出エジプト 33章

「それでモーセは申し上げた。「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか。」」(15,16節)

イスラエルの民が、他の民と区別されることは、神がいっしょにおいでになること、すなわち、神の臨在です。キリスト教会にも同じことが言えます。教会が地上のすべての場所と区別されることは、神の臨在です。聖書は言います。

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)

今日は主の日。

主の臨在の民として、共に主に礼拝を捧げましょう。

出エジプト 32章

「しかし、今は行って、わたしがあなたに告げた場所に、民を導け。見よ。わたしの使いが、あなたの前を行く。わたしのさばきの日にわたしが彼らの罪をさばく。」(34節)

モーセが40日40夜戻って来ないのを見て、人々は自分たちの神を作ってしまいました。それを見た神は言われました。

「彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道からはずれ、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえをささげ、『イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。』と言っている。」(8節)

問題は、アロンが神のみことばよりも、イスラエルの人々の訴えを優先したことから始まりました。キリスト教会の歴史も、同じことが繰り返されてきました。神のみことばよりも、人々の訴えを優先する時、教会は堕落し、機能を果たさなくなります。私たちは、神を畏れ、祈りつつ、神の導きに従わなければなりません。

出エジプト 31章

「あなたはイスラエル人に告げて言え。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、あなたがたが知るためのものなのである。」(13節)

神の宮のために様々な器具を作る必要がありました。神は人に仕事を与えました。もっとも神は仕事だけでなく、休みも与えました。六日間は働いても、一日は必ず休み、主を礼拝するようにと命じます。神にとって、私たちが何かを神のために作ることよりも、神を礼拝する者になることのほうが重要です。実際、主にある安息を忘れて働き続けるならば、私たちの心は荒れていきます。どんなに良いことをしていても、たとえそれが神のためだったとしても、神との時間をとらずにいるならば私たちの生活は崩れていってしまいます。安息日は、人のために与えられました。神を神として私たちが認識する必要があるからです。人は神にはなれません。

出エジプト 30章

「アロンは年に一度、贖罪のための、罪のためのいけにえの血によって、その角の上で贖いをする。すなわち、あなたがたは代々、年に一度このために、贖いをしなければならない。これは、主に対して最も聖なるものである。」(10節)

今日の箇所は、「ヨーム・キップール」と呼ばれる「贖罪の日」の儀式についてです。人は贖われる必要があることを教えます。ヘブル書にこうあります。

「第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけはいります。そのとき、血を携えずにはいるようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。」(9:7)

「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(9:11,12)

出エジプト29章

「彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らの間に住むために、彼らをエジプトの地から連れ出した者であることを知るようになる。わたしは彼らの神、主である。」(46節)

幕屋の存在はイスラエルの人にとって、神が近くにおられるということを意識させてくれるものでもありました。神はどこかにおられる方ではなく、

「彼らの間に住む」

ことを願われている方であることを彼らは幕屋を見上げるたびに感じていました。聖書は言います。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:14)

キリストも言いました。

「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」(マタイ18:16)

使徒パウロも言いました。

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)

教会の存在は、神が確かに、神の民のただ中に住んでおられることを思い起こさせます。

出エジプト 28章

「その中に、宝石をはめ込み、宝石を四列にする。すなわち、第一列は赤めのう、トパーズ、エメラルド。第二列はトルコ玉、サファイヤ、ダイヤモンド。第三列はヒヤシンス石、めのう、紫水晶、第四列は緑柱石、しまめのう、碧玉。これらを金のわくにはめ込まなければならない。この宝石はイスラエルの子らの名によるもので、彼らの名にしたがい十二個でなければならない。十二部族のために、その印の彫り物が一つの名につき一つずつ、なければならない。」(17‐21節)

大祭司の胸当てには十二個の宝石がはめ込まれていました。一つ一つの宝石はイスラエルの一二部族を意味していました。その事を黙想しますと、私たちの大祭司キリストの胸当てにも、私たち一人一人を象徴する様々な宝石がはめ込まれている気がしてなりません。宝石はそれぞれ色も輝きも違いますが、すべて価値があり、美しいものです。教会も様々な人がいますが、主にあって皆、高価で貴い、宝石のような存在です。

出エジプト 27章

「あなたはイスラエル人に命じて、燈火用に上質の純粋なオリーブ油を持って来させ、ともしびを絶えずともしておかなければならない。」(20節)

ともし火を四六時中燃やし続けるだけでも大変なことです。口語訳では20節をこう訳しています。「・・・オリブをつぶして採った純粋の油を、ともし火のために持ってこさせ、絶えずともし火をともさなければならない。」オリーブをつぶして採取した純粋の油を常に供給しなければならなかったと考えると、ともし火をたやさないためにどれだけの労力が費やされたか考えさせられます。そこまでする必要があるのだろうかと思った人もいるのではないでしょうか。聖書は「絶えず祈りなさい」(Ⅰテサロニケ5:17)、祈りのともし火を消してはいけないと言います。祈りの姿勢をもって生きることもたやすいことではないと思います。しかし、あらゆる努力をしてでも祈りの姿勢を崩さないで生きることは、私たちの人生にとって大きな意味があります。

出エジプト26章

「至聖所にあるあかしの箱の上に『贖いのふた』を置く。」(34節)

今日の箇所は、へブル人への手紙九章で解説がなされています。

「箱の上にはケルビム〔神の栄光の守護者たち〕と呼ばれる天使の像があって、黄金のふたをおおうように、大きな翼を広げていました。このふたは「恵みの座」と呼ばれます。しかし、これ以上くわしく述べる必要はないでしょう。」(へブル9:5LB)

レビ16:2にこう書いてあります。

「主はモーセに仰せられた。「あなたの兄アロンに告げよ。かってな時に垂れ幕の内側の聖所にはいって、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない。死ぬことのないためである。わたしが『贖いのふた』の上の雲の中に現われるからである。」

旧約時代、勝手に「贖いのふた」の前に立つことは許されませんでした。罪のためのいけにえが必要でした。しかし、イエス・キリストが私たちの罪のためのいけにえとして十字架で死んで下さいました。今、誰でもキリストの中で「恵みの座」に出ることができるのです。

出エジプト 25章

「彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。」(8節)

LBではこの箇所をこう訳しています。

「わたしがイスラエルに住めるよう、聖なる住まいを作ってほしい。」

教会時代に生きる私たちにとって、それは第一に、キリストの体である教会を建てあげることです。キリストの御名によって集まるそのただ中にキリストはおられると言いました。地域教会を建てあげていくことは大切なことです。また、詩篇22篇にはこう記されています。

「あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」(3節)

私たちが賛美を神に捧げるそのただ中に聖なる住まいが作られます。賛美は重要です。賛美の中で神に出会い、賛美の中で病気が癒されたという話をよく耳にします。神は私たちの中に住まわれて、力ある御業を今日もなされたいと願われています。私たちは、神が住むことができる聖所を造ることが求められています。

出エジプト 24章

「モーセは雲の中にはいって行き、山に登った。そして、モーセは四十日四十夜、山にいた。」(18節)

モーセはひとりで山に登り、神の前に立ちました。榎本師はこう言います。

「私たちはひとりになることを恐れる。そして、いつも『みんな』を問題にしやすい。『みんな』を問題にしている間、私たちは神の山に立つことはできない。(中略)私だけが御言葉に従うことは不安でありさびしい。また自分だけが損をしているようにさえ思われるときがある。しかし、御言葉はひとりにならないかぎり、従うことのできないものである。そしてそこでこそ、共なりたもう神の栄光を仰ぐことができるのである。」

イエス様は言いました。

「羊飼いは一匹一匹自分の羊の名を呼んで連れ出すのです。」(ヨハネ10:3LB)

神は共同体としての私たちに関わられるお方であると同時に、ひとりの人として私たちの名前を呼び、私たちと関わられるお方です。