マタイ13:18-35

「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」(31,32節)

からし種は本当に小さい種です。しかし、大きな木になります。神の国の働きも、本当に小さな働きのように見えます。しかし、必ず生長します。ですから、神の国のためのどんな小さな働きも私たちは軽視すべきではありません。神様は言われます。

「だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか。」(ゼカリヤ4:10)

私たちが参与している神の国の働きは、今は目立たない、小さく、隠されたような始まりかもしれませんが、必ず実を結びます。その時の栄光と偉大さは、現在の小さな存在から想像もつかないものとなります。

マタイ12:46-13:17

「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。」(13:16)

こうして神様のみことばを読むことができる幸いを私たちは当然のことのように思うべきではありません。イエス・キリストがこの地に生まれ、私たちの罪のために死なれ、葬られ、よみがえられたことの幸いを当たり前のように思ってはいけません。使徒パウロは、

「イエス・キリストは律法を完成(成就)しました」(ローマ10:4)

と言いましたが、イエス・キリストの福音に生きることができる私たちは、預言者や義人よりも祝福された者です。また、こうして教会に属すことができ、共に礼拝を捧げる神の家族が与えられ、共に聖書を読むことが出来る幸いに心を留めたいと思います。

マタイ12:1-21

「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。」(7節)

この箇所で問題になっているのは、弟子たちが他人の麦畑で穂を摘んで食べたことではなく、安息日に穂を摘むと言う労働をしたということです。貧しい者が穂を摘んで食べることは、社会福祉として神の律法として定められていたことでした。パリサイ人たちは、ひもじくなって、穂を摘んで食べ始めた弟子たちを見つけて、批判をしましたが、何か食べる物を提供したとは書いていません。イエス様が引用したダビデとその連れの者たちがひもじかった時の話(1サムエル21章)では祭司が彼らにパンを与えたとあります。何も与えないで批判だけするパリサイ人との比較を感じます。「あわれみ」に生きる者となれますように。

マタイ11:16-30

「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(11:29)

イエス様が誕生する約180年前に書かれた外典のシラ書にこんな事が書いてあります。

「わたしのそばに来なさい、無学な者たちよ、学舎で時を過ごしなさい。なぜ、いつまでもそのままの状態でいるのか。お前たちの魂は激しく渇いているのに。」「くびきの下にお前の首を置き、魂に教訓を教え込め。知恵はすぐ身近にある。」(五一・二三、二四、二六)

当時のユダヤ人にとって「くびき」は律法を学ぶことでした。主に飢え渇いて当時の宗教指導者たちから「律法のくびき」を負った人は、疲れた人、重荷を負っている人となっていました。私たちは誰のくびきを負うか、誰から学ぶかが重要です。イエス様のくびき、イエス様から学ぶならば安らぎを見いだします。

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう!

マタイ10:32-11:15

「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」(11:12)

「天の御国は激しく攻められています。」と訳された箇所は、受動態としてではなく、「天の御国は力強く到来しています」と中動態として訳すことができます。神の支配が罪人を救おうとして力強く到来していて、それに応えて、同じ力強さで求める人たちは、それをひったくるような力強さで受け止めているというのです。バプテスマのヨハネの質問に対して、イエス・キリストが行っていた御業を伝えた後にこの発言をしています。神は私たちを救うために、どれほど激しく、御業を行われているかを、心に留めたいと思います。

マタイ10:1-31

「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。」(29節)

二羽の雀で売られているという意味は、一羽では値がつかないということです。しかし、そんな一羽さえも、神は気にかけておられると言います。私たちも日々の生活の中で、色々な評価を受けます。自分の存在価値を見失うこともあります。しかし、神の目には高価で貴いということを心に留めたいと思います。

マタイ9:14-38

「また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」(9:17)

イエス・キリストによってもたらされた新しさを受け入れるために、当時の人々は世界観を刷新される必要がありました。同じように、聖霊なる神様によってもたらされる新しさを受け入れるためには、私たちも刷新され続けられる必要があります。

「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」(イザヤ43:19)

マタイ8:23-9:13

「すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。」(9:2)

イエス・キリストは、罪人が罪人のままであってよいとは断じて言いません。この箇所でも、「彼らの信仰を見て」と、信仰を前提としています。しかし、この中風の人がイエス・キリストのもとに行くために、みもとに運んできた人たちがいました。私たちもとりなしの祈りをしたり、イエス・キリストを伝えることを通して、イエス・キリストのみもとに人々をお連れする必要があります。イエス・キリストだけが人の罪を赦すことができる救い主だからです。

マタイ6:25-7:23

「してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」(7:11)

イエス様は、求める者たちに「求めたもの」を下さるとは言いませんでした。「良いもの」をくださると言いました。ですから、ヤコブの手紙にはこう記されています。

「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」(4:2,3)

神は祈りに答え、「良いもの」をくださる主です。祈り求めましょう。

マタイ5:43-6:24

「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」(6:10)

御国とは、神が治められる場所です。天は神の領域で、神のみこころが完全に行われています。イエス様は、私たちが生きているこの地上に、天と同じように神のみこころが完全に行われるように、神の完全な支配がこの地に実現するように祈るように求められました。それは、私たち一人一人が、まず、日々の生活の中で神のみこころに生きることを求めています。神のみこころは聖書にあらわされています。一つは、「すべての事について、感謝しなさい。」(1テサ5:18)この年、日々、感謝することに挑戦してみませんか?
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。