エゼキエル 28:1-29:21

「人の子よ。ツロの君主に言え。神である主はこう仰せられる。あなたは心高ぶり、『私は神だ。海の真中で神の座に着いている。』と言った。あなたは自分の心を神のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない。」(28:2)

イエス様は

「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)

と言いましたが、ツロの問題は富でした。莫大な財産のゆえに自分を神のようにしてしまったのです。しかし、人は神になることはできません。アダムとエバの罪は神になろうと思い上がったことでした。サタンも神になろうと思い上がり落とされました。ここではツロの王に対する預言が、サタンに対する預言に変わります。

「あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。」(17節)

人が高ぶり自分を神のようにみなすことは、サタンに騙されている状態です。

エゼキエル 26:1-27:36

「人の子よ。ツロはエルサレムについて、『あはは。国々の民の門はこわされ、私に明け渡された。私は豊かになり、エルサレムは廃墟となった。』と言ってあざけった。それゆえ、神である主はこう仰せられる。ツロよ。わたしはおまえに立ち向かう。」(26:2,3)

ツロは地中海沿岸にある商業都市でした。エルサレムの崩壊を喜ぶツロに対して、神は裁きを宣告します。彼らも紀元前332年、アレキサンダー大王によって滅ぼされます。ここでは、人の不幸を喜ぶ姿勢に対して、神が警鐘を鳴らしているとも言えると思います。たとえそれが自分の競争相手が自滅したということであったとしても喜ぶべきではありません。箴言にもこうあります。

「敵が苦しむのを喜んではいけません。敵が失敗したからといって、うれしがってはいけません。そんなことをしたら主が心を痛め、彼らを罰するのをやめるかもしれません。」(24:17、18LB)

エゼキエル 24:1-25:17

「神である主はこう仰せられる。モアブとセイルは、『見よ、ユダの家は異邦の民と変わらない。』と言った。」(25:8)

モアブの国が裁かれる原因は、イスラエルの国も、ほかの国もまったく変わらないと言っているからだと言います。現代風に言いなおすならば、キリスト教も他の宗教も同じ、何も違いはないと言っているからだと言います。つまり、このような宗教多元主義の考え方は決して新しいものではなく、紀元前から存在していたということです。このグローバル世界において「共存」を考えることはとても大切なことです。しかし、根本的な神理解が違うのにもかかわらず、すべて同じとすることはできません。そして今日の箇所が私たちに伝えていることは、それはまた、天地万物を造られた創造主なる神、ヤハウェに対して失礼なことでもあるということです。聖書が教える神は、父なる神、子なる神キリスト、聖霊の三位一体なる神です。

エゼキエル 22:23-23:49

「わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。」(22:30)

神は、ご自身とその国の間、破れ口に立って、とりなしの祈りをする人を捜していると言います。当時のイスラエルの国には、残念ながら見つかりませんでした。今も、この世の悪に対して、嘆くだけでなく、アブラハムのように「滅ぼさないでください」と、とりなして祈る人が求められています。歴史を通じて、人知れず破れ口に立ち、とりなしの祈りを捧げてきた人たちがいて、今があります。私たちはこの世の現実に対して無力に感じてしまいます。自分なんかに何ができるのだろうと思ってしまいます。しかし、神はこの国のために破れ口に立ち、祈る人を捜し求められています。
「主よ、日本の国をあわれんでください。イエス・キリストのゆえにリバイバルを与えてください。」

エゼキエル 20:45-22:22

「そこで、私は叫んだ。「ああ、神、主よ。彼らは私について、『彼はたとえ話をくり返している者ではないか。』と言っています。」」(20:49)

20章のはじめに、エゼキエルのもとに、イスラエルの長老たちが主の御心を知ろうとしてやってきたとあります。その彼らに対し、神はイスラエルの人々がどれほど神をないがしろにし、数え切れないほど裏切りを続けてきたかということを語り、その後の厳しい現実を宣告します。ところが神の御言葉を聞きに来たはずの長老たちは、それを現実とは思わず、エゼキエルがたとえ話を繰り返し話しているとしか受け止めませんでした。これは、御言葉を聴く私たちの姿勢に対する警告と受け取ることができます。真剣に語られている神の御言葉に対して、真剣に聞く姿勢が求められています。そうでなければ長老たちのように、ただの「お話」で終わってしまいます。

エゼキエル書 19:1-20:44

「火がその枝から出て、その若枝と実を焼き尽くした。もう、それには王の杖となる強い枝がなくなった。」これは悲しみの歌、哀歌となった。」(19:14)

メッセージ訳では、最後の部分をこう訳しています。

「これは悲しい歌、ブルースを歌うための歌詞」

それほど歌詞自体には希望を見出せません。ただ、私たちが「何に信頼しているか」という大切な問いかけがなされています。19章では、強いライオンと強い枝をもつぶどう園が登場します。これはダビデ王朝を象徴しています。しかし、ライオン(王)も連行され、ぶどう園(イスラエル)も引き抜かれてしまいます。私たちは何に信頼しているでしょうか。強力な力をもった指導者でしょうか?イエス・キリスト以外の誰かに、何かに信頼しているならば、それは砂地であり、ブルースの歌になります。
今日は、主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう。

エゼキエル書 17:1-18:32

「あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』という、このことわざをくり返し言っているが、いったいどうしたことか。」(18:2)

不思議なことわざですが、ポイントは自分が問題の中にいる原因は父親(先祖)にあるという意味です。自分自身の問題を棚上げにして、先祖のせいにすることを、神は否定されました。

「わたしは誓って言う。―神である主の御告げ。―あなたがたはこのことわざを、イスラエルで、もう決して用いないようになる。見よ、すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。」(3,4節)

神のポイントは、誰かのせいにしてはいけないということです。

「しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行なうなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。」(21節)

自分の選択が問われるのです。

エゼキエル書 16:1-63

「その美しさのために、あなたの名は諸国の民の間に広まった。それは、わたしがあなたにまとわせたわたしの飾り物が完全であったからだ。―神である主の御告げ。―ところが、あなたは、自分の美しさに拠り頼み、」(16:14,15)

16章の前半は、イスラエルの子たちが神に見出されるまでどんなに望みのない状態だったかが記されています。神はイスラエルの人々を洗いきよめ、祝福し、美しくしました。しかし、残念ながらイスラエルの人々は、その美しさに拠り頼んで、神を忘れ、霊的な姦淫の罪に陥ってしまいました。これは今も起こりうることです。神が誰かを祝福し、その人が自分だけでは到達できないような地位に立てることがあります。しかし、残念ながら、あたかも自分の力で達成したかのように、神の賜物を神の国のために用いることなく、自分のため、自分の欲望に生きてしまうことがあります。神に栄光を帰すために賜物が与えられたことを忘れることがありませんように。

エゼキエル書 13:1-15:8

「たとい、そこに、ノアとダニエルとヨブがいても、―わたしは生きている。神である主の御告げ。―彼らは決して息子も娘も救い出すことができない。彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ。」(14:20)

聖書は言います。

「ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」(創世記6:9)

ダニエルに関してはこう呼ばれたと記されています。

「神に愛されている人ダニエルよ。」(ダニエル10:11)

ヨブに関してはこう記されています。

「この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」(ヨブ1:1)

神は旧約聖書に出てくる代表的な人物であっても、自分の家族さえ救うことはできないと言います。ですから、神の子、イエス・キリストは、私たちのためにこの地に来て、私たちの身代わりとなって十字架で死に、葬られ、よみがえる必要がありました。イエス・キリストだけが救い出すことができるからです。

エゼキエル書 10:1-12:28

「それゆえ言え。『神である主はこう仰せられる。わたしは彼らを遠く異邦の民の中へ移し、国々の中に散らした。しかし、わたしは彼らが行ったその国々で、しばらくの間、彼らの聖所となっていた。』」(11:16)

前章でエルサレムの神殿から主の栄光が離れ去ったことが記されています。神殿は天と地が重なる場所、神と会う場所です。しかし、エルサレムの神殿はその機能を失っていました。皮肉にも神はエルサレムの神殿ではなく、散らされた国々で、神を求める人たちにご自身を現され、神殿の真意を示されました。今、神殿がエルサレムにないことには意味があります。エルサレム神殿の再建は福音ではありません。なぜならイエス・キリストが真の聖所となられたからです。イエス・キリストの中で天と地は重なり、イエス・キリストの中で聖霊によって人は神と出会います。

「わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。」