1サムエル記 13:1-14:23

「サムエルは言った。『あなたは、なんということをしたのか。』サウルは答えた。『民が私から離れ去って行こうとし、また、あなたも定められた日にお見えにならず、ペリシテ人がミクマスに集まったのを見たからです。今にもペリシテ人がギルガルの私のところに下って来ようとしているのに、私は、まだ主に嘆願していないと考え、思い切って全焼のいけにえをささげたのです。』」(13:11,12)

サウル王の問題は、自分が召されていないことを、周りからのプレッシャーのゆえにやってしまったことです。サウル王は神のみこころよりも、人目を気にしました。私たちも様々なプレッシャーのゆえに愚かな決断をしてしまうことがあります。人を操ろうとする人は、常にプレッシャーを与えて動かそうとします。私たちはどんなにプレッシャーをかけられても、操られないように神のみこころを求めて祈る時間を確保する必要があります。

1サムエル記 10:9-12:25

「神に心を動かされた勇者は、彼について行った。」(10:26)

神がサウルを王として選ばれた時、すべての人がサウルを王として受け入れたわけではありませんでした。「こんな男に我々が救えるか」と、彼を侮った、ならず者たちもいました。しかし、神に心を動かされた勇者たちが彼を支え、協力したことによってイスラエルの国の王制は確立しました。まさに、神に心を動かされた勇者たちが歴史をつくりました。今から約二千年前、神の御子イエス・キリストに心を動かされた弟子たちは全世界に出て行き、世界をひっくりかえしました。まさに、神に心を動かされた勇者たちが歴史をつくりました。今も同じように、生ける神は、私たちの心を動かしたいと願っています。神に心を動かされた勇者たちが、キリストの教会を建てあげ、神の御国をこの世に現していきます。

1サムエル記 8:1-10:8

「三日前にいなくなったあなたの雌ろばについては、もう気にかけないように。あれは見つかっています。イスラエルのすべてが望んでいるものは、だれのものでしょう。それはあなたのもの、あなたの父の全家のものではありませんか。」(9:20)

サウルはいなくなった雌ロバを捜して山地を巡り歩いていました。しかし、実は神がサウルをサムエルに会わせるために雌ロバを用いただけでした。神は同じように私たちの人生を導かれます。私たちは思い通りにいかないことに苛立ちを感じたりします。しかし実は、神がその背後で私たちの人生を導かれているのです。私たちは理解できないことに苛立ちを募らせるのではなく、その背後で働かれている神を透かして見、信頼し、委ねていく必要があります。

「私の罪が問題の原因の時、私は悔い改める。もしサタンが問題の原因なら抵抗する。もし、状況が問題の原因なら、私はリラックスして神を信頼する。」(リック・ウォーレン.)

1サムエル記 5:1-7:17

「その箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から長い年月がたって、二十年になった。イスラエルの全家は主を慕い求めていた。」(7:2)

澤村五郎という牧師が、サムエルが二〇年間何もできなかった理由を、こう解説しています。

「それは民に主を慕う何の渇望もなかったからである。いかに偉大な預言者があっても、渇望のない民に対しては、手の施しようがないのである。」

サムエルは、

「イスラエルの全家は主を慕い求めていた。」

という状況まで、待つ必要があったと言うのです。

「神がしてくださらなければ、どうすることもできない」

という程の、渇望をもつまで、待つ必要があったと言うのです。イエス・キリストも言いました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37,38)

神への飢え渇きが与えられますように。

1サムエル記 2:27-4:22

「そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。」(3:10)

少年サムエルは主の宮で神の声を聴きました。ジョン・コーソン師は言います。

「もしあなたが主に語ってもらいたいならば、あなたに導きを与えて欲しいならば、主の宮の中にいるべきです。」

神はもちろんいつでもどんな所でも語ることができます。しかし、神がよく語られる場所は、主の宮である教会です。

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)

サムエルのように、

「お話しください。しもべは聞いております。」

という姿勢で礼拝に、婦人会に、祈祷会に、教会学校に集う時、確かに主の声を私たちは聖書のみことばを通して聴くことができます。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

1サムエル記 1:1-2:26

「彼女は、「はしためが、あなたのご好意にあずかることができますように。」と言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。」(1:18)

いつまで神に個人的な願いを祈り続けるべきでしょうか。合理的に考えれば、「一度祈れば、もう祈る必要はない。」となるかもしれません。しかし、聖書はそう教えていません。そもそも、私たちが願う前から神は私たちの願いを知っています。ですから、祈りは神に願いを知らせること以上に意味があります。いつまで祈り続ければいいのでしょうか?ハンナが祈りを終えた時、彼女の顔は以前のようではなかったとあります。この確信を得るまで祈る必要があります。神の答えが私たちが願っていたことと同じとは限りません。しかし、祈った後の私たちの顔が、ハンナと同じように、もはや以前のようではなくなるまで、私たちは祈り続ける必要があります。

ルツ記 3:1-4:22

「こうしてボアズはルツをめとり、彼女は彼の妻となった。」(4:13)

誠実なボアズは、正当な手続きを経てルツをめとることにします。それは、ボアズよりも権利のある親類が

「私には自分のために、その土地を買い戻すことはできません。私自身の相続地をそこなうことになるといけませんから。」(6節)

と言ったように、彼の財産を失う危険を伴うものでした。ボアズはまさにすべてを捨ててでも、ルツを贖ったのです。イエス様は言われました。

「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13:44)

ボアズにとっては、ルツは宝であり、彼は彼女のためにすべてを捧げました。ボアズはキリストの象徴であり、ルツはキリストの花嫁である教会の象徴だと言われます。キリストは私たちを贖うためにその命を捧げてくださいました。私たちはそれほど高価で貴いのです。

ルツ記 1:1-2:23

「そこで、彼女は嫁たちと連れ立って、モアブの野から帰ろうとした。モアブの野でナオミは、主がご自分の民を顧みて彼らにパンを下さったと聞いたからである。」(1:6)

ナオミとその家族は約束の地、ベツレヘムに住んでいましたが、ききんがあったので異教の神々の地、モアブに移り住んでしまいました。問題と言うのは、そもそも私たちが膝を屈めて、神に祈り求めるためにあります。しかし、ナオミたちは、神に祈り求めることよりも、手っ取り早い解決を求めて、約束の地を離れてしまいました。その結果、彼女はすべてを失ってしまいました。すべてを失ったナオミは、主を待ち望む者に必要を満たされる神の現実を耳にします。「あなたは時にかなって、彼らに食物を与えられます。」(詩篇145:15)驚くことは、神のもとに戻ってきたナオミに、神は回復のプロセスを始められたということです。主に身を避ける者は、失望させられることはありません。

士師記 20:1-21:25

「イスラエル人は立ち上がって、ベテルに上り、神に伺って言った。『私たちのため、だれが最初に上って行って、ベニヤミン族と戦うのでしょうか。』すると、主は仰せられた。『ユダが最初だ。』」(20:18)

イスラエルの人々は相談した結果、ベニヤミン族と戦うことにしました。内戦です。彼らは神にどの部族がまず最初に戦いに出て行くべきかを伺いました。しかし、そもそも戦いに上るべきかどうかを尋ねるべきでした。チャック・スミス師は言います。

「もし、彼らが正しい伺いを神にしていたら、この後に記されているような敗北を体験することはなかったと私は信じています。」

私たちも「神様、これをすべきですか?それともこれですか?」と、二、三の提案をしてその中から答えて下さるよう要求することがあると思います。しかし私たちはまず、「神様、あなたのみこころは何ですか?」と祈り求めるべきです。

士師記 18:1-19:30

「それを見た者はみな言った。『イスラエル人がエジプトの地から上って来た日から今日まで、こんなことは起こったこともなければ、見たこともない。このことをよく考えて、相談をし、意見を述べよ。』」(19:30)

士師記に希望の光を見いだすことができない理由は、人々が神に聴く姿勢がないからです。めいめいが自分の目に正しいと見えることを行うために、悲劇から悲劇が繰り返されていくのです。考えたり、相談したりすることは決して悪いことではありませんが、神に祈り、みこころを求めなければ混乱を招くだけです。この後、イスラエルの人々が相談して決めたことは報復であり、いわゆる内戦でした。そして問題は解決されるどころか泥沼化します。神は言われます。

「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9)

私たちは何よりも神のみこころを求める必要があります。