イザヤ書 38:1-40:31

「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(40:31)

イザヤ書は40章から雰囲気が変わります。ですから、学者によっては別の人が書いたのではないかと推測もされています。ちょうど、旧約聖書は39巻あり、40巻から新約聖書がはじまるように、この章から希望を感じるような預言が増えます。今日の箇所は、特に有名な箇所です。

「待ち望む」と訳されているように、ただ「待つ」のではなく、期待して待つことがここでのポイントです。しかも、「主」(ヤハウェ)の助けを信じ、期待し、待ち望むということです。「新しく力を得」の「新しく」と訳された単語は「交換する」という意味があります。つまり、私たちの弱さを神の力と交換して、鷲のように翼をかって上ることができると言うのです。まさに、ペンテコステの日、神の霊が人々に下り、このみことばが成就しました。

イザヤ書 36:1-37:38

「あなたはだれをそしり、ののしったのか。だれに向かって声をあげ、高慢な目を上げたのか。イスラエルの聖なる方に対してだ。」(37:23)

36章、37章に出てくるアッシリヤ軍がエルサレムを包囲した出来事は、聖書以外にも文献が残っています。この時、ヒゼキヤ王をはじめ南ユダ王国の人たちは、誰に拠り頼んでいるかが試されました。ヒゼキヤ王は、アッシリヤ王の言葉よりもイスラエルの神を信頼することを選び、神の救いを体験しました。そしてアッシリヤ王も、だれに向かって声をあげたか、思い知ることとなりました。神様は言われました。

「あなたがわたしに向かっていきりたち、あなたの高ぶりが、わたしの耳に届いたので、あなたの鼻には鉤輪を、あなたの口にはくつわをはめ、あなたを、もと来た道に引き戻そう。」(29節)

アッシリヤ帝国は、この後、滅亡の一途を辿ります。

今日は、主の日。神を信頼することを選び、礼拝を捧げましょう。

イザヤ書 33:1-35:10

「そこに住む者は、だれも『私は病気だ。』とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。」(33:24)

ここで言われている「そこ」とは、「神の国」、「天の御国」のことだと思われます。私たちはこの世に生きている限り病気をします。どんなに癒されても、やはり病気をし、死に直面します。そして、病気をするたびに、自分は神ではなく、有限な人間であるということを痛いほど教えられ、謙虚にさせられます。完全な人などこの世には存在しません。しかし、神はこうおっしゃられました。

「わたしは主、あなたをいやす者である。」(出15:26)

神は私たちをいやしてくださるいやし主です。神の国はすでに来ているので、病気はいやされます。しかし、まだ完全ではありません。ですから、死の後の後、復活後、新しい天と新しい地で、私たちはみな完全にいやされた状態で永遠に生きます。

「主が彼らの罪を赦し、彼らを祝福するからです。」(LB)

イザヤ書 30:19-32:20

「しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。」(32:15)

今日の箇所をLBではこう訳しています。

「しかしついには、天から御霊が注がれ、再び、見渡す限りの豊かな収穫が見られるようになります。」

聖霊なる神が臨まれる時、大きな変化が起こるという世界があります。日頃のコツコツとした積み重ねが大切なことは当然ですが、聖霊が臨まれるという神の領域があることを認識することも大切なことです。私たちは自分の限られた能力ではなく、無限の神に希望を抱いて生きることが大切です。メッセージ訳はこう訳しています。

「そうです。泣くのも悲しむのも上から私たちに聖霊が注がれるまでです。」

私たちの涙が喜びに、悲しみが踊りに変えられる神の時があります。その日を待ち望みつつ、今を生きることができますように。

イザヤ書 29:1-30:18

「ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。造られた者が、それを造った者に、「彼は私を造らなかった。」と言い、陶器が陶器師に、「彼はわからずやだ。」と言えようか。」(29:16)

今日の箇所は、私たちが創造主なる神に対してどのように考えるべきかを明確にしてくれる箇所だと思います。神は私たちを造られた神であり、私たちは神に造られた被造物です。神は神であり、人は人です。人が神になることはありません。しかし、人は倒錯を起こして、創造主なる神に対して「神は何も分っていない」などと言っていることがあるのではないでしょうか。創造主なる神はすべてをご存じであり、しかも、私たちを愛しておられます。私たちは神の指紋がついた、神の作品であることを忘れてはいけません。私たちは有限な人間であり、無限の神と対等の存在ではありません。神を神として認めることができますように。

イザヤ書 27:1-28:29

「時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす。」(27:6)

100年ほど前、この預言は夢のような話でした。イスラエルの国はまさに荒野であり、植物とは無縁な土地だったのです。ですから、ありえないという比喩としか理解することはできませんでした。しかし、1900年代のはじめ、ユダヤ人たちはアラブ人たちから荒れた土地を買い、その土地に植物が育つように改良しました。今、イスラエルに行くならば農地を見ることができます。そして、世界でも五本の指に入る果物輸出国となっています。(日本でも、ヤッホ・ルビーと呼ばれるイスラエル産の果物が輸入されています。)神は2700年ほど前に、すでにこのことが起こることを知っておられました。

「やがてイスラエルが根を張り、つぼみをつけ、花を咲かせ、世界をその実で満たす時が来る。」(LB)

神にできないことはありません。神の約束は必ず成し遂げられます。

イザヤ書 24:1-26:21

「月ははずかしめを受け、日も恥を見る。万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、栄光がその長老たちの前に輝くからである。」(24:23)

イザヤはやがてヤハウェなる神ご自身が治めるために来られると預言しました。

「シオンの山、エルサレムで王となり」

というのは、ダビデの王国の完成を意味します。神ご自身が王となり、その民を牧される。イエス・キリストはエルサレムで十字架にかかられました。その十字架の上には、「ユダヤ人の王」と刻まれました。誰が想像したでしょうか。神はそのひとり子を与えることによって王となられました。子なる神イエス・キリストは、すべての人の罪のために死ぬことによって王となられました。LBでは今日の箇所をこう訳しています。

「ついに天の軍勢の主はシオンの御座にのぼり、イスラエルの長老たちの見ている前で、エルサレムを中心に世を治めます。その栄光は、太陽の輝きも月のうるわしさも、色あせてしまうほどです。」

イザヤ書 20:1-23:18

「ドマに対する宣告。セイルから、私に叫ぶ者がある。「夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か。」夜回りは言った。「朝が来、また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。もう一度、来るがよい。」」(21:11,12)

イザヤのところにエドムの人々が、アッシリヤの脅威はいつまでかと尋ねにやってきました。イザヤはエドムの人々に、本当にそのことが知りたいのなら、心からもう一度尋ねに来るようにと言いました。神は今も同じようにされることがあります。鎮痛剤程度に神を求めてきても、神はその人が心から求めに来るまで答えを待たれることがあります。聖書は言います。

「神のもとに来ようとする人はだれでも、神の存在と、熱心に神を求めれば神は必ず報いてくださることを、信じなければなりません。」(ヘブル11:6LB)

スポルジョンは言います。

「それが好きであれ、嫌いであれ、求めることは神の国のルールです。」

熱心に主を求めましょう。

イザヤ書 17:1-19:25

「その日、人は自分を造られた方に目を向け、その目はイスラエルの聖なる方を見、自分の手で造った祭壇に目を向けず、自分の指で造ったもの、アシェラ像や香の台を見もしない。」(17:7,8)

本当に大変な時、私たちはどこに向かっているでしょうか。自分の手で造ったものは、結局は、自分の能力を超えることはありません。自らを縛ることはあっても、解放することはありません。私たちは、自分が造ったものではなくて、自分を造った方に目を向けるべきです。無から有を生じさせることができる、創造主を見上げるべきです。

「人にはできない事も、神にはできる」(ルカ18:27口語訳)

私たちの手で造ってしまうものは、物だけでなく、哲学や思想もあると思います。自分流の考えも、自分を超えることはありません。私たちは、自分を造った方、そのみことばである聖書に目を向けるべきです。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

イザヤ書 14:1-16:14

「あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山に座ろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』」(14:13,14)

この箇所は一般的にサタン(ルシファー・12節)について言及している箇所だと考えられています。エバを「あなたがたが神のようになり」(創世記3:5)と誘惑してきた悪魔がどのようにして存在するようになったのかを解き明かすカギがこの箇所に記されています。悪魔はいつの時代も、この誘惑を私たちの心に忍ばせてきます。神のようになろうとする欲求は昔も今も変わりません。人間は今も神に対抗できるかのようにバベルの塔を築き上げようとし、その結果、混乱(バベルの意)がますます世界に広がっています。神は神であり、人は神になることはできません。神は絶対者であり、対立できる存在はいません。悪魔の嘘にだまされないように、神を神として認めていくことができますように。