ヨハネ 15:1-16:4

「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」(15:17)

12節、17節とイエス様は繰り返し互いに愛し合うことが、イエス様の戒めだと言われました。問題は、他者を傷つけることが「自分は神に奉仕しているのだと思う」(16:2)人がいるからです。当時のユダヤ人たちは自分たちこそ正義を行っていると勘違いしてイエス様と弟子たちを迫害していました。半世紀ほど前に日本に来た学者は、日本のキリスト教会が成長しない理由は話し合って議論ばかり、批判ばかりしているからだと言いました。日本のキリスト教会に必要なのは愛し合うことと言われた感じがします。残念ながら半世紀たった今も、批判することで「自分は神に奉仕しているのだと思う」人々がいます。イエス様の戒めは互いに愛し合うことであることを忘れることがありませんように。

ヨハネ 14:1-31

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」(16節)

イエス様は、イエス様と同じ神である聖霊をイエス・キリストを信じる者に与えられると約束されました。

「その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」(20節)

とイエス様が言われたように、聖霊なる神様は、三位一体なる神の臨在の中で生きていることが分かるようにしてくださる生ける神です。

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(26節)

とあるように、今も私たちに教えてくださる生ける神です。

ヨハネ 13:18-38

「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(34節)

キリスト教会がこの世界で認知されるとするならば、それは愛だとイエス様は言われました。愛し合うことが、一番の伝道となると言われました。愛とはなんでしょうか?聖書は言います。

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」(1コリント13:4-8)

愛を実践することを選ぶことはイエス様の戒めであることを忘れてはいけません。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。」(34節)

ヨハネ 12:37-13:17

「あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。」(13:17)

イエス様が十字架にかかられる直前にしたことは、弟子たちの足を洗うことでした。それは、

「模範を示した」(15節)

とイエス様は言われました。つまり、キリスト者は批判し合うのではなく、互いに足を洗い合う群れとなるべきだと言われたのです。他者の汚れを指摘し合うのではなく、洗い合うべきだと言われたのです。残念ながらキリスト教会の二千年の歴史を振り返ると、必ずしもそうであったとは言えません。分裂に分裂を重ねた歴史は、自分の正義を貫いた結果ですが、それはイエス様の願っていた教会像とはかけ離れたものだったことを自覚する必要があります。

「それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。」

とイエス様は言われました。自分の正義や批判ではなく、愛と赦しを選ぶことができますように。

ヨハネ 12:12-36

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(12:24)

文脈を見ると、この箇所はイエス様ご自身のことに関して言われています。イエス様が十字架で私たちの罪ために死ななければ、人が救われることはありませんでした。同時に、次の節でこのように言われます。

「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」

キリスト者の生き方は、この世の人生を謳歌することが目的となるべきではありません。自分だけがこの世で良い目を見ることを目的に生きるならば神の御国はこの地に現わされることはありません。自分に死ぬ生き方が豊かな実を結ぶことをイエス様は示されました。楽しむことがいけないということではなく、この世がすべてのような生き方に対して警告しています。

ヨハネ 11:45-12:11

「そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行なっているというのに。」(11:47)

当時の宗教指導者の悲劇は、神よりも自分たちが正しいと考えていたことでした。だから祈るために集まるのではなく、議論するために議会を招集し、神のみこころよりも自分たちの意見を主張しました。その状況は次のことばでも分かります。

「もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」(48節)

すべての人がイエス・キリストを信じるようになるというのが、旧約聖書が指し示していたことなのに、彼らはその妨げとなっていたのです。しかも、その批判的な態度を正当化していたのです。私たちの役割はすべての人がキリストを信じるようになることです。

今日は主の日でありペンテコステの日。主に礼拝を捧げましょう!

※ 本日のSSCの第三礼拝はお休みです

ヨハネ 11:1-44

「イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」」(11:40)

弟のラザロが死に、墓に葬られて四日たっていました。それで、イエス様が墓石をとりのけるように言われた時、マルタは躊躇し、イエス様にもう臭くなっていると進言します。マルタの応答はとても常識的だったと思います。しかし、そんな常識的な応答をイエス様は一蹴します。

「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」

聖書は、

「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1新改訳二〇一七)

と言います。

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(同6節)

と言います。

ヨハネ 10:22-42

「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」(10:27)

イエス様の声を聞き分けるためには、常にイエス様の声を聞き続ける必要があります。そのためには、日々、聖書のみことばに親しむ必要があります。聖書は神のみことばであり、イエス様は聖書に矛盾することは語られません。おどろくことは、イエス様は私たちのことを知っておられるということです。3節では、

「彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。」

とあります。私たちの名前も覚えてくださっていて、その名で呼んでくださると言います。イエス様のものであるかどうかは、イエス様についていくかどうかで分かります。たとえ、理解できなくても、イエス様を信頼してついて行く、それがイエス様の羊としての生き方です。

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」(詩篇23:1)

と告白できる者は幸いです。

※ 本日のSSCの祈祷会はお休みです。

ヨハネ 9:35-10:21

「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(10:10)

盗人とは、サタン、悪魔のことです。悪魔の目的は、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。人々をだまし、破壊しようとします。パウロは言います。

「もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。」(2コリント2:10,11)

憎しみはサタンの業です。愛と赦しを妨げようとするのはサタンの策略です。なぜなら、イエス様が来られた目的は、私たちがいのちを得るためだからです。天国に行けるというだけでなく、今、この地上でも、豊かな人生を歩むためです。

ヨハネ 9:1-34

「イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」(9:3)

病気の原因を、何でも罪や悪霊のせいにするのは聖書的ではありません。イエス様は、

「神のわざが現れるため」

と言われたからです。生まれたときから目の見ないこの人は、イエス様によっていやされました。彼はただこう証します。

「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」(ヨハネ9:25)

聖書の神は癒し主であり、今も病を癒されます。キリストのからだである教会は、ですから、今も病気の癒しのために祈り続ける必要があります。弟子たちのように、「だれが罪を犯したからですか」と犯人捜しをするよりも、イエス様のように、「神のわざが現れるため」と祈る必要があります。