詩篇 39篇

「主よ。お知らせください。私の終わり、私の齢が、どれだけなのか。私が、どんなに、はかないかを知ることができるように。」(4節)

 身体的に問題がないと、死を意識する人は少ないと思います。しかし、人は死亡率100%であり、その時は必ずやってきます。人間のはかなさを意識しないがゆえに、「人生の意味」という重要な問いをせず、人生を無駄に生きてしまうことがあると思います。人生時計があるならば、自分は今、何時に生きているのかを意識することは、大事なことだと思います。詩人が祈るように、人間のはかなさを認識することは大切なことだと思います。賢く時間を用いて、神に頼り生きていくことを学ぶことができるからです。しかし、キリストが復活されたことを知っている私たちは、はかなさだけではなく、永遠の世界があることも覚える必要があります。神の御国は絶えることはないからです。主はよみがえられた!

本日は、イースター〈復活祭)です。

教会で、主の復活を共にお祝いしませんか?

詩篇 38篇

「それは、主よ、私があなたを待ち望んでいるからです。わが神、主よ。あなたが答えてくださいますように。」(15節)

問題の最中で、詩人はただ祈って神を待ち望むことを選びました。

「いつまで私は危険な崖っぷちに立ち尽くすのでしょう。」(17節LB)

崖っぷちに立ち尽くしながらも、詩人は、ただ主を待ち望むことを選びました。時として私たちができる最高の行動は、ただ主を待ち望み、祈ることです。いろいろと考えるよりも、主張したりするよりも、ただ黙って祈りに専心することが善い時があります。詩人はそのことを体験したからこそ、この詩が詩篇として私たちのために記録されたのだと思います。アルファ・コースのニッキー先生はこんなことを言っています。

「祈りはキリスト教の中心にあります・・・次のような格言があります。悪魔は、私たちの言葉をあざ笑い、私たちの労苦をばかにする。しかし、私たちが祈るとき、悪魔は震えおののくのだ。」

詩篇 37篇

「悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。」(1節)

 「悪者をうらやんではいけません。」(LB)

と聖書は言います。まじめに生きることがばからしく思えてしまうときがあることは、古今東西、変わりません。

「怒るのをやめ、憤りを捨てなさい。くよくよ思い悩んではいけません。自分が傷つくだけです。悪者は滅ぼされますが、神様に信頼する者には祝福が降り注ぐからです。」(8,9節LB)

私たちは、この事実を聖書から聞く必要があります。神様を無視して生きていくことは、滅びへの道を歩んでいるということに、気づかされる必要があります。

「不正な手段でかせぎまくるより、わずかな持ち物に甘んじて、神様を敬って過ごすほうがましです。」(16節LB)

正しく生きようとする方が、幸いな人生であることを、私たちは聞く必要があります。

「神様は毎日、神様を敬う人の善行をご覧になっていて、永遠のほうびをお与えになるのです。」(18節LB)

詩篇 36篇

「いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。」(9節)

  私たちはどこに自分のいのちの泉を見出そうとしているでしょうか?私たちはどこに光を見出そうとしているでしょうか?イエス・キリストは言いました。

「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ4:14)

イエス・キリストが与えてくださる救いを受け取る時、私たちの内には聖霊なる神様が住んでくださいます。私たちが聖霊様を意識して、日々、聖霊様に満たされることを求めるならば、私たちはいのちの泉を体験することができます。いかがでしょうか?他の何か、他の誰かを求めてしまっているがゆえに、渇いているということはないでしょうか?いのちの泉は、聖霊様にあります。

詩篇 35篇

「私の義を喜びとする者は、喜びの声をあげ、楽しむようにしてください。彼らにいつも言わせてください。「ご自分のしもべの繁栄を喜ばれる主は、大いなるかな。」と。」(27節)

 神様は、ご自分のしもべの繁栄を喜ばれる主です。繁栄することが悪いことではなく、繁栄をどう用いるかが問題です。繁栄を目的に生きていく時に、人生は崩れていきます。しかし、過度に繁栄を否定するべきではありません。神様はご自分のしもべが繁栄することを願っておられるからです。「しもべ」は、「仕える者」のことです。「仕える心」をもつ人が繁栄するならば、その繁栄は、さらに「仕える」ために有効に用いられることだと思います。ですから大事なのことは「仕える」ことと言えると思います。イエス様はおっしゃられました。

「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。」(マタイ23:11)

神様は仕える心を持つ人を捜しておられます。

詩篇 34篇

「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。」(8節)

英語の訳では、

「味わい、見つめよう、主が善い(グッド)ということを」

と訳しています。神様を味わうという表現は面白い表現です。まさに、神様は観念的な世界の話ではなく、体験的な世界と言うことだと思います。哲学的に神学を勉強するだけではなく、実際に神様を味わうことがなければ、本当の意味で神様を知ることができないということだと思います。つまり、膝を屈めて祈ることを通して、神様ご自身を味わう必要があるということです。礼拝者として神様に共に礼拝を捧げることを通して、神様のすばらしさを見る必要があるということです。味わうためには、口を開ける必要があります。見るためには、目を開ける必要があります。神様が善いお方、素晴らしいお方だということを知りたいのであれば、信仰によって神を味わう必要があります。

詩篇 33篇

「新しい歌を主に向かって歌え。喜びの叫びとともに、巧みに弦をかき鳴らせ。」(3節)

 私たちの社会は、常に新しいものが生み出されていきます。新製品だけではなく、春の訪れと共に、新キャベツなどが食卓に並ぶ時、私たちは新鮮さを味わいます。私たちと神様との関係も新鮮さが必要です。過去を思い起こすことも大切ですが、日々、新しい歌を覚えることに挑戦するように、刷新される必要があります。過去覚えた歌に固執することなく、新しい歌を覚えていく必要があります。過去感動した聖句に固執することなく、新たに聖書を読んでいく必要があります。過去に感銘を受けた説教に固執することなく、神様が新しく語ろうとしていることに心を開いていく必要があります。神は今生きておられ、新しい事をなさる方。

「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」(イザヤ43:19)

詩篇 32篇

「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。」(8節)

神様は、私たち一人一人を愛し、気にかけ、導いてくださるお方です。LBではこう訳しています。

「神様はこう言われます。わたしはあなたを教え、最善の人生航路へと導いてあげよう。助言を与えて、一歩一歩を見守ってあげよう。」

具体的には、日々、祈りつつ聖書を開き、読む中で、神様の語りかけを体験することができます。それは、時宜にかなった「みことば」を発見することかもしれません。または、神様ご自身が、私たちの内に働かれ、願いそのものが変えられることかもしれません。もちろん、特別な方法で導かれることを体験するかもしれません。しかし、

「くつわをはめなければ言うことを聞かない、馬やらばのようになるな!」(9節LB)

とあるように、思考を停止することではありません。 

詩篇 31篇

「雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ。」(24節)

 メッセージ訳では、こう訳しています。

「勇敢であれ、強くあれ、あきらめるな。神様がすぐここに来られることを期待しなさい。」(MSG)

神様が私たちに願われていることは、人生のどんな状況でも、神様に期待して生きるということです。

「だから強くあれ、勇敢であれ、主の内にあなたの希望をおく、すべての人よ」(NLT)

と訳しているものもあります。聖書は、神様に私たちの希望をおくように語っています。

私たちはどちらかというと「最初から期待しないほうが、がっかりしなくて済むだけましだ」と考えます。しかし、それは、神様が私たちに願われている生き方とは違います。神様が自分の思い通り動くことを期待すると、確かに、失望することがあると思います。神様の思いは、私たちの思いよりも高いからです。しかし、神様は私たちを愛しておられ、私たちに最善を与えられるということを期待して生きることは、神様が願われていることです。

詩篇 30篇

「まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」(5節)

私たちの人生は夕暮れと朝明けの繰り返しです。順境の日があれば、逆境の日があります。LBでは、6、7節をこう訳しています。

「順境の日に、私はこう言いました。『いつまでも今のままだ。だれも私のじゃまはできない。神様が恵んでくださって、私をびくともしない山のようにしてくださった。』ところが、神様は顔をそむけて、祝福の川をからしたのです。たちまち私は意気消沈し、恐怖におじまどいました。」

私たちの人生はまさに、そのような涙と喜びの繰り返しだと思います。暑い夏がやがて終わり、収穫の秋が来るように、私たちの人生にも様々な季節があります。ヤコブは、こんなことを言っています。

「悩んでいる人がいますか。その人は、神様に祈り続けなさい。また、喜んでいる人がいたら、昼も夜も、主を賛美しなさい。」(ヤコブ5:13LB)

逆境の時は、祈り続け、順境のときは、主を賛美し続ける、この姿勢が大事です。