アモス書 6:1-7:17

「そのいなごが地の青草を食い尽くそうとしたとき、私は言った。「神、主よ。どうぞお赦しください。ヤコブはどうして生き残れましょう。彼は小さいのです。」主はこのことについて思い直し、「そのことは起こらない。」と主は仰せられた。」(7:2,3)

イザヤ書にこういう箇所があります。

「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。」(59:16)

もっとも、アモスは、イスラエルの人々のために必死でとりなしました。そして、神はアモスのとりなしの祈りに応えてくださいました。私たちは社会の問題に対して心を痛めるだけでなく、アモスのようにとりなしの祈りをすることが求められています。神は言われます。

「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」(1歴代誌7:14)

アモス書 5:1-27

「まことに主は、イスラエルの家にこう仰せられる。『わたしを求めて生きよ。ベテルを求めるな。ギルガルに行くな。ベエル・シェバにおもむくな。ギルガルは必ず捕え移され、ベテルは無に帰するからだ。』」(5:4,5)

ベテルもギルガルもベエル・シェバも、当時の偶像礼拝の中心地でした。イスラエルの人々は、まことの神を求めることよりも、目に見える偶像を参拝していました。問題は、偶像は人間が造りあげたものでしかないということです。しかし人は、その代替品に満足してしまい、生けるまことの神を求めることをしません。だから、神は言われます。

「私を求めよ、そして生きよ。」(協会共同訳)

私たちのすべての必要に本当の意味で唯一答えることができるのは、生ける神イエス・キリストだけです。人にはできないことも、神にはできます。ですから、私たちは、イエス・キリストを指し示していく必要があります。イエス・キリストを求めるならば、望みがあります。

アモス書 3:1-4:13

「見よ。山々を造り、風を造り出し、人にその思いが何であるかを告げ、暁と暗やみを造り、地の高い所を歩まれる方、その名は万軍の神、主。」(4:13)

聖書の神は

「山々を造り、風を創造され、その計画を人に告げ」(協会共同訳)

ると言います。英訳では

「彼の思いを人類に現わす」(NLT)。

では、「神の思い」はどのように現わされたのでしょうか。

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)

つまり、イエス・キリストを通して神の思いは現わされました。イエス・キリストは、私たちの罪のために死なれるためだけでなく、神の思いを現わすために来られました。私たち人間はすぐに自分なりの神々を作り、自分の思いを神の思いとすり替えてしまいます。ですから、

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれ」(ヨハネ1:14)

る必要がありました。私たちは、イエス・キリストを通して現わされた神の思いを受け入れる必要があります。

アモス書 1:1-2:16

「わたしは、あなたがたの子たちから預言者を起こし、あなたがたの若者から、ナジル人を起こした。イスラエルの子らよ。そうではなかったのか。―主の御告げ。―それなのに、あなたがたはナジル人に酒を飲ませ、預言者には、命じて、預言するなと言った。」(2:11,12)

ナジル人とは、ある期間特別の仕方で神に仕えることを約束した、いわゆる献身者です。その期間は様々でしたが、髪を切らず、お酒を飲むことをしませんでした。ですから、ここで酒をナジル人に飲ませたということは、献身をよく思わず、誘惑し、罪を犯させたということです。聖書は言います。

「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(Ⅱテモテ3:12)

この世界で敬虔に生きようとすることを妨げようとする人がいます。また、聖書の預言とは神のことばを語ることですが、神のことばを語ることを禁じる人もいます。私たちは互いに祈り合い、励まし合う必要があります。

ヨナ書 1:1-4:11

「ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへのがれようとしたのです。私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。」(4:2)

ヨナは神が情け深くあわれみ深い神であることに対して怒りました。神がどうしてそんな人を預言者として用いられたのだろうと思ってしまいますが、私たちも似たような所があるのではないでしょうか。自分に対して、神があわれみ深くても当前のように受け入れます。しかし、他人が、特に、北イスラエルを滅ぼすアッシリヤの首都ニネベのように自分がふさわしくないと思う人の上に神のあわれみが注がれると、素直に受け入れられなかったりするのです。しかし、神のあわれみ深さは測り知ることはできません。今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

2列王記 24:8-25:30

「彼の生活費は、その一生の間、日々の分をいつも王から支給されていた。」(25:30)

列王記の最後の章は、バビロン帝国によるエルサレムの包囲、陥落という悲劇が記されているのにも関わらず、最後の節は、何か希望を与えてくれます。ネブカデネザル王の死後、エビル・メロダク王は、ユダの王エホヤキンに恩赦を与え、牢獄から釈放しました。それだけでなく、彼に親切にし、厚遇しました。

「エホヤキンは生きている間、王から日々の生活費を支給されました。」(LB)

ちいろば先生こと榎本保郎師はこの箇所に関してこんなコメントをしています。

「私たちにとって大切なことは現実を正しく把握することと共に、現実を支配したもう神を見失わないことである。そのときヒステリックな悲観主義にも、無責任な楽観主義にもなることはない。現実をしっかりと受けとめながら、それがどうあろうとも、なおそこで希望をもって生きることができるのである。」

2列王記 23:1-24:7

「王は主の宮へ上って行った。ユダのすべての人、エルサレムの住民のすべて、祭司と預言者、および、下の者も上の者も、すべての民が彼とともに行った。そこで彼は、主の宮で発見された契約の書のことばをみな、彼らに読み聞かせた。」(23:2)

ヨシヤ王は人々を集め、神のみことばを読み聞かせました。協会共同訳では、

「子どもから大人まですべての民と一緒に」

と訳しています。このみことばの読み聞かせが、この章に出てきているヨシヤ王の宗教改革をもたらせました。神のみことばが人々をまことの礼拝へと導いたのです。神のみことばにはそのような力があります。神のみことばは私たちをまことの礼拝へと導いてくれます。聖書は言います。

「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)

私たちは神のみことばである聖書のメッセージをまず聞く必要があります。信仰は、聞くことから始まります。

2列王記 21:1-22:20

「王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いた。」(22:11)

聖書のみことばは、私たちに行動を求めます。聖書は言います。

「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ1:22)

ヨシヤ王は神のみことばに対して真剣だったので、みことばを聞いた時、心を痛め、主の前にへりくだり、自分の衣を裂き、主の前で泣きました。そして、祭司たちに命じました。

「行って、この見つかった書物のことばについて、私のため、民のため、ユダ全体のために、主のみこころを求めなさい。」(13節)

神はそんなヨシア王の姿をご覧になっていました。私たちも神のみことばの前に襟を正し、みことばに応答していくことができますように。神の前にひりくだり、主のみこころに心を留めることができますように。

2列王記 19:14-20:21

「ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上って行って、それを主の前に広げた。ヒゼキヤは主の前で祈って言った。『ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。」(19:14,15)

エルサレムはアッシリヤの軍勢に囲まれ、ヒゼキヤ王は行き詰まりました。彼らはヒゼキヤ王に言いました。

「おまえの信頼するおまえの神にごまかされるな。おまえは、エルサレムはアッシリヤの王の手に渡されないと言っている。おまえは、アッシリヤの王たちがすべての国々にしたこと、それらを絶滅させたことを聞いている。それでも、おまえは救い出されるというのか。」

ヒゼキヤ王は問題を神の前に持っていきました。神は預言者イザヤを通して彼に語り、事実、彼らを守られました。テイラープリズムもそれを物語ります。聖書の神は今生きて働かれ、祈りに答えられるお方です。

2列王記 18:1-19:13

「彼は高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。そのころまでイスラエル人は、これに香をたいていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。」(18:4)

民数記21章に、荒野を旅していたイスラエルの民が神に文句を言う出来事が記されています。神は奇蹟的なマナで彼らを養っていたのに、彼らは言いました。

「私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」(5節)

それで神は燃える蛇を送り、多くのイスラエルの人々が蛇に噛まれて死にました。モーセは、神が命じられたように一つの青銅の蛇を作りました。人々はその青銅の蛇を見上げると、生きました。しかし、イスラエルの人々は、今度はその青銅の蛇を礼拝するようになっていたというのです。神の約束に対する信仰が彼らをいやしたのであって、青銅の蛇の彫像物が彼らをいやしたわけではありません。

神ではなく、道具を崇めていないでしょうか?