使徒 12章

「こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。」(12:5)

初代教会のリーダーの一人ヤコブが殺され、もう一人のリーダーペテロも逮捕されました。

教会は、有力者に頼ることも、お金に頼ることもできませんでした。

権力も、政治力もありませんでした。

何も出来ないもどかしい状況の中、教会は熱心に祈り続けました。

そして、神は彼らの熱心な祈りを用いて奇跡を起こされました。

教会は祈りの共同体です。

祈りなくして、教会はありません。

「熱心」と訳された単語は、「たゆまず、根気よく、切に」という意味もあります。

私たちは人にはできないことも、神にできないことはないと信じ、祈り続ける姿勢が求められています。

イギリス、ウェストミンスターチャペルの著名な牧師だったロイドジョンズはこんな名言を残しています。

祈祷会は教会の発電所(powerhouse)、教会の生命を計る温度計である

使徒 11章

「ですから、神が、私たちが主イエス・キリストを信じたときに私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが、神がなさることを妨げることができるでしょうか。」人々はこれを聞いて沈黙した。」(11:17,18)

私たちは自分たちが理解できる範囲内に神がなさることを限定しないように気をつける必要があります。

初代教会の指導者であったペテロが、

「私のような者が、どうして神のなさることを邪魔することができたでしょうか。」(協会共同訳)

と言ったように、謙遜さが求められます。

少なくとも、

「人々はこれを聞いて沈黙した。」

とあるように、簡単に批判したり、非難せず、沈黙する姿勢が求められます。

ここからキリスト教会は世界へと広がっていきます。

「弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」(26節)

とあるように、ここから「クリスチャン」と呼ばれるようになります。

使徒 10章

「それで、私はすぐにあなたのところに人を送ったのです。ようこそおいでくださいました。今、私たちはみな、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、神の御前に出ております。」(10:33)

コルネウスがペテロに送ったしもべたちは、コルネウスをこのように紹介しました。

「正しい人で、神を恐れ、ユダヤの民全体に評判が良い百人隊長」(22節)

コルネウスが実際どんな人物であったかは、彼の態度からもよくわかります。

「コルネリウスは、親族や親しい友人たちを呼び集めて、彼らを待っていた。」(24節)

コルネリウスは使徒ペテロが語るメッセージを聴く準備ができていました。

だから言いました。

「今、私たちはみな、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、神の御前に出ております。」

毎週の日曜日の主日礼拝を、コルネリウスのような姿勢をもつことができますように。

使徒 9章

「そこでアナニアは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中であなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」」(9:17)

サウロはパウロの別名で、この箇所はパウロの回心の箇所として有名です。

もっともパウロの場合は別の宗教に回心したということではありません。

パウロは自分が信じていたユダヤ人の神がイエス・キリストであることが分かったということです。

興味深いことはそんなパウロが立ち上がるために、アナニアという一人の信仰者が用いられたという事実です。

神は私たちを用いて人々が立ち上がることができるようにしたいと願っているということです。

私たちも手を置いて誰かのために祈るように遣わされています。

使徒 8章

「ピリポは口を開き、この聖句から始めてイエスのことを彼に宣べ伝えた。」(8:35)

導かれた人々との出会いの中でキリスト者としての役割を果たすことの大切さを感じる御言葉です。

いつでも語る準備をしておくこと、神の導きに応答することは少しハードルが高く感じるかもしれません。

しかし今日出会う人が、人生で今日しか会うことのない人だと考える時、その機会はとても貴重です。

ピリポの人生においてこのエチオピアの宦官と話をしたのは恐らくこのときだけだったのではと思います。

今日私たちが出会う人もそうではないかと思います。

もし聖霊に「今この人に語りなさい」と促された時の為に、御言葉を蓄えておくことをお勧めします。

そのなかから語るべき言葉が導かれることをこれまで何度となく体験してきましたから。

使徒 7章

「人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。」(7:57)

ステパノは初代教会最初の殉教者となりました。

人々が聞きたくないことをはっきりと語ったために石で打ち殺されてしまいました。

わたしたちは日々インターネットで様々なものを検索したり見たりしていると思いますが、ネットニュースはコンピューターがユーザーの指向や考えを分析し、その人にあったニュースが出てくるようになっているそうです。

これは恐ろしいことだと思います。

自分の考えに近いものばかり見ていると、他者の意見を冷静に聞くことができなくなってしまうからです。

きょうの箇所では、その結果、善良なはずの一般市民が怒り狂い、よってたかってステパノを殺してしまったのです。

これは現代に生きる私たちへの警告だと、心にとどめたいと思います。

使徒 6章

「しかし、彼が知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった。」(6:10)

聖書を神の言葉と信じ、信仰と生活の唯一の規範として歩むことは、この世の流れにたった一人で逆らって生きているように感じることがあります。

様々な世界の流れに「聖書はこういっています」ということができなくなってきています。

不必要に対立をあおるべきではありません。

しかしステパノがそうであったように「知恵と御霊によって」毅然とした態度で語るべきときがあります。

ポストモダンの時代であるにもかかわらず、聖書的価値観だけは排除しようとする現代はもしかするともっともキリスト者が生きづらい時代かもしれません。

だからこそ集まることを大切にしたいと思います。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

使徒 5章

「そこで今、私はあなたがたに申し上げたい。この者たちから手を引き、放っておきなさい。もしその計画や行動が人間から出たものなら、自滅するでしょう。しかし、もしそれが神から出たものなら、彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすると、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」(5:38,39)

ペテロは当時の宗教指導者たちにはっきりと言いました。

「人に従うより、神に従うべきです。」(29節)

パウロの先生でもあったガマリエルの姿勢も同じで、彼は神を恐れていました。

彼らは神の律法に従います。

しかし、他の人たちに関しては、その人たちが正しいと思うことを行わせるとしました。

結局のところ、人間が作り出したものであればやがて自滅するからです。

しかし神からのものであれば滅びないから注意が必要です。

今、判断できない内容であればなおさら、「放っておきなさい」(38節)ということになります。

使徒 4章

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(4:12)

アウグスティヌスの言葉だとも言われていますが、作者不明の有名な言葉があります。

それは、

「本質は一致、本質以外は多様性、すべてのことは愛をもって」。

キリスト教の本質、それは、イエス・キリスト以外に救いはないということです。

私たちは他宗教との共存を真剣に考えなければなりません。

信教の自由は国家として保障され、尊重される必要があります。

ただそれは能動的にも保障される必要があります。

私たちは自分たちの信仰を公にすることも保障される必要があります。

他宗教を信じる人たちを尊重しつつも、私たちはイエス・キリスト以外には救いはないことを公に告白し続ける必要があります。

イエス・キリストを信じなければ人は救われないということは聖書が語る真理であり、本質だからです。

使徒 3章

「すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」」(3:6)

ペテロの信仰の言葉を通して生まれつき足の不自由な人は歩きながら神を賛美しました。

それを見て驚いた人々がペテロのところに集まってきました。

それでペテロは言いました。

「なぜ、この癒しに驚くのですか。なぜ私たちを見つめるのですか。私たちは、自分たちの力や権威でこの不自由な人を歩かせたのではありません。」(12節TPT)

ペテロは自分たちの力ではないことを明確にしました。

「イエスの御名への信仰が、あなたの前に立っているこの人を癒したのです。イエスの御名を信じることによってもたらされる信仰が、あなたの目の前にいる足の不自由な人を歩かせたのです」(16節TPT)

イエス・キリストの御名に力があります。

イエス・キリストは今も生きて働かれているからです。