へブル 7章

「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(24,25節)

新約聖書の中心的なメッセージは、イエス・キリストは、私たちのために十字架の上で死に、葬られ、三日目に死の力を打ち破ってよみがえられ、今も生きておられるということです。イエス・キリストは永遠に存在される神ですから、イエス・キリストによって父なる神に近づく人々を完全に救うことができます。キリストが届くことができない人、また場所はどこにもありません。しかも、キリストは天において今、私たちためにとりなしをしてくださっているのです。イエス・キリストは今も生きて、働かれています。

へブル 6章

「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」(10節)

私たちは行いによって救われるわけではありません。キリストがすでに十字架で成し遂げてくださった御業のゆえに救われるだけであり、それに、何も加えることはできません。しかし、それは、私たちの行いがどうでもいいと言う意味ではありません。キリストを信じ救われたのならば、人としてすべき応答があります。エペソ2:10に、こう書いてあります。

「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」(口語訳)

誰も見て評価してくれなくても、神様は私たちの行いも見ておられ、忘れないと言います。

へブル 5章

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」(7節)

私たちが見習うべき祈りの姿勢は、イエス様です。イエス様がどのように祈られたか、私たちはそれを心に留める必要があります。イエス様は、ご自身の問題をお弟子さんたちに分かち合って、心が軽くなるまで話しあったわけではありませんでした。イエス様は、人が経験する不安と恐れを神の前に注ぎだす祈りというのを実践して教えてくださいました。私たちもまた、「叫び声と涙とをもって」という心を注ぎだす祈りを神様に捧げているでしょうか。私たちは感情を誰かにぶつけて心を軽くするのではなく、神様に心を注ぎ、神さまに感情もぶつけ、祈ることが大切です。

へブル 4章

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(15,16節)

イエス様は、天の御座から私たちを見下ろして、蜘蛛の糸をたらすという方ではありません。実際に人となられて、この地上を歩かれ、私たちと同じように試みを体験されました。ですから、私たちが日々直面する問題、悩みを理解してくれます。私たちの弱さをご覧になって、切り捨てる方ではありません。また、達観して、あきらめの境地に私たちを導こうというわけでもありません。私たちにおりにかなった助けを与えたいのです。私たちは助けを受けるために、主の御前に出て行く必要があります。

へブル 3章

「しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。」(6節)

モーセの時代の神の家は、イスラエルの民でした。キリストが建てた神の家は、教会です。私たちがキリストを歓迎する時、キリストは私たちのただ中に住んでくださっているのです。イスラエルの国が完全ではなかったように、教会も完全ではありません。しかし、イエス・キリストが教会を忠実に治めてくださっているということは、心に留める必要があると思います。キリストが管理してくださっているのならば、これほど素晴らしいことはないのではないでしょうか。LBでは、こう訳しています。

「もし、最後まで揺るがない確信を持ち続け、喜びと主への信頼を失わなければ、私たちも神の家となるのです。そして、神がそこに住んでくださるのです。」

へブル 2章

「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(14,15節)

LBでは、今日の箇所を、こう訳しています。

「神の子どもである私たちは、血も肉もある人間です。そこでイエスも、血肉をもった人間の姿でお生まれになりました。それは、人間として死ぬことにより、死の権力をふるう悪魔の力を打ち砕くためです。これだけが、一生涯死の恐怖の奴隷となっている人間を救い出す方法だったのです。」

まさに、どうして、イエス・キリストが人の子として生まれてこなければいけなかったかを明確に語っている箇所です。神の御子が、人として生まれてきてくださったから、私たちには救いがあります。無限の神の子が、有限な血肉を持たれた理由は、私たちへの愛です。

へブル 1章

「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」(1、2節)

旧約聖書を見ますと、神が様々な方法で語られたことが分かります。しかし、この終わりの時代は、イエス・キリストにあって語られるというのが聖書が明確に教えていることです。イエス・キリストにあって語られるという意味は、三位一体である聖霊によって語られるということです。聖書の本当の著者は聖霊です。ですから、今、聖書のみことばを通して語られるということです。聖書は物語(ストーリー)です。ですから、聖書の物語(ストーリー)を通して、神は語られます。ですから、私たちは聖書を読む必要があります。聖書の物語を共有できるほど、自分のものとする必要があります。今日は主の日。神のことばに耳を傾けていきましょう!

ハバクク書 3章

「主よ。私はあなたのうわさを聞き、主よ、あなたのみわざを恐れました。この年のうちに、それをくり返してください。この年のうちに、それを示してください。激しい怒りのうちにも、あわれみを忘れないでください。」(2節)

ハバククから信仰の姿勢を学ぶことができます。彼は神様がユダを裁くためにどうしてバビロンを用いられるか、理解することができませんでした。しかし、彼は信仰の祈りをしました。

「主よ、それを行ってください。」

私たちが理解できないこと、把握することができないこと、それはたくさんあります。

「しかし、主よ、それをしてください。」

と神に信頼して祈ることが大事です。神は間違えることはありません。またハバククは、

「あわれみを忘れないで下さい」

とも祈りました。つまり、

「神様、あなたの御業を行い続けてください、でも、あわれみを忘れないで下さい。」

と。

「主よ、あなたのみこころを行い続けて下さい。」

ハバクク書 2章

「しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」(4節)

神の南ユダ王国に対する取り扱いの方法は、バビロン帝国によるバビロン捕囚でした。ハバククには、それを受け止めることができませんでした。

「ユダの人々は悪いけれど、バビロンの人は、もっと悪いではないですか」

と。しかし、神はハバククにただこう言いました。

「悪者は自分だけを信頼し、ついには滅びる。だが正しい人は、わたしに信頼することによって生きる。」(LB)

神は、

「わたしに信頼しなさい」

とおっしゃられます。

ギリシア語訳の聖書は、興味深いことに、こう訳しています。

「正しい人はわたしの真実によって生きる」(LXX)

私たちは、「自分の信仰深さの問題」と思いやすいのですが、そうではなくて、神の真実(イエス様の十字架の御業)のゆえに、神が与えてくださる信仰によって、私たちは生きていくことができると言います。

ハバクク書 1章

「驚き、驚け。わたしは一つの事をあなたがたの時代にする。それが告げられても、あなたがたは信じまい。」(5節)

預言者ハバククは、南ユダ王国に生きた預言者でした。彼は、南ユダ王国で起きている悪に心を痛め、神様が何もされないことに、悩んでいました。しかしそんなハバククに、神は言います。

「わたしは生きて働いている。わたしがこれからあなたの時代にしようとしていることをあなたが知ったら、あなたは肝をつぶすだろう。」

私たちは、神が何もされていないように見えて不安を覚えることが多々あります。しかし神は、ちゃんと働かれています。私たちが想像も出来ない方法で、神は行動されています。

「主よ、あなたが今生きておられて、私たちの思いをはるかに超えたところで働かれているお方であることを感謝します。すべてを理解することはできませんが、あなたの御業がなされますように。」