箴言 8:32-36

「幸いなことよ。日々わたしの戸の傍らで見張り、わたしの門の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は。」(8:34)

日々のデボーション(QT)の重要性を語っている箇所です。日々、見張り、見守るように、聖書のみことばに耳を傾ける人は幸いな人だと聖書は言います。なぜならば、このようにして人はいのちを見出し、主から恵みをいただくからです。これはまさに、いのちと死に関わる重要な事柄です。イエス・キリストを信じると口で告白していても、日々、聖書のみことばを読まなくなると、死んでしまいます。キリスト者と言いながら、力がないのはそういうことです。LBでは36節をこのように訳しています。

「しかしわたしを見失う人は、自分をだめにする。わたしの忠告を退ける人は死を愛しているのだ。」

神のみことばを愛し、神のみことばに生きていくことができますように。

詩篇 41:7-13

「いつまでも、あなたの御前に立たせてください。」(41:12)
ダビデの心は複雑でした。彼を憎み、彼に対して悪を企む人たちがいたからです。ダビデは言います。
「私が信頼した親しい友が、私のパンを食べている者までが、私に向かって、かかとを上げます。」(9節新改訳二〇一七)
ダビデは、信頼していた人たちからも裏切りを体験しました。しかし、ダビデは言います。
「あなたは敵が私に勝ち誇ることをお許しになりませんでした。私は自分があなたの目にかなっていることを知りました。」(11節LB)
誰が悪口を言ったとしても、神が自分を喜んでおられることを知っていたのでダビデは揺らぐことがありませんでした。彼の究極的な願いはいつも神の臨在だったからです。神の臨在だけが彼の本当の必要を満たすことができることを知っていたからです。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

詩篇 41:1-6

「幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。」(41:1)

社会的弱者に心を配ることは意味があるというのが聖書が教えていることです。スポルジョン師は、

「捧げることによって彼らの富が失われると恐れる事は、なんと愚かなことか」

と言いました。イエス様はたとえ話の中で、神の審判の日のことを語っています。その日、王は言われます。

「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』・・・あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(マタイ25:35,36,40)

神はすべてをご存じです。

詩篇 40:9-17

「あなたを慕い求める人たちがみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「主は大いなる方」と、いつも言いますように。」(40:16)

「主は大いなる方」です。主を大きくする時、問題は小さくなります。問題が大きく感じるのは、神様を小さくしているからです。私たちはいつも、主の偉大さを告白する必要があります。輝く日を仰ぐ時、月星眺める時、雷鳴り渡る時、森にて鳥の音を聞く時、そびゆる山に登る時、谷間の流れの声を聞く時、どんなに偉大なお方だろうと歌い続けることが大事です。そして、私たちは神の偉大な御業を自分だけのものとするのではなく、大きな会衆で分かち合う必要があります。(9、10節)その日を待ち望みつつ、主の偉大な御名を賛美しましょう。主は私たちの助け、私たちを救い出すお方です。

箴言 8:22-31

「わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。」(8:31、32)

箴言は人格化された知恵が紹介されています。

「主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。」(22節)

とあるように、この人格化した知恵は、初めから存在したと言います。そしてこの人格化した知恵は、すべてのものが合うように、

「組み立てる者」(30節)

として存在していたと言います。この世界で生きていくために、私たちは、私たちを導く存在が必要です。神は私たちのために聖霊を与えてくださいました。聖霊なる神は、創造のときから知恵の霊として存在しておられました。創造の時と同じように、聖霊なる神は、私たちの人生を組み立ててくださいます。聖霊なる神は、喜んでその御業をなされています。

詩篇 40:1-8

「私は切に、主を待ち望んだ。主は私に耳を傾け、助けを求める叫びを聞いてくださった。」(40:1)

原文のヘブル語は、単語を二つ並べると強調表現になるのですが、まさに、この詩のはじめは、「待つ」という言葉が二回続いています。つまり、まず「待ってる。私は待ってる!」という詩人の叫びが描かれています。私たちも新型コロナウイルスの収束を待っています。「いつまで?」と思います。イザヤ書にはこういう箇所があります。

「泣くのも悲しむのも、上から聖霊が臨まれるまでです。そして、悪い荒地が作物を成長せ、肥沃な地が森になります。」(32:15MSG)

「上から聖霊が臨まれるまで」、もちろん、何もしなくてもいいという意味ではありません。ダビデは、「主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。」と言います。つまり、主を求め、主に祈り、主に叫び続けることが大事なことです。主は、私たちの口に、「新しい歌」を授けてくださいます。

詩篇 39:1‐13

「主よ。お知らせください。私の終わり、私の齢が、どれだけなのか。私が、どんなに、はかないかを知ることができるように。」(39:4)

身体的に問題がないと、死を意識する人は少ないと思います。しかし、人は死亡率100%であり、その時は必ずやってきます。人間のはかなさを意識しないがゆえに、「人生の意味」という重要な問いをせず、人生を無駄に生きてしまうことがあると思います。人生時計があるならば、自分は今、何時に生きているのかを意識することは、大事なことだと思います。詩人が祈るように、人間のはかなさを認識することは大切なことだと思います。賢く時間を用いて、神に頼り生きていくことを学ぶことができるからです。しかし、キリストが復活されたことを知っている私たちは、はかなさだけではなく、永遠の世界があることも覚える必要があります。神の御国は絶えることはありません。

詩篇 38:13-22

「それは、主よ、私があなたを待ち望んでいるからです。わが神、主よ。あなたが答えてくださいますように。」(38:15)

問題のただ中、詩人はただ祈って神を待ち望むことを選びました。

「いつまで私は危険な崖っぷちに立っていなければならないのでしょう」(17節LB)

崖っぷちに立ち尽くしながらも、詩人は、ただ主を待ち望むことを選びました。時として私たちができる最善の行動は、ただ主を待ち望み、祈ることです。どんなことよりも、ただ黙って祈りに専心することが善い時があります。詩人はそのことを体験したからこそ、この詩が詩篇として私たちのために記録されたのだと思います。アルファのニッキー先生はこんなことを言っています。

「祈りはキリスト教の中心にあります・・・次のような格言があります。悪魔は、私たちの言葉をあざ笑い、私たちの労苦をばかにする。しかし、私たちが祈るとき、悪魔は震えおののくのだ。」

箴言 8:12-21

「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。」(8:17)

この箇所の一人称単数の「わたし」は、12節にあるように「知恵」(WISDOM)です。「知恵」は13節にあるように、「主を恐れること」「悪を憎むこと」とあるように神との関係から始まります。神を意識することが知識の土台となります。そして、知恵はすべての人が見出すことができます。「わたしを愛する人をわたしも愛し/わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。」(新共同訳)ですから、ヤコブは言いました。「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」(ヤコブ1:5)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

本日の主日礼拝は、第二礼拝(10時半)のみ、YouTubeのライブ配信でおこないます。
教会として、新型コロナウイルス感染の一日も早い収束を祈ります。冷静さを保ち、デマなどに振り回されることなく歩むことが出来ますように。神様の守りと助けをお祈りしています。

詩篇 38:1-12

「主よ。私の願いはすべてあなたの御前にあり、私の嘆きはあなたから隠されていません。」(38:9)

ダビデは自分の愚かさが招く苦しみを理解していました。ダビデは、

「それは私の愚かしさのためです。」(5節)

と告白しています。ダビデは自分の過ちだけでなく、反対者の罠にも対処しなければなりませんでした。

「私のいのちを求める者はわなを仕掛け、私を痛めつけようとする者は私の破滅を告げ、一日中、欺きを語っています。」(12節)

一難去らずにまた一難と、時には、どうしてこんなに痛めつけられなければならないのだろうと思います。ダビデはこのような中で、神がすべてをご存じであることに慰めを覚えます。神はそれでもなお彼を赦し、救い出してくださると信じていました。預言者エレミヤもこのように歌っています。

「実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は偉大です。』」(哀歌3:22,23)