにこう言ったのです。『神は、あなたがたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたがたのために起こされる。』」(7:37)

ステパノのメッセージは、

『あのナザレ人イエスは、この聖なる所を壊し、モーセが私たちに伝えた慣習を変える』と彼が言うのを、私たちは聞きました。」(6:14)

という証言に対する弁明でした。

ステパノのポイントは、そもそもモーセが指し示したのがイエス・キリストであると言うことでした。

そして、ステパノはイスラエルの歴史を通してユダヤ人たちが、

いつも聖霊に逆らっています。」(51節)

と言う現実を突きつけました。

しかし、宗教指導者たちは悔い改めるどころか、激昂してステパノに石を投げつけて殺してしまいます。

彼らは自分たちは正しいと思っていたからこそ、ステパノの言葉が許せなかったのだと思います。

へりくだって、聖書のメッセージに耳を傾けることができますように。

使徒 6章

「私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します。」(6:4)

教会における人間関係の摩擦は、残念ながら避けられないものなのだと思います。

教会が誕生してすぐ信徒の中に対立が生まれました。

使徒(教職者)たちは、聖霊に満ちた評判の良い信徒リーダーたちにこの問題を委ねて、自分たちは祈りとみことばの奉仕に専心することにしました。

教職者が問題対応に追われ、祈りと御言葉の奉仕がなおざりになってしまうならば本末転倒です。

問題解決に教職者が適当とも限りません。

教会も人の集まりですから、気をつけないと、「祈りとみことば」の時間よりも、「会議」ばかりになりかねません。

教会はまず何よりも、祈りの場でなければなりません。

聖書の御言葉が語られ、聖書を共に読み、学ぶ場でなければなりません。

問題に対処することばかりに追われるならば、本来あるべき姿を見失ってしまいます。

「祈りとみことば」が教会のあるべき姿です。