使徒 28:23-31

「パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねて来る人たちをみな迎えて、少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」(28:30,31)

使徒の働きの最後に、教会のあるべき姿を見ることができます。

「訪ねて来る人たちをみな迎えて」とあるように、教会はオープンである必要があります。

特定の人だけでなく、すべての人に開かれ、すべての人を歓迎する必要があります。

ただし、教会は「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教え」る場所でなければなりません。

教会がイエス・キリストのことを教えないならば、それはもう教会とは呼べません。

「神の国」、すなわち、神の統治を認めないならば、教会とは呼べません。

要するに神の言葉である聖書が最高権威でなければ、教会とは呼べません。

使徒の働きはここで終わりますが、教会は継続しています。

私たちは使徒二九章の教会だからです。

使徒 28:11-22

「その町で、私たちは兄弟たちを見つけ、勧められるままに彼らのところに七日間滞在した。こうして、私たちはローマにやって来た。」(28:14)

パウロはプテオリという町に入港し、その町でキリスト者を見つけたと言います。

プテオリは今のナポリの辺りにある港町で、そのすぐ近くにポンペイもあります。

この時、ポンペイにもキリスト者がいたことが分かっています。

福音はパウロが来る前から伝えられていました。

そして、この後、ローマからもキリスト者がパウロたちを迎えに来たとあります。

パウロはローマに来る前にローマ人への手紙を書いていました。

つまり、ローマ人への手紙を読んだキリスト者がパウロを迎えに来たというのです。

パウロがどんなに励まされたか分かりません。

パウロは「勇気づけられた」(15節)と言います。

ローマの教会もパウロが行く前から存在していました。

神の働きには多様性があります。

使徒 28:1-10

「しかし、パウロはその生き物を火の中に振り落として、何の害も受けなかった。」(28:5)

パウロたちの船は浅瀬に乗り上げ、座礁します。

百人隊長は、パウロを助けるために、泳いで陸に渡るように言います。

そして、全員が無事に陸に上がりました。

島の人々は、火をたいて迎えてくれました。

パウロも、自ら枯れ枝を集めて火にくべました。

すると、マムシが出てきてパウロの手に噛みつきました。

パウロがマムシに噛まれたのを見た人たちは、最初、パウロを呪われた人のように見ていました。

ところが、何の害も受けないのを見て、「神様だ」と言い出します。

私たちの現実生活の中にマムシが出てきて、私たちに噛みついて、私たちの人生をダメにしようとすることがあります。

私たちは、寝ても覚めても悪霊を追い出す必要があります。

イエス・キリストの御名の権威をもって、毎日、追い出す必要があります。

そして、聖霊様を歓迎する必要があります。

使徒 27:27-44

「こう言って、彼はパンを取り、一同の前で神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。」(27:35)

嵐の中で食事をすることは難しいことです。

特に、

太陽も星も見えない日が何日も続き、暴風が激しく吹き荒れたので、私たちが助かる望みも今や完全に絶たれようとしていた。」(二〇節)

とあるように、絶望の中で食事をすることは容易いことではありません。

しかし、これから起こることを考えても、食べて、体力をつけ、気持ちを上げることは重要なことでした。

この時パウロは、食事を勧めただけでなく、神に感謝の祈りをささげてから、食べ始めたとあります。

パウロの行動は、人々に元気を与えるものでした。

聖書ははっきりと、

それで皆も元気づけられ、食事をした。」(三六節)とあります。

人生の嵐の中にあっても、神に感謝の祈りをささげてから、食べ始めるならば、元気づけられる人がいます。

沸騰化

何をしても暑い。

何もしてなくても暑い。

挨拶の言葉も「暑いですね〜」。

どちらかといえば涼しいはずの新潟も過ごしやすいはずの北海道も危険な暑さとなり、電気代を気にしつつもエアコンを使わざるを得ない日々が続いています。

いつもは屋根裏で寝ていることの多い猫のジョシュもこの夏はわたしとおなじ場所にいることが多く、亀のジェニーは4本ある足を完全に伸ばしきった状態での甲羅干し。

カナダ、ギリシア、スペイン、マウイ島での山火事等々。

国連のグテーレスさんが言ったように地球沸騰化の時代なのでしょうか。

創世記を読むと神様は人間に地球の管理(治めること)を任せていることが記されていますがそれができていない現実を突きつけられている気がします。

小さな自分に一体何ができるだろう?

わたし自身はゴミを減らすことくらいしか思いつきません。

みなさんは何か工夫していることはありますか。

断末魔の叫びのような蝉の合唱を聴きながら、暦の上では立秋も過ぎた超残暑な日々をどう乗り切ろうかと思案しながら過ごしています。

今週も皆さんの体調が守られますよう祈ります。

(小山晶子牧師人) 

使徒 27:13-26

「ですから、皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになるのです。」(27:25)

クレタを出る前は、出航すれば命を失うという話でしたが、この時は、皆の命が助かるとパウロは言いました。

どうして、話が変わったのでしょうか。

この発言の変化の背後にあるのは、「とりなしの祈り」だとピーター・ワーグナー博士は言います。

とりなしの祈り」とは、他者のために、その人に代わって祈ることです。

パウロは自分の言うことを聞いていれば、こんな危害を被らなくてすんだことを知っていました。

それでも、パウロは百人隊長や船長をはじめとする二百七十六人全員のために祈っていたということです。

そしてそのとりなしの祈りは、私たちの想像以上に力あるものでした。

ワーグナー博士は、「歴史はとりなしの祈りをする者のものなのです」と言います。

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう!

使徒 27:1-12

「しかし百人隊長は、パウロの言うことよりも、船長や船主のほうを信用した。また、この港は冬を過ごすのに適していなかったので、多数の者たちの意見により、ここから船出し、できれば、南西と北西に面しているクレタの港フェニクスに行き、そこで冬を過ごそうということになった。」(27:11,12)

百人隊長は、専門家の意見、そして、最終的に多数の者たちの意見に従いました。

それは当然の判断だったように思えます。

しかし、彼が無視したのは使徒パウロからの警告でした。

祈って、祈って、聖霊様に導かれて語られた言葉に耳を傾けなかったのです。

そしてその結果、パウロが語った通りに船は嵐に巻き込まれ、沈没してしまいます。

教会が重要事項を決定するとき、専門的知識よりも、多数の者たちの意見よりも、聖書的見地から導き出す姿勢が重要です。

大多数とは反対の言葉を神が語られたとき、それに備えることができる共同体であることができるようにお祈りください。

使徒 26:24-32

「しかし、パウロはこう答えた。「わずかな時間であろうと長い時間であろうと、私が神に願っているのは、あなたばかりでなく今日私の話を聞いておられる方々が、この鎖は別として、みな私のようになってくださることです。」」(26:29)

パウロの伝道の原点には、「みな私のようになってくださることです」とあるように、キリスト者として生きることの幸いがあります。

パウロは、鎖につながれていました。

それでも、私のようになって欲しいと、キリスト者として生きることの素晴らしさがその発言から滲み出ています。

キリスト者として生きることは、パウロのように試練がなくなるわけではありません。

楽ができるとは言いません。

しかし、退屈することはない、充実した意義深い人生です。

キリストと顔と顔を合わせるその日まで走り続ける、信仰の冒険の人生です。

そして何よりも、助け主である聖霊様がいつも一緒です。

使徒 26:13-26:23

「こういうわけで、アグリッパ王よ、私は天からの幻に背かず、」(26:19)

パウロはダマスコ途上で、栄光に輝くイエス・キリストと出会いました。

その時、パウロは地に倒され、これまで拠り所にしていた思想、自我などが砕かれました。

人は、一度、徹底的に砕かれる必要があります。

新しく生まれなければ神の国を見ることはできないからです。

それからパウロは、「天からの幻」(ヘブンリービジョン)をいただいたと言います。

その幻は18節です。

「人々の目を開き、自分のほんとうの姿に気づかせ、罪を悔い改め、悪魔の暗闇から出て、神の光の中に生きるようにするために。わたしを信じる信仰によって、彼らは罪の赦しを受け、きよくされたすべての人たちと共に、神の相続財産を受けるようになる。」(LB)

パウロに与えられたこの「天からの幻」は、キリストを信じるすべてのキリスト者に与えられている幻です。

使徒 26:1-12

「実は私自身も、ナザレ人イエスの名に対して、徹底して反対すべきであると考えていました。」(26:9)

ヘロデ・アグリッパ2世に対してパウロは自分の人生のストーリーを証することによって弁明しました。

私たちはいつでの自分の人生のストーリーを証することができる準備をしておく必要があります。

私たちの人生のストーリーは、大きな神のストーリーの一部であることを忘れてはいけないと思います。

証をする時は、まず、キリストと出会う前の自分がどうであったかを語ります。

パウロの場合はこのように語っています。

「かつて私は、ナザレのイエスの弟子は撲滅すべきだと堅く信じていました。」

パウロはこの後、どのようにキリストに出会ったか、そして、キリストに出会って何が変わったかを語ります。

聖書は言います。

「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」(1ペテロ3:15)