月別アーカイブ: 2015年11月
1列王記 16章
「彼がティルツァにいて、ティルツァの王の家のつかさアルツァの家で酒を飲んで酔っていたとき、彼の家来で、戦車隊の半分の長であるジムリが彼に謀反を企てた。」(9節)
イスラエルの王エラは、酒を飲んで酔っていた時に、自分の家来に殺されてしまいました。ある人はこう言います。
「人類の歴史では、戦争で殺された人よりも、泥酔(深酒)のゆえに殺された人の数の方が多い。」
イエス様はおっしゃられました。
「あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。」(ルカ21:34)
また、エペソ書5:18を、口語訳では
「酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。」
新共同訳では
「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。」
と訳しています。
「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」(新改訳)
今日は主の日。聖霊に満たされましょう!
今日からアドベント(待降節)。祈りと賛美をもってクリスマスを迎えましょう。
1列王記 15章
「アサは主の宮の宝物倉と王宮の宝物倉とに残っていた銀と金をことごとく取って、自分の家来たちの手に渡した。アサ王は、彼らをダマスコに住んでいたアラムの王ヘズヨンの子タブリモンの子ベン・ハダデのもとに遣わして言わせた。」(18節)
今日の箇所のアサ王の行動に関して、歴代誌第二の方で詳しく記されています。
「そのとき、予見者ハナニがユダの王アサのもとに来て、彼に言った。『あなたはアラムの王に拠り頼み、あなたの神、主に拠り頼みませんでした。」(16:7)
アサ王のそのような姿勢は、別の箇所にも見られます。
「彼の病は重かった。ところが、その病の中でさえ、彼は主を求めることをしないで、逆に医者を求めた。」(Ⅱ歴代誌16:12)
医者を求めること、他国に助けを求めること、それ自体が悪いという意味ではないと思います。問題は、神よりもそれらのものに拠り頼んでいたということです。
1列王記 14章
「アヒヤは戸口にはいって来る彼女の足音を聞いて言った。『おはいりなさい。ヤロブアムの奥さん。なぜ、ほかの女のようなふりをしているのですか。私はあなたにきびしいことを伝えなければなりません。」(6節)
ヤロブアムは偽りの神を作り、イスラエルの人々にそれを礼拝するようにしむけました。しかし、いざ自分の子が病気になると、自分が作った偽りの神に助けを求めはしませんでした。彼は自分の妻を変装させて、まことの神の預言者アヒヤに助けを求めたのです。神はそんなヤロブアムの姿勢をお見通しできびしいことを伝えます。神はあわれみ深く恵み深い神ですから、もしヤロブアムが本当に砕かれ、悔い改めて神を求めて来たならば、対応が違っていたのではとも思います。しかし、彼は神を心から求めませんでした。
「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩51:17)
1列王記 13章
「彼はその人に言った。「私もあなたと同じく預言者です。御使いが主の命令を受けて、私に『その人をあなたの家に連れ帰り、パンを食べさせ、水を飲ませよ。』と言って命じました。」こうしてその人をだました。」(18節)
「個人預言」に対しては最大限の注意を払う必要があります。どんな預言も吟味する必要があります。この箇所に出てくる若い預言者はその場所で食事をしてはいけないと神から言われていました。ところが、年寄りの預言者がやってきて、神が彼を連れ帰って食事をさせるように言われたという言葉(個人預言)を信じてしまい、自らの命を落としてしまいます。神がそのように語ることが出来ないわけではありませんが、「主はこう言われる」という言葉には注意する必要があります。たとえ預言者と言われる人でも、聖書と矛盾する内容であれば信じてはいけません。
1列王記 12章
「そこで、王は相談して、金の子牛を二つ造り、彼らに言った。『もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。』」(28節)
ヤロブアム王はイスラエルの人々のために無理のない礼拝を作り出しました。エルサレムまで行って、主を礼拝するのは大変だし、大きな犠牲を払う行為だから、自分たちの近くに金の子牛の神々を作ったからこれらを礼拝すればいいと。無理のない礼拝、便宜のいい礼拝というのは神が命じられていることよりも楽で、自我を否定する必要がないので、いつの時代でも人気があります。しかし、イエス様は言われました。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マルコ8:34)
無理のない礼拝、便宜のいい礼拝は、結局は、人々を罠に陥れます。
1列王記 11章
「主はソロモンに怒りを発せられた。それは彼の心がイスラエルの神、主から移り変わったからである。主は二度も彼に現われ、このことについて、ほかの神々に従って行ってはならないと命じておられたのに、彼は主の命令を守らなかったからである。」(9,10節)
最も賢い王であったはずのソロモン王は、最も愚かな王になってしまいました。神のみことばに耳を傾けなくなってしまい、すべての歯車が狂ってしまったのです。晩年に彼は人生を振り返り、こう記します。
「わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。知恵が深まれば悩みも深まり/知識が増せば痛みも増す。」(1:16-18新共同訳)
「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(12:13)
1列王記 10章
「実は、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはその半分も知らされていなかったのです。あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたうわさよりはるかにまさっています。(7節)
10章は有名なシェバの女王の話です。シェバはアラビアの南西、現在のイエメンの辺り。アラビアの中でも肥沃な地域で、通商の面でも栄えていた地域でした。ソロモンの名声は、それほど遠くまで届きました。シェバの女王の名前が後世まで残ったのは、彼女が自分の目で確かめようとはるばる来たからです。イエス様はおっしゃられました。
「南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。」(マタイ12:42)
1列王記 9章
「主は彼に仰せられた。「あなたがわたしの前で願った祈りと願いをわたしは聞いた。わたしは、あなたがわたしの名をとこしえまでもここに置くために建てたこの宮を聖別した。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。」(3節)
天地万物を造られた神は、私たちを愛し、私たちを思い、私たちの祈りに耳を傾けられるお方です。聖書は、神は
「祈りを聞かれる方」(詩篇65:2)
だと言います。神はまた、祈りに答えてくださるお方です。ソロモンは祈りました。
「…あなたが『わたしの名をそこに置く。』と仰せられたこの所に、夜も昼も御目を開いていてくださって、あなたのしもべがこの所に向かってささげる祈りを聞いてください。」(8:29)
神は求める以上に答えてくださるお方です。神は目だけでなく、心もそこにあるとおっしゃられました。神のまなざしがそこにあるだけではなく、心もあるとおっしゃられたのです。今日は主の日。主に礼拝を捧げましょう。
※ 本日のSSCは、感謝礼拝。感謝を分ちあう時をもちます。
1列王記 8章
「それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。」(27節)
ソロモン王は、天地万物を造られた神を人が建てた建物に制限できるようなお方ではないことを認識していました。人は有限ですが、神は無限だからです。しかし、人は神を狭い人間の概念の中に納めようとします。人が建てた建物に制限できないように、人が考えた概念に神を制限することはできません。神は言われます。
「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9)
しかしソロモン王の神殿は、人々が無限の神と出会うことが出来る場所となりました。私たちも聖書を通して無限の神を知り、無限の神の思いを知り、無限の神に出会うことができます。