詩篇 16篇

「私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません。」(16:8)

いつも主を前に置く生き方こそが、私たちの歩みを確かにします。

いつも私たちは何を前に置いているでしょうか。

自分がでしゃばって前を歩こうとしていないでしょうか。

いつも主を自分の前に置くように心がけること、神の国を第一とすることが私たちの人生を揺るぎないものとしていきます。

興味深いことに、ペンテコステの日、ペテロはこの箇所を引用します。

「前に置く」という単語をギリシア語では「前に見る」と訳しています。

それで「わが面前に主を透視せり」(永井訳)という訳もあります。

目の前に立ちはだかる問題が何であれ、常に問題の向こうに主を透かして見ているとダビデが歌ったとペテロは言いました。

いかなる時もその先に主を透かして見る、これが信仰の世界です。
今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう。

詩篇 15篇

「主よ。だれがあなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれがあなたの聖なる山に住むのでしょうか。」(1節)

神の臨在、神の御前に出ることができる人はどういう人でしょうか。

それは、責められるところのない生活を送る、誠実そのものの人です。
人を中傷せず、うわさ話に耳を貸さず、
隣人を傷つけたりしない人です。
罪に対してはっきりと声を上げ、
罪を犯した者にはそれを指摘し、
主に忠実に従う者を尊ぶ人です。
自分に害が及ぼうとも、約束を破らない人です。
高い利息で負債者を窮地に追い込むことも、わいろを受け取って、無実の人に不利な証言をすることもない人です。」(2-5節LB)

つまり、口先だけで「主よ、主よ」と呼ぶだけでなく、神を神として、神の御言葉に生きようとしているかどうかが問われているということです。

詩篇 14篇

「おまえたちは苦しむ者の計画を踏みにじろうとするだろう。しかし主が彼の避け所である。」(14:6)

立教の月本先生はこう言います。

「人は全て幸福を求めて生きる。だが、おのれの欲望の充足がすなわち幸福である、と錯誤されるとき、社会は欲望充足の戦場となり、義と公正は踏みにじられてゆく。強者は弱者に犠牲を強いて、これを食い物にする。人々の理性はゆがみ、良心は麻痺してしまう。」

今日の箇所はそんな人々に対する「預言者的な審判」の言葉だと言います。

人々が弱者を食い物にするのは主なる神を信じないからで、やがてそういう生き方が間違っていたことに気づかされる時が訪れると言います。

なぜなら、主なる神が、神の義に頼る他はない社会的弱者の側に立ち、苦しむ者をしっかりと守られるからだというわけです。

貧しい者や謙遜な者が悪者に虐待されるとき、神は避け所となってくださいます。」(LB)

私たちの希望はこの神にあります。

詩篇 13篇

「私はあなたの恵みに拠り頼みます。私の心はあなたの救いを喜びます。」(13:5)

前半部分を直訳しますとこうなります。

私はあなたの信実の愛(へセド)を信頼します。

詩人は「主よ。いつまでですか。」と質問を繰り返します。

しかし、最終的に、彼は「それでも主の信実の愛を信頼します」と信頼することを決断したと言うのです。

私たちも、特にこのコロナ感染の問題は「主よ。いつまでですか。」と問いたい状況だと思います。

もちろん、その他にも「主よ。いつまでですか。」と問いたいことがいろいろあると思います。

聖書が私たちに教えていることは、大切なことは、理解できない現状に振り回されて生きるのではなくて、「主に信頼して生きていく」という姿勢を持ち続けると決断することです。

神の時にすべては美しくなります。

神はすべてのことを働かせて益としてくださいます。

主の信実の愛を信頼しましょう。

詩篇 12篇

「主は言われます。「苦しむ人が踏みにじられ貧しい人が嘆くから今わたしは立ち上がる。わたしは彼をその求める救いに入れよう。」」(12:5)

神は悩む人が踏みにじられているのをほうっておく事が出来ないお方です。

貧しい人の嘆きをそのままに出来ないお方です。

神は必ず立ち上がって行動を起こしてくださるお方です。

聖書を読むならば、神が行動を起こす時に、人を用いられることが分かります。

悩む人を助けるために、神は人を用いようとしておられることが分かります。

この世で苦しむ人々を救うために人を用いて、その力を現そうとしておられることが分かります。

主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださるのです。」(2歴代誌16:9)

私たちはどうでしょうか。神に用いられたいと願っているでしょうか。

主は言われます。

だれが、われわれのために行くだろうか。」(イザヤ6:8)

詩篇 11篇

「主は正しく正義を愛される。直ぐな人は御顔を仰ぎ見る。」(11:7)

「神の仕事は、物事を正すことです。並びをまっすぐにするのが好きなのです。」(MSG)

私たちは日々の生活のなかでもこの真理のみことばを覚えて歩むことが大切です。

日々の生活の中で、見えない事、小さな事、いろいろとありますが、神が不正を嫌うお方であるという自覚を私たちは持つ必要があります。

フェアートレード(公正取引)という言葉を最近よく耳にするようになりましたが、誰に対しても、どんな物に対しても正当な対価を心がけることも大切なことです。

神は相対評価をされるお方ではありません。

皆がしているから、神も許されるというわけでもありません。

結局、直ぐな人が、御顔を仰ぎ見る事が出来ると聖書は私たちに教えます。

なぜならば、主はすべてをお見通しだからです。

主はその聖なる宮におられる。主はその王座が天にある。その目は見通し、そのまぶたは人の子らを調べる。」(4節)

詩篇 10篇

「主よ。あなたは貧しい者たちの願いを聞いてくださいます。あなたは彼らの心を強くし耳を傾けてくださいます。」(10:17)

詩人が「悪しき者は高慢を顔に表し神を求めません。「神はいない。」これが彼の思いのすべてです。」(4節)と言うように、無神論のほうが、平和であると考える人がいます。

しかし、現実は逆です。

神を認めないという事は、自分が神になるということです。

考えてみるととても恐ろしいことです。

もし、自分の隣にいる人が神だという万能感をもっていたら、どんなに恐ろしいことでしょうか。

感謝なことに、まことの神がおられます。

貧しい者というのは、経済的な話というよりも、自分は神が必要だと認めた人のことです。

「高慢」の反対語です。

神を求める者の祈りを神は聞かれます。

心砕かれた者の心を強くしてくださいます。

詩人のように、たとえ今、不安に駆り立てられる状況にあったとしても、祈りましょう。祈り続けましょう。

詩篇 9篇

「御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よあなたを求める者をあなたはお見捨てになりませんでした。」(9:10)

三人の友人が一緒に山登りをしていました。

すると、熊が突然現われました。

二人はなんとか木の上に登れましたが、一人は転んでしまい、死んだふりをしました。

すると、熊が近寄ってきて何やら彼の耳元にささやいて行ってしまいました。

二人の友人は彼のもとに来て、何を言ったのかと聞くと彼はこう言いました。

「危機の時に見捨てる友は、友じゃない。」

神は決して見捨てないお方です。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」とおっしゃられたイエス様は、その言葉どおり、見捨てるどころか私たちのためにいのちを捨てられました。

聖書は言います。

「主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。」(ヘブル13:5)

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう。

詩篇 8篇

「主よ 私たちの主よ あなたの御名は全地にわたりなんと力に満ちていることでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています。」(8:1)

「主よ。私たちの主よ。」とありますが最初の「」が新改訳では太文字になっています。

これは別の単語が使用されていることを表しています。

最初の「」は神の名前、「ヤハウェ」が使われています。

ですから、文字通り訳すならば、「ヤハウェ。私たちの主、」となります。

「ヤハウェ」は神の名前です。

英語で言うところのBE動詞から派生した語で、存在を意味します。

ご自身で存在されるお方(自立自存)という意味があります。

何かによって存在したら「ヤハウェ」とは呼べません。

ですから、「創造主なるお方」という意味があります。

「私たちの主」というのは肩書きです。

主と言うのは、「私たちを治める方、統治者」という意味があります。

万物の統治者であるヤハウェ、そのご性質のすばらしさは、全地に満ちています。

詩篇 7篇

「私は主をほめたたえます。その義にふさわしく。いと高き方主の御名をほめ歌います。」(7:17)

不当な中傷や非難を受けたときに、聖書が教える解決方法は、義なる神に賛美を捧げることです。

賛美することによって、状況の上に上ることができます。

ダビデが行き詰らなかった理由がここにあります。

彼は真っ暗闇の洞窟の中で、義なる神を賛美しました。

使徒パウロも、行き詰らなかったのは、義なる神に賛美することができたからです。

彼は真夜中の牢獄の中で神を賛美することができました。

いと高き方(エルヨーン)は「正しい審判者」(11節)です。

ですから詩人は歌います。

ああ主よ、すべての悪を根絶やしにし、心の底から主を礼拝する者を祝福してください。正しい神である主は、人の心の奥底まで見抜き、いっさいの動機と思いとをお調べになります。」(9節LB)