詩篇134:1-3

「聖所に向かってあなたがたの手を上げ、主をほめたたえよ。」(2節)

「都上りの歌」は、この詩によって完結します。「主の家」で主に仕え、賛美を捧げることがゴールです。それは、牧師になるという意味ではありません。ウェストミンスター小教理問答書にもあるように、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」神に栄光を帰す生き方こそゴールです。神に賛美をささげる方法の一つは、手を上げることです。手を上げる理由は、いろいろあります。私たちが両手を上げる時、それは、降参する時です。ですから、絶対者なる神に降参して、すべてを明け渡すことを象徴して手を上げます。私たちの人生には自分の力ではどうしようもないことがたくさんあります。神の前に両手を上げて、「主よ、臨んでください!」と叫ぶ時、実は、私たちは神を神として認めているのです。両手を上げて、神の栄光をあらわし、神を喜ぶことができますように。

詩篇133:1-3

「見よ。なんという幸せなんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは。それは頭に注がれた貴い油のようだ。それはひげにアロンのひげに流れて衣の端にまで流れ滴る。それはまたヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(1-3節)

集まるということは、キリスト教が成立した当初から大切にされてきていることです。信仰は個人的な側面がありますが、集まるということを過小評価するのは聖書的ではありません。私たちがイエス・キリストにあって集まるそのところに、神はとこしえのいのちの祝福を命じられるとあります。ここに、私たちの理解を超えた世界があります。だから聖書は言います。

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)

箴言28:18-28

「自分の心に頼る者は愚かな者、知恵をもって歩む者は救われる。」(28:26)

自分の心に従って生きることを勧める人がいます。しかし聖書は、それは愚かな生き方だと言います。

「もしあなたが全てを知っていると思うなら、あなたは確かに愚か者です。本物の生存者(サバイバー)は他者から知恵を学びます。」(MSG)

新型コロナの感染拡大のため自粛生活が続いています。しかし、どんなに空間的に孤立していても、霊的に孤立しないように気をつける必要があります。キリスト者の完全は、互いの欠けを補い合うことであり、私たちは信仰の家族を必要としています。共に聖書の御ことばに耳を傾け、互いに祈り合う存在が必要です。成熟した大人として、自立することは大事なことですが、それは、自分を過信することとは違います。聖書は言います。

「自分に頼るのは愚かですが、神の知恵に頼れば安全です。」(LB)

詩篇132:1-18

「これはとこしえにわたしの安息の場所。ここにわたしは住む。わたしがそれを望んだから。わたしは豊かにシオンの食物を祝福しその貧しい者をパンで満ち足らせる。」(14,15節)

イエス・キリストが「ここにわたしは住もう」とおっしゃられた場所、それが教会です。こう言われました。

「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)

二人でも三人でも、イエス・キリストのみ名によって集まるそのただ中に住むことを望まれました。その場所で、私たちを満ち足らせることを決められたのです。毎週日曜日、イエス・キリストのみ名によって集まることには、そのような意味もあります。

「教会は、キリストの体であって、すべてを造り、すべてを満たすキリストの霊が満ちあふれるところです。」(エペソ1:23LB)

ですから、教会は、この世界の希望です。

詩篇131:1-3

「まことに私は私のたましいを和らげ静めました。乳離れした子が母親とともにいるように乳離れした子のように私のたましいは私とともにあります。」(2節)

LBは「乳離れした幼児のように、主の前で静かにしています。もう、あれこれ願い事を並べ立てるのはやめました。」と訳しています。これは、幼児がお母さんの存在が感じられるその所で完全に満足しきっている状況を現しています。私たちも神の臨在の中で、同じように満足することができます。これが神への完全な信頼へ導きます。実際に3節でこうまとめています。

「あなたもまた、今も、これからも、静まって主に信頼しなさい。」(LB)

生ける神の臨在は、神への完全な信頼に私達を導いてくださいます。ですから、今日も生ける神、主イエス・キリストの臨在を求めましょう。イエス様の臨在の中で私たちは本当の満足を得ることができます。今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう。

詩篇130:1-8

「私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。」(5節)

主を待ち望む、主のみことばを待つとは、神がされるとおっしゃられたことは、神が行なわれると期待して生きていくということです。神の時に、神の方法で行なわれることを願うことです。私たちが神に、いつ、どうやってと自分のやり方を押し付けることとは対極にあります。神を待ち望んで生きていくならば、失望に終ることはありません。詩人は続けて言います。

「主を信じて希望を持ちなさい。主は恵み深く親切で、両手いっぱいの祝福をかかえて来てくださるからです。」(7節LB)

神の時は必ず訪れます。神は来られます。主を待ち望む者を、あふれるほど祝福するために来られます。最高の日は、まだ、これからです。

箴言28:7-17

「幸いなことよ、いつも恐れる心を持つ人は。しかし、心を頑なにする者はわざわいに陥る。」(28:14)

「柔らかな心を持つ人は祝福された人生を生きます。頑なな心を持つ人は、大変な人生を生きます。」(14節MSG)

本当の自分を隠すことはできません。自分をよりよく見せようとしても、結局、メッキは剥がれます。しかし、私たちが心の中にあるものと向き合う時、素晴らしいことが起こります。ですから聖書は言います。

「自分の誤りを認めない者は成功しませんが、素直に認め、直そうとする人には、別のチャンスが転がり込みます。」(13節LB)

私たちは聖書の教えをないがしろにしてはいけません。なぜなら聖書は警告します。

「神は、神に聴こうとしない人たちの祈りを用いることはしない」(9節MSG)

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(1ヨハネ1:9)

詩篇129:1-8

「主は、正しくあり、悪者の綱を断ち切られた。」(4節)

ユージーン・ピーターソンという学者は「主は、正しくあり」を「主はそれに甘んじず、私たちから離れない」と訳しています。そして、こんなことを言っています。「この詩で強調されていることは、神と私たちとの関係です。神は私たちのためにいつもそこにおられるということです。私たちの人生の中にある神の臨在こそが、私たちが人生を振り返ることができる理由です。」キリスト者が人生を振り返り、神をほめたたえることができる理由は、神の臨在をそこに認めることができるからだと言います。どんなに辛かったことも耐え忍ぶことができたのは、そこに神がおられたからだと。辛かったこと、悲しかったこと、苦しかったこと、失望したこと、その所を祝福の場所として見るとき、痛みは詩の一行となります。

詩篇128:1-6

「あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福で、しあわせであろう。」(2節)

聖書は自分の手の勤労の実を食べることは幸せなことと教えます。労働に対する報酬を受けることが、人に満足感を与えます。この世においては「自分の仕事に生きがいを見いだす以上に幸福なことはない」(伝道者3:22LB)とまで言います。神を信頼して正しく生きようと努め、正当な報酬を受けるならば、本当の幸福を体験します。「その人へのほうびは、繁栄と幸福です。」「これこそ、主を信頼する人たちの姿です。主が天から祝福と喜びを注いでくださいますように。」(2,4,5節LB)ジョン・ウェスレー師は言います。「できるだけ儲けて、できるだけ貯めて、できるだけ与えなさい。」勤労の実である富と繁栄を何に用いてるでしょうか。主は言われます。「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」

詩篇127:1-5

「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」(1節)

神が建築責任者となってくださいますが、私たちが建てなければ家は建ちません。神が守ってくださいますが、見張りが必要ないというわけではありません。私たちの側がすべき分と神がなさる分があります。ですから、主を信頼することは、受け身になって、何もしなくてもいいということとは違います。逆に、謙遜に自分の分を努めることが求められます。神の御国がこの地にもたらされることを祈り求めるということは、自分がその神の使命(ミッション)に積極的に生きることも意味します。ただ、同時に二節のことばを忘れないようにする必要があります。「主は、愛する者には必要な休息を与えようとなさるお方です。」(LB)休息もまた、私たちの分です。