申命記 20章

「あなたがたが戦いに臨む場合は、祭司は進み出て民に告げ、彼らに言いなさい。『聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことでおじけてはならない。共に行って、あなたがたのために、あなたがたの敵と戦い、勝利を得させてくださるのは、あなたがたの神、主である。』」(2‐4節)

祭司の役割は、人々に生ける神が彼ら共におられて、勝利を与えて下さるということを告げることでした。私たちも同じように互いに信仰のことばを告げることが大事だと思います。日々の生活の中で私たちは様々な戦いがあります。だからこそ、主が共におられることを聞く必要があります。主が勝利を与えて下さることを聞く必要があります。聖書は言います。

「ただ相手に益となり、助けとなること、また、祝福を与えることだけを話なさい。」(エペソ4:29LB)

申命記 19章

「どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。」(15節)

私たちはどんなことでも、一人の人の意見で判断してはいけないと聖書は言います。たとえその人が、「みんなそう言っている」と言ったとしても、私たちは一人の人の意見で決断をしてはいけないと注意されています。箴言にもこういう箇所があります。

「最初に訴える者は、その相手が来て彼を調べるまでは、正しく見える。」

LBではこう訳しています。

「だれの話でも、他の人が裏を明かし、全貌がわかるまでは、もっともらしく思えます。」(18:17)

ですから、私たちはひとりの証人によって結論を出さないように気をつける必要があります。

申命記 18章

「ただし、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする預言者があるなら、その預言者は死ななければならない。」(20節)

神に対する聖なる恐れをもつ必要があります。

私たちは軽々しく

「主はこう言われる」

と言うべきではありません。預言者と呼ばれた人でも、神が命じていないことを神が命じたと言うならば、それは死に値すると言います。22節をみると、預言者は一〇〇パーセント当たらなければ死罪にあたります。九〇%でもいけないと。ですから、もし、主が語られていると感じたら、

「主がこうおっしゃっているように感じるのですが、吟味してください」

と言うべきです。聖書のみことばに矛盾したことを、神は語られることはありません。私たちは聖書をしっかりと読み、学ぶ必要があります。聖書を通して神は今も語られるからです。

申命記 17章

「自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。」(19節)

当時イスラエルの国に王はいませんでした。しかし、周囲の国々にならって王を立てるようになることを、神はご存知で、14節以下に王の資格を与えています。王は主の選ぶ者でなければなりませんでした。馬を増やさない、つまり、神以外のものに依存するような人ではいけませんでした。多くの妻や、財産を増やしてはいけませんでした。ソロモン王はこのすべてを破りました。さらにもう一つ、王の資格がありました。それは、聖書を自分の手もとにおき、一生の間、読み続けることでした。ソロモン王が晩年に記した伝道者の書はこのようにまとめられています。

「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて。」

聖書を手離さなければ主に立ち帰ることができます。

申命記 16章

「あなたの神、主のために七週の祭りを行ない、あなたの神、主が賜わる祝福に応じ、進んでささげるささげ物をあなたの手でささげなさい。」(10節)

「七週の祭り」とは、ペンテコステの祭り(五旬節)のことです。この日、聖霊なる神が臨み、初代教会が誕生しました。進んでささげるささげ物を自発的に捧げる祭りの時に聖霊なる神が臨まれたということは興味深いことだと思います。神は私たちに受動的な信仰姿勢ではなく、能動的な信仰姿勢をもつようにチャレンジされているのだと思います。私たちが積極的に進んで主を求めて祈りをささげて行く時に、主が臨んでくださるという世界があるということだと思います。ペンテコステの日、百二十名ほどの人たちが集まって、祈っていました。(使徒1:15参照)進んで主に礼拝を捧げる人たちが百二十名ほど教会に集まるならば、この日本にもリバイバルが起こるのではないでしょうか?今日は主の日。共に主に捧げましょう。

申命記 15章

「その免除のしかたは次のとおりである。貸し主はみな、その隣人に貸したものを免除する。その隣人やその兄弟から取り立ててはならない。主が免除を布告しておられる。」(2節)

七年ごとにゆるしの年が規定されています。どんなにお金を貸していても、七年毎のゆるしの年にはそれを全部ゆるさなければならないと言います。その理由は、「主が免除を布告しておられる」からだと言います。私たちは受けた恩は忘れやすい所がありますが、他人に対する施し、貸しなどはなかなか忘れないところがあると思います。人から受けたひどい仕打ちなどは、貸しとして仕返しをたくらむようなところがあります。イエス・キリストは、私たちのために十字架にかかられ、赦しを布告されました。キリストはゆるしの年を宣言しています。キリストは十字架の上から私たちに語ります。

「わたしはあなたのために死んだ。わたしに免じて、あなたを傷つけた人を赦してくれないか。」

申命記 14章

「あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。」(22節)

「こころのチキンスープ」(ダイヤモンド社)という本で有名になったマーク・ビクター・ハンセンという人が、こんなことを言っています。

「収入の一割を納めた瞬間、世の中全体が自分に向かって開かれる」。

LBでは、収入の一割を捧げる理由をこう訳しています。

「こうして、いつも神様を第一にして生きることを学ぶのです。」(23節)

チリの極度に貧しい農民の群れの教会でこのことを実践したそうです。すると、人々の生活は改善されたそうです。そのことを指導した牧師はこのように言っています。

「どんなに状況が厳しくても、極貧の中にあったとしても、御国の原則は欠乏を豊かさに変えることができるということを学んだのです。」

収入の十分の一を神様に捧げることを通して天の窓が開かれるというのは、聖書が教える御国の原則です。

申命記 13章

「あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現われ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう。」と言っても、その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。」(1‐3節)

どんなに超自然的な奇跡を行うことができても、どんなに素晴らしい人格者であっても、イエス・キリスト以外の何かに従うようにするならば、それは偽預言者です。イエス・キリストを信じる信仰だけが人を救うことができます。たとえ牧師であっても、キリストよりもその人を信頼するように導くならば、それは偽預言者です。キリストよりもその組織を信頼するように導くならば、偽預言者です。どんな預言も夢もキリストを指し示さないなら偽物です。

申命記 12章

「あなたは一生、あなたの地で、レビ人をないがしろにしないように気をつけなさい。」(19節)

レビ人は神殿で専門的に働くために分けられた人々で、現代の牧師、伝道師と言った教職者と呼ばれる専門職の人たちに適用できると思います。キリストにあって上下関係はありませんが、聖書は教職という役割を担う人たちをないがしろにしないように注意を促しています。教職者たちをないがしろにしてしまう時に、

「あなたがたは、私たちがきょう、ここでしているようにしてはならない。おのおのが自分の正しいと見ることを何でもしている。」(8節)

と神がおっしゃられるように混乱が起こります。

「全焼のいけにえを、かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい。」(13節)

と神がおっしゃられているように、神のやり方、神の秩序があります。

私たちは主がお立てになっている教職者たちをないがしろにしないように気をつける必要があります。

申命記 11章

「しかし、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天の雨で潤っている。」(11節)

榎本保郎先生は、このように記しています。

「信仰の世界には山がある、谷がある。しかし、そここそ天のうるおいの地なのである。」

ナイルの河口に広がる肥沃の地から、山と谷の地へとイスラエルの民は向かっていました。自分の努力だけではどうすることもできない、天からの雨を期待しなければ生きていけない世界へとイスラエルの民は向かっていました。まさに、信仰生活とはそのようなものだと思います。イエス・キリストを信じて生きていく中で、山があり谷があります。自分の努力だけではどうすることもできないことを知ります。主の恵みの雨が不可欠だということを学びます。もっとも、山と谷の地だからこそ、天の養いを体験することができるのかもしれません。