エゼキエル 38章

「多くの日が過ぎて、あなたは命令を受け、終わりの年に、一つの国に侵入する。その国は剣の災害から立ち直り、その民は多くの国々の民の中から集められ、久しく廃墟であったイスラエルの山々に住んでいる。その民は国々の民の中から連れ出され、彼らはみな安心して住んでいる」(8節)

38章は終わりの日の預言だと考えられています。チャック・スミス師は、この38章に出てくる国々は、イスラム圏の国々で、イラン、エチオピア、リビア、そして旧ソ連の南部のイスラム圏の国々を指していると言います。これらの国がやがて結束してイスラエルに攻め入ると言います。9節の「地をおおう雲」は、戦闘機の一団ではないかと言われます。もちろんエゼキエルが戦闘機を知る由もありませんから、彼は「地をおおう雲」としか表現できなかったのだと。今の世界情勢は、私たちに対する警告であるということを心に留めたいと思います。

エゼキエル 37章

「わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行なう。」(24節)

イスラエルの国は、ソロモン王の支配の後、北王国と南王国に分断されます。しかし、新しい契約では一つとなると言います。

「わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で、一つの国とするとき、ひとりの王が彼ら全体の王となる。彼らはもはや二つの国とはならず、もはや決して二つの王国に分かれない。」(22節)

彼らを治める「全体の王」、「ひとりの王」、「わたしのしもべダビデ」こそ、ユダヤ人が待ち望んでいた「ダビデの子」、「メシヤ」です。使徒パウロは二つの国を北王国と南王国の枠を超えて理解しています。

「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」(ガラテヤ3:28)

エゼキエル 36章

「わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。」(27節)

イスラエルの民はエジプトを脱出し、シナイ山で律法をいただき、契約の民となりました。しかし、彼らは律法をないがしろにし、バビロンに捕囚されます。神がそんな彼らに与える新しい契約は、石の板に刻まれた律法ではなく、彼らのうちに授ける聖霊だと言います。彼らの内に聖霊が住み、導くと約束します。ペンテコステの日、この約束は成就しました。その日、ペテロはこう説教しました。

「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」(使徒2:38,39)

エゼキエル 35章

「おまえはいつまでも敵意を抱き、イスラエル人が災難に会うとき、彼らの最後の刑罰の時、彼らを剣に渡した。」(5節)

セイル山に住んでいた人々とはエドム人のことです。彼らはイスラエルの民がエジプトから約束の地に向かう途中でもその道をさえぎり、数々の嫌がらせを行いました。この箇所にも記されているようにイスラエルを憎み続けたのです。それは世代が代わってもなお受け継がれ、ついにはバビロンが南ユダ王国を攻撃した際、その混乱に乗じて多くの痛みをもたらしました。彼らの動機は、憎しみ、敵意であり、徹底的にイスラエル人を苦しめました。しかし、彼らの憎しみは、憎む相手だけではなく、自分自身にも破壊をもたらしました。神様は私たちがいつまでも敵意を抱くことはやめなさいと言われます。敵意は私たち自身を破滅に追いやるからです。十字架によって敵意を廃棄されたイエス様(エペソ2:15)を見上げることができますように。

エゼキエル 34章

「あなたがたはわたしの羊、わたしの牧場の羊である。あなたがたは人で、わたしはあなたがたの神である。―神である主の御告げ。―」(31節)

神が私たちの本当の羊飼いだと聖書は言います。詩篇23:1に、

「主は私の羊飼いですから、必要なものはみな与えてくださいます。」(LB)

とありますが、神が自分の羊飼いなら、私たちに欠けることは何もありません。しかし、自分の羊飼いが人であるならば、話は別です。この章ではイスラエルの指導者たちに対する裁きが語られています。指導者を裁くのは、人ではなく、神であることが分かります。もっとも、神は全能ですが人は違います。神は遍在されますが人は違います。人は神のように対応することはできません。神に期待すべきことを、人に期待するなら、がっかりしてしまうことは明らかです。私たちが期待すべき、まことの羊飼いはイエス・キリストであることを心に留めたいと思います。

エゼキエル 33章

「あなたが、悪者にその道から立ち返るよう警告しても、彼がその道から立ち返らないなら、彼は自分の咎のために死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。」(9節)

「伝える責任」があると聖書は言います。伝えられたことにどう反応するかは、その人次第ですが、伝える責任は、伝える側にあると言います。私たちは自分たちの力で人を救うことはできません。しかし、伝えることはできます。もちろん、「ただ伝えればいい」という姿勢は正しくないと思います。相手に伝わるように、工夫して伝える努力はすべきだと思います。ですから教会は、あらゆる努力をして何とか福音を一人でも多くの人に伝えようと努めます。直接伝える方法もあれば、橋渡しをするような前伝道もあります。いずれにせよ、「人々にイエス・キリストを指し示すことによって、神に栄光を帰す」ことが私たちの教会の目的です。今日は主の日。共に礼拝を捧げましょう。

※ 今日は父の日。すべてのお父さんに感謝します。

エゼキエル 32章

「そこには、エドムとその王たち、そのすべての族長たちがいる。彼らは勇敢であったが、剣で刺し殺された者たちとともに、割礼を受けていない者たち、および穴に下る者たちとともに横たわる。」(29節)

この世の富、地位や名誉も、この世の人生を終えたらまったく関係ありません。永遠のいのちは、どんなに財産があっても、地位や名誉があっても、買うことはできません。現在、博物館に置いてあるミイラを見るときに、皮肉を感じさせられます。ミイラにしてもらいたかった人々は、その富と地位と名誉のゆえに、永遠のいのちを求めてミイラにしてもらったのにも関わらず、今では、その亡骸は、後世の人々の見世物となっているのです。しかも彼らの霊魂は、彼らの地位を主張できるようなところにはありません。真の「割礼」とは外見上のしるしではなく、神との契約関係があるということを意味します。イエス・キリストが十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえられたがゆえに、今、キリストを信じる者が永遠のいのちを持ち、天の御国に入ります。

エゼキエル 31章

「エデンの木のうち、その栄えと偉大さで、あなたはどれに似ているだろうか。あなたもエデンの木とともに地下の国に落とされ、剣で刺し殺された者とともに、割礼を受けていない者たちの間に横たわるようになる。これは、パロと、そのすべての大軍のことである。―神である主の御告げ。―」(18節)

この章で神はエジプトに、アッシリヤ帝国に何が起こったか、そこから学ぶようにと言います。栄華を極めたアッシリヤ帝国を神が落とされたことを思い起こさせ、アッシリヤと自分は違うとどうして言えるのかと問います。私たちも歴史から学ぶことはとても大切です。歴史を通じて、神がどのように国々に働かれたか、私たちは学ぶ必要があります。基本的には箴言14:34にこうあります。

「神を敬うことは国を高め、罪は民をおとしめます。」(LB)

私たちの国が神を敬う国となりますように。

エゼキエル 30章

「その日は近い。主の日は近い。」(3節)

この箇所の「その日」とは、エジプトが裁かれる日を指しています。LBではこう訳しています。

「大声で泣け。恐ろしい日が間近に迫っている。それは神の日、暗雲がたれこめる日、諸国の民の絶望の日だ。」

神がすべてを正される「裁きの日」は来ます。「主の日が近い」という意識をもって生きることは、聖書が私たちに語っている生き方です。イエス・キリストがいつ帰ってきてもいいように、良い緊張の中で生きるためにも、「主の日が近い」ということを意識する必要があります。また、「主の日が近い」というのは、希望をもって生きることでもあります。私たちは希望がなければ生きていくことはできません。神が介入される「主の日が近い」と意識して生きることは、とても大切なことです。「その日は近い。主の日は近い。」と、信仰的に、前向き、肯定的に生きていくことができますように。

エゼキエル 29章

「神である主はこう仰せられる。エジプトの王パロよ。わたしはあなたに立ち向かう。あなたは、自分の川の中に横たわる大きなわにで、『川は私のもの。私がこれを造った。』と言っている。」(3節)

エジプトにとっての川は、ナイル川を指しています。エジプトはナイル川を中心に発展した地ですが、別に、エジプトの国がナイル川を造ったわけではありません。創造主なる神が、ナイル川も造られたのです。このエジプトの傲慢さのゆえに、神の裁きがくだるという預言がこの二九章で語られている内容です。私たちも気をつけないと同じ間違いを犯すことがあるのではないでしょうか。よくよく考えて見ますと、神の恵みのゆえに今があるのにも関わらず、すべてを自分の功績にしてしまっていることはないでしょうか。神の前にへりくだり、神の驚くばかりの恵みを賛美しようではありませんか。今あるは神の恵みです。