ガラテヤ 3:1-9

「これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。」(3:2)

パウロが確かめたかったこと、それは、「クリスチャンとは何か?」ということです。

「律法を行なった」という意味は、ユダヤ人のしるしである割礼を受けたとか、食物規定や安息日律法を守ったという意味です。

つまり、「クリスチャンのしるしは、ユダヤ人のしるしでしょうか?」というのがパウロが確かめたい内容です。

パウロは、「御霊を受けた」こと、つまり、キリストを信じることを通して聖霊の恵みに預かっていることこそが、クリスチャンの本当のしるしだと言います。

生ける神が私たちの内に住んでくださっているという生きた信仰は、信仰をもって聖書の御言葉を聞くことなしには生じません。

昔から教会で祈られてきたように、

「Veni, Sancte Spiritus」

「聖霊様、来てください」

と日々、祈ることが大切です。

ガラテヤ 2:11-21

「しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。」(2:16)

ユダヤ人にとって、「罪」は「トーラ」と呼ばれるモーセの律法を守らないことでした。

ですから、割礼を受けていない人は皆、罪人とされました。

特に異邦人社会に暮らしていたユダヤ人にとって、割礼や食物規定、安息日律法などは、「自分たちの民族のしるし」として大切にしていたものでした。

パウロは、ユダヤ人になることによって正しいとされるのではなく、「ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」と言いました。

つまり、ユダヤ人が救われるのではなくて、神の御子イエス・キリストが、私たちのために十字架にかかり死んでくださいましたから、イエス・キリストを信じる者が、救われるのです。

ガラテヤ 2:1-10

「忍び込んだ偽兄弟たちがいたのに、強いられるということはありませんでした。彼らは私たちを奴隷にしようとして、キリスト・イエスにあって私たちが持っている自由を狙って、忍び込んでいたのです。」(2:4)

「キリスト・イエスにあって」という言葉の意味は、二種類の可能性があります。

一つは、「キリスト・イエスに」《よって》、私たちが持つことができた自由という意味です。

つまり、イエス・キリストを手段として持った自由ということです。

イエス・キリストは、私たちが罪に縛られて生きなくていいように、私たちの身代わりとなって、十字架にかかり、死んでくださいました。

今、誰でもイエス・キリストを信じるならば、 イエス・キリストによって、私たちは自由をもつことができます。

もう一つは、「キリスト・イエス」の中で、私たちが持つことができた自由という意味です。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

ガラテヤ 1:11-24

「私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」(1:12)

使徒パウロが問題にしていることは、「福音」の内容ではなく、どこから来たかということです。

パウロは、伝承や伝統からではなく、イエス・キリストからの直接啓示だと言います。

「伝承」や「伝統」は、私たちを守る側面もありますが、私たちを見えなくさせる側面もあります。

「伝承・伝統」に目隠しされてしまったパウロは、深く考えることもなく、自分が教えられてきた「伝承・伝統」と違うキリスト教会の迫害者となってしまっていたと言います。

私たちも、そんなことがあるのではないでしょうか。

深く考えることもなく、「伝統だから」「そう教えられたから」ということで、「それらに反する」というだけで、攻撃しているということはないでしょうか。

伝統や伝承ではなく、聖書が何と言っているかが、私たちの人生を変えます。

ガラテヤ 1:1-10

「今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。」(1:10)

私たちは本質的な福音メッセージを、人の歓心を買うために曲げてはいけません。

どんなに人々が拒絶しようとも、受けが悪くても、イエス・キリストの十字架の御業だけが、人を救うことができるということを伝える必要があります。

しかし、フィー教授はこう言います。

「より大きな危険は、不必要に人々が背を向けるような方法で福音を提示し、この箇所を自分の愚かさを正当化するために用いようとする誘惑である。」

要するに、「別に人の歓心を買おうとしていないから」と、教会が人々に福音を伝える工夫を怠ってしまうならば、それは悲しいことです。

「本質は一致、本質以外は多様性、すべてのことは愛をもって」です。

ホセア書 14:1-9

「知恵ある者はだれか。その人はこれらのことを悟れ。悟りのある者はだれか。その人はそれらのことをよく知れ。主の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、背く者はこれにつまずく。」(14:9)

主の道は「平ら」というのを、協会共同訳では「まっすぐ」と訳しています。

英語の聖書では、「正しい」と訳しています。

つまり、「主の道」こそ、歩むべき道ということです。

ただ、「主の道」を歩むかどうかは、私たちの選択だというのです。

主の道は「人生の道」です。

「道」と訳された「デレク」という単語は、元来、道徳的な振る舞いなどの意味があります。

生き方、生活の仕方という意味があります。

聖書は、私たちの信仰だけではなく、生活の規範でもあります。

主の道はまた「いのちの道」です。

イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」と言われました。

私たちが歩む主の道、私たちが伝えなければならい主の道、それは、「わたしが道である」と言われた、イエス・キリストです。

ホセア書 13:1-16

「しかしわたしは、エジプトの地にいたときから、あなたの神、主である。あなたはわたしのほかに神を知らない。わたしのほかに救う者はいない。」(13:4)

主なる神はイスラエルの民がエジプトにいた時から今に至るまで、変わらずに

「あなたの神、主である」

と言われます。

神の愛は永遠の愛であり、神の信実は変わりません。

ところがイスラエルの民は、必要が満たされると高慢になってしまい、主なる神を忘れてしまいました。

主は言われます。

「しかし牧草で満腹したとき、彼らは満ち足り、心は高ぶり、そうしてわたしを忘れた。」(6節)

必要がある時は謙遜に神を求めていたのに、必要が満たされると、手のひらを返したように神の恵みを忘れて、あたかも自分で切り開いてきたかのように振る舞う。

このようなイスラエルの姿は、他人事ではありません。

神の恵みを忘れることなく、謙遜に神を神として生きていくことができますように。

ホセア書 11:1-11

「エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができるだろうか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか。どうしてあなたをアデマのように引き渡すことができるだろうか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができるだろうか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。」(11:8)

アデマとツェボイムは、ソドムとゴモラと共に滅びた町のことです。

神はそれらの街のように見捨てることはできないと言います。

あわれみ深い神は言われます。

「わたしの心は叫んでいる。 何としても、あなたたちを助けたい。」(LB)

神は私たちが方向転換できるように、機会を与えてくださいます。

「主は獅子のようにほえる。まことに主がほえると、子らは西から震えながらやって来る。」(10節)

神の愛、神の驚くばかりの恵みは、私たちの理解を超えています。

ホセア書 10:1-15

「あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れ、耕地を開拓せよ。今が主を求める時だ。ついに主は来て、正義の雨をあなたがたの上に降らせる。」(10:12)

エレミヤ書に同じように「耕地を開拓せよ。」(4:3)という命令があります。

エレミヤ書では、続けて「茨の中に種を蒔くな。」とあります。

すなわち、表面的ではなく、真の悔い改めを求めているということです。

「今が主を求める時だ。」

という発言は、明らかに主なる神以外に助けを求めていたことを示唆しています。

続く13節にこのように記されています。

「それはあなたが自分の力に、自分の勇士の数に拠り頼んだからだ。」

「自分の力」と訳された単語は「私の道」「私のやり方」という意味です。

聖書が言う罪とは自分中心の生き方です。

自分中心から神中心に方向転換をして、主なる神を求めること、その時、主は来られると言います。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

ホセア書 9:10-17

「私の神は彼らを退ける。彼らが神に聞き従わなかったからだ。彼らは国々の間で、さすらい人となる。」(9:17)

捕囚の原因、それは、

「彼らが神に聞き従わなかったからだ。」

と聖書は言います。

神に従うことを第一としなかったからです。

預言者サムエルは、神の言葉に従わなかったサウル王にこのように言いました。

「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」(1サムエル15:22,23)

どんな時でも、神のみ声に聴き従うことを優先させることができますように。