エペソ 3:1-21

「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(3:19)

メッセージ訳では今日の箇所をこう訳しています。

「満ちた(Full)人生を生きよう。神の満たし(Fulness)の中にある満たし(Full)に。」

神の満たしの中にある満たしに満ちた人生は、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることから始まります。もし、満たされていないと感じているならば、キリストの愛を知る必要があります。キリストの愛は十字架に現されます。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(15:13)

キリストが私たちを愛するために、十字架でいのちを捨てたことを黙想し、自分の心に語りましょう。

「すべてはわたしを愛するため。これほどの犠牲を払ってくださった。」

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エペソ 2:1-22

「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」(2:10)

聖書は私たちのことを「神の作品」と呼びます。大量生産の製品ではなく、造り主の指紋がついた「芸術作品」(art work)であることを心に留めたいと思います。すべての「作品」には芸術家の目的があるように、私たち一人一人の人生にも、神の目的があります。私たちはただ消費するために生きているのではありません。私たちの存在には意味があります。自分が造られた目的に生きることができますように。また、神の作品であるがゆえに一人一人はユニークで貴い存在です。神の目には、一人一人がかけがえのない存在であるということも、心に留めていくことができますように。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

エペソ 1:1-23

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(23節)

教会とは何か?まず、第一に教会は「キリストのからだ」です。「頭」はキリストです。教会は同好会やクラブとは違い、「頭」であるキリストのみこころを行なう集まりです。ですから、「頭」であるキリストのみこころを求めて、祈りつつ、聖霊に導かれて歩む集まりです。神のことばである聖書が最高権威です。第二に、教会は、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところ」です。イエス・キリストの臨在が満ちていることが教会を教会とします。神は「賛美を住まいとする」と聖書は言いますから、賛美に満ちている集まりです。キリストが「わたしがわたしの教会を建てる」とおっしゃられたことを覚えつつ、教会のために祈りましょう

ガラテヤ 6:1-18

「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」(6:1)

「メッセージ」という訳では、一節をこう訳しています。「友よ、創造的(クリエイティブ)に生きなさい。もし、誰かが罪に落ちたなら、赦しつつ回復させなさい。あなたの批判的なコメントは自分自身のためにとっておきなさい。あなたがその日が終わる前に必要かもしれないからです。」つまり、聖書的に「御霊の人」、「霊的な人」は、自分の弱さを知っている人であり、批判的にならずに、赦しの心をもっている人だと言います。ガラテヤの教会の人で、過ちに陥った人がいたのだと思われます。パウロはその人を責めるのではなく、聖霊の実である柔和をもって、その人を受け入れ、回復させなさいと言いました。これが、「御霊の人」の集まりである、教会のあるべき姿です。

ガラテヤ 3:26-4:20

「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」(4:6)

「神」が主語です。新改訳二〇一七ではこう訳しています。

「神は『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。」

聖霊は、「アバ、父」と叫ばせる、私たちを祈りに導かれるお方だと言います。つまり、父なる神に祈りを捧げることは、聖霊が私たちの内に住まわれている証拠ということです。聖霊が私たちの心の中に住んでおられるから、私たちの内側から祈りが沸きあがってくるということです。それは、「洗練された言葉」として湧きあがることもあれば、日本語としては意味をなさない、叫びでしかない、いわゆる「異言」のこともあります。大事なことは、聖霊に導かれて祈ることです。

ガラテヤ 3:11-25

「私の言おうとすることはこうです。先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがないということです。」(3:17)

神はまず、アブラハムと約束をしました。その後、アブラハムの子孫たちがエジプトで奴隷生活を強いられました。神の信実のゆえに、神はモーセを指導者として遣わし、彼らを解放しました。その時、彼らは神から律法をいただきました。ですから、まず、律法ありきではなく、約束ありきです。これは、信仰生活を歩む上で重要です。まず、イエス・キリストを信じるだけで救われるという神の約束があります。「こうした方がいい」というものはあります。しかし、まず、約束ありきです。失敗したからと言って、無効になるわけではありません。私たちの弱さ、欠けのゆえに、取り消されることはありません。

ガラテヤ 2:11-3:9

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(2:20)

「神の御子を信じる信仰によっている」と訳された言葉は、

「神の御子の信実の中でわたしは生きている」

と訳すことができます。信仰生活は、もちろん、イエス・キリストを信じる信仰によって生きていくという側面があります。しかし、同時に、それは、イエス・キリストの信実、私たちのために十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえられたという神の御子イエス・キリストが成し遂げられた救いの御業の中で生きていくという側面があります。いずれにせよ、イエス・キリストの十字架の御業が、私たちの生きる原動力です。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

ガラテヤ 2:1-10

「ただ私たちが貧しい人たちをいつも顧みるようにとのことでしたが、そのことなら私も大いに努めて来たところです。」(2:10)

日本では、字を読めない人も電気を使えない人もほぼ0%ですが、たとえば、バングラデシュでは、字を読めない人は41%、電気を使えない人は40%います。毎日食事を食べることが普通ではない国の人たちがいます。また、聖書にはこのように記されています。

「貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。「国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。」」(申命記15:11)

「貧しい人たちを援助することをいつも忘れないように」(LB)

と、聖書は私たちに訴えています。

ガラテヤ 1:1-24

「先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。」(1:17)

アラビアとは、パウロにとっての退修(リトリート)の場所でした。私たちも日常から退却して神との時間をとるアラビアが必要です。友人や家族や批判者の言葉ではなく、神のみことばに耳を傾ける時間が必要です。静かな部屋で神との時間をとるならば、その場所がアラビアとなります。そのような意味で、日曜日の礼拝の時間もアラビアとなります。私たちは、神が愛されていること、赦されていること、受け入れられていることを自分の心に浸す時間が必要です。パウロは焦って自分の働きに出て行くことはしませんでした。彼は神が働かれていることを知っていました。神が彼を必要としているのではなく、彼が神を必要としていたのです。アラビアは、パウロにとって、神を自分の中心に据える訓練の場となりました。

2コリント 13:1-13

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」(13:13)

聖書の神は三位一体なる神です。唯一の神ですが、子なる神キリスト、父なる神、聖霊なる神の三つの位格があります。このことを知的に理解することができないために、学者の中には三位一体を否定する人たちがいます。しかし、聖霊なる神は、はっきりとこの祈りのことばを使徒パウロに書き記させました。私たちが持つ知性で把握することが出来ないからと言って、神のご性質が変わることはありません。神は神であり、三位一体なる神です。コリントの教会に対して、パウロは厳しい言葉を並べてはいましたが、恵み、愛、交わりという三つを一つとしてまとめているところに、教会のあるべき姿を教えられます。