エズラ 9章

「しかも、つかさたち、代表者たちがこの不信の罪の張本人なのです。」(2節)

 指導的な立場に立つ人は、高い道徳が要求されます。人を教える人も、高い道徳が要求されます。このエズラ書では混血の問題が扱われていますが、新約聖書の光に照らすならば、こう言い換えることができると思います。

「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。」(ガラテヤ5:16,17)

自分の欲望に生きる生き方と、聖霊に導かれる生き方は共存することができないということだと思います。もし、指導的な立場の人がいつも自分の利益しか考えていなければ、その共同体は悲劇です。指導的な立場にある人は、特に、聖霊の導きを求めて生きる姿勢が求められます。
「指導的な立場にある人々を批判的に見るのではなく、祈り、支援していくことができますように。聖霊様、助けてください。」

エズラ 8章

「そこで、私はその所、アハワ川のほとりで断食を布告した。それは、私たちの神の前でへりくだり、私たちのために、私たちの子どもたちと、私たちのすべての持ち物のために、道中の無事を神に願い求めるためであった。」(21節)

  エズラたちの時代、盗賊の問題もありましたので、旅行をするというのは命がけでもありました。特に、22節にあるように、ペルシャの軍隊の援護を仰がないということになると、彼らにとってはとても大きな決心が必要だったことは確かです。彼らは不安になるよりも、断食して、道中の無事を祈り求めました。今、私たちはエズラの時代のような危険はありませんが、道中の無事を祈り求めることは大切なことだと思います。

「加害者にも、被害者になることもなく、すべての事故、トラブルからお守りください。」

と祈りつつ、一日を始めようではないでしょうか。

エズラ 7章

「私たちの父祖の神、主はほむべきかな。主はエルサレムにある主の宮に栄光を与えるために、このようなことを王の心に起こさせ、王と、その議官と、すべての王の有力な首長の好意を私に得させてくださった。私の神、主の御手が私の上にあったので、私は奮い立って、私といっしょに上るイスラエル人のかしらたちを集めることができた。」(27,28節)

神様は、アルタシャスタ王をはじめ、ペルシャの有力な人たちが、好意をエズラに与えるようにと働きかけられました。神様はどんな人の心にも働きかけ、主に栄光が帰されるために、主の民に好意が与えられるように導かれるお方でもあります。人の感情というのは、そもそも非論理的なものです。好意と呼ばれるものも、とても主観的なものです。しかし、そのような思いを、神様は起こさせることができるお方であるということを心に留めて祈り続けることは大事だと思います。
「主よ、好意を受けられますように。」

エズラ 5章

「さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの、ふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に、彼らとともにおられるイスラエルの神の名によって預言した。」(1節)

  二人の預言者がどんな預言をしたかは、ハガイ書とゼカリヤ書に書いてあります。ハガイ書の2章には、こう記録されています。「仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。―万軍の主の御告げ。―あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。まことに、万軍の主はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。万軍の主は仰せられる。」(4‐7節)

私たちが祈り続けていく中で、世界を揺り動かすリバイバルが与えられます。

 

エズラ 4章

「すると、その地の民は、建てさせまいとして、ユダの民の気力を失わせ、彼らをおどした。」(4節)

 キリストを信じて生きていくならば、逆風は吹かず繁栄するというのは、聖書的ではありません。イスラエルの人々は神殿を建て直そうと礎を据えて建て始めた時、逆風が吹きました。神様のために何かをしようと思い立つ時、その気力を失わせるようなことが起こったりすることがあります。「どうして?」と思うようなことが起こったりすることがあります。逆風は、私たちがあきらめるために吹くのではなく、私たちが空高く舞い上がるために吹きます。もし、私たちが逆風を祈りに変えることができるならば、マイナスは必ずプラスになります。不可能に見える時こそ、神の奇跡を見る時になります。この後、預言者ゼカリヤが気力を失った人々に語った神の言葉は・・・

「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。」

エズラ 3章

「そのため、だれも喜びの叫び声と民の泣き声とを区別することができなかった。民が大声をあげて喜び叫んだので、その声は遠い所まで聞こえた。」(13節)

  神殿の礎が据えられた時、ある人は喜び叫び、ある人々は泣いたとあります。同じ出来事に対しても、私たち人間の反応というのは違うものだと思います。このことを意識することはとても重要です。神様に礼拝をささげる時、ある人は喜び叫び、ある人は泣き、ある人は静まり、ある人は笑います。私たちが気をつけないといけないことは、神様が臨まれている時の私たちの感情を決め付けることはできないということです。涙を流さなければ聖霊に満たされていないというわけではありません。喜び叫んでいなければ、聖霊に満たされていないわけではありません。聖霊なる神様の働きには多様性があることを認めることはとても大事なことです。重要なのは表面に出てくる感情表現ではなく、生ける神様が臨まれることです。

エズラ 2章

「歌うたいは、アサフ族、百二十八名。」(41節)

バビロンからエルサレムへの帰還者たちの名簿がこの章に記されています。指導者、氏族別の帰還者数、そして神殿を司る帰還した祭司、レビ人の数が上げられます。その中に、「歌うたい」(LB)が数えられています。アサフ族は、神に賛美の歌を捧げる役割がありました。ですから、エンターテイメントのための「歌うたい」という意味ではなく、神に賛美を捧げるための「聖歌隊」ということです。神に賛美の歌を捧げることがどれだけ大切かが分かります。礼拝の中で賛美の歌を神に捧げることは、どうでもいいことではなく、重要なことであることが分かります。彼らもまたエルサレムへ帰還した最初の人たちに数えられていることを心に留める必要があります。まず、何よりも賛美の歌を捧げること、賛美が最前線であるべきであることを、聖書は何度も私たちに訴えているからです。

「主よ、賛美の歌を捧げます。」

エズラ 1章

「そこで、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たち、すなわち、神にその霊を奮い立たされた者はみな、エルサレムにある主の宮を建てるために上って行こうと立ち上がった。」(5節)

バビロンに捕囚されていたイスラエルの民は、生活の基盤ができたバビロンから荒廃したエルサレムに戻る気にはなれませんでした。彼らの託された神殿の再建は、決して容易な仕事ではありませんでした。それでもなお、彼らを突き動かしたのは、「神にその霊を奮い立たされた」と聖書は言います。この世界でキリストのからだである教会を建てあげることも同じような状況だと思います。この世でキリストの教会を建てあげることは聖書が命じていることですが、容易なことではありません。私たちもまた、神様に奮い立たされなければ成し遂げることはできません。彼らはまた六節にあるように物資的な援助、励ましもあったことがわかります。キリストの教会がこの世に建てあげるられるように協力も必要です。

Ⅱ歴代誌 36章

「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神、主がその者とともにおられるように。その者は上って行くようにせよ。』」(23節)

 ヘブル語の旧約聖書では、歴代誌が最後の書です。ここに旧約聖書がまとめられています。

「先祖の神様は、再三再四、預言者を遣わし、警告をお与えになりました。ご自分の国民と神殿とを、深くあわれまれたからです。ところが、国民は神様から遣わされた使者をあざけり、警告を無視し、預言者たちをさんざん侮辱しました。それでついに、もうこれ以上、神様の怒りをとどめることができない、絶望的な状態になったのです。」(15,16節LB)

どんな問題であれ、神様は救いの御手を伸ばし続けられます。しかし、その救いの手を拒絶するなら絶望しかありません。しかし、キリストのもとに行くならば希望はあります。

Ⅱ歴代誌 34章

「行って、見つかった書物のことばについて、私のため、イスラエルとユダの残りの者のために、主のみこころを求めなさい。私たちの先祖が、主のことばを守らず、すべてこの書にしるされているとおりに行なわなかったため、私たちの上に注がれた主の憤りは激しいから。」(21節)

  ヨシヤ王は、神様を熱心に求め、ないがしろにされていた神殿を修復し始めました。その時、ほっぽらかされていた聖書を見つけました。そして、聖書の教えから遠くはなれた自分たちの姿に愕然としました。時代は繰り返します。中世の暗黒時代、マルチン・ルターは聖書を学ぶ中で、ヨシヤ王と同じように聖書の教えから遠くはなれた教会の姿に愕然とし、宗教改革が起こりました。いつの時代も私たちは問われます。聖書をないがしろにしていないでしょうか。聖書を読み、聖書を学び、信仰と人生の規範として聖書に生きることを心がけているでしょうか。聖書は誤りなき神のことばです。