11月の日曜日 November Sundays

4日 ガラテヤ4:8-:11 「神を知る、神によって知られる」
小山英児牧師
9時(HC)、10時半(HC)、18時(HC) (HC)=聖餐式
11日 ガラテヤ4:12-:20 「キリストがあなたのうちに形づくられるまで」 
小山英児牧師
9時、10時半、18時
18日 ガラテヤ4:21-:31 「どっち??」 
小山英児牧師
9時、10時半、18時
25日 感謝礼拝 (1年間の感謝を分かち合う時をもちます。)
9時、10時半、18時

Ⅱ歴代誌 15章

「彼らは心を尽くして誓いを立て、ただ一筋に喜んで主を慕い求め、主は彼らにご自身を示されたからである。主は周囲の者から守って彼らに安息を与えられた。」(15節)

LBでは、「神様を慕い求め、ついに神様と出会うことができたので」と訳しています。聖書が私たちに教えていることは、私たちが心から求めるならば、私たちは神様に出会うことができるということです。賛美の中で、祈りの中で、また、神のみことばである聖書を読む中で、私たちは生ける神、イエス・キリストと出会うことができます。「ただ一筋に喜んで主を慕い求め、主は彼らにご自身を示された」。新約聖書にもこう書いてあります。
「神様のもとに来ようとする人はだれでも、神の存在と、熱心に神様を求めれば必ず報いられることとを、信じなければなりません。」(ヘブル11:6LB)
主を慕い求めるならば、主はご自身を示されます。
「主よ、あなたを心から慕い求めます。」

Ⅱ歴代誌 14章

「アサはその神、主に叫び求めて言った。「主よ。力の強い者を助けるのも、力
のない者を助けるのも、あなたにあっては変わりはありません。私たちの神、主
よ。私たちを助けてください。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大
軍に当たります。主よ。あなたは私たちの神です。人間にすぎない者に、あなた
に並ぶようなことはできないようにしてください。」」(11節)

 無限に1を足しても、無限に100を足しても変わりはありません。私たちの
神は無限の神なので、力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも変わり
はありません。大事なのは私たちが無限の神に拠り頼み、そのみ名によって歩ん
でいくかどうかということです。ですから使徒パウロはこう言いました。
「神様が味方なら、だれが私たちに敵対できるでしょうか。」(ローマ8:31LB)
「主よ、あなたに拠り頼み、あなたの御名によって前進します。」

Ⅱ歴代誌 13章

「イスラエル人は、このとき征服され、ユダ人は、勝利を得た。彼らがその父祖の神、主に拠り頼んだからである。」(18節)

北イスラエル王国は、南ユダ王国をいわゆる挟み撃ちにしました。14節には、「戦いは前後から迫っていた。」とあります。まさに、八方ふさがり状態でした。しかし、天は開いていました。彼らが主に叫び求めた時に、神が介入されました。同じように私たちの人生にも、挟み撃ちにされているような、八方ふさがりの状況があります。しかし、天は開いています。私たちも主に叫び求めることができます。そのことをよく理解していた使徒パウロは言いました。「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。」(Ⅱコリント4:8)
「主よ、どんなに行き詰っても、天を見上げ、あなたを呼び求め、あなたに拠り頼んでいくことができますように。」

Ⅱ歴代誌 12章

「このように、彼がへりくだったとき、主の怒りは彼の身を離れ、彼を徹底的に滅ぼすことはされなかった。ユダにも良いことがあったからである。」(12節)

聖書はへりくだることの大切さを何度も語っています。使徒ペテロもこう言っています。「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」(Ⅰペテロ5:5)レハブアム王は、王位が確立し、強くなるに及んで、神から離れていってしまいました。高ぶりは恐ろしいものです。祈らなくても、聖書を読まなくても、教会にいかなくても自分で何とかやっていけると思い始めるとき、人は、ずれていってしまうのだと思います。へりくだって、「イエス様あなたが必要です。今日もあなたのみことばが必要です。」と、祈りつつ教会生活を大切にしていくことが大切です。「ユダにも良いことがあったからである。」という表現には希望があります。へりくだったとき、良いことがはじまります。

Ⅱ歴代誌 11章

「実は、レビ人は自分たちの放牧地と所有地を捨てて、ユダとエルサレムに来たのである。ヤロブアムとその子らが、主の祭司としての彼らの職を解き、自分のために祭司たちを任命して、彼が造った高き所と雄やぎと子牛に仕えさせたからである。」(14、15節)

ヤロブアムの問題は、神が任命した祭司たち、レビ人たちを軽視したことです。聖なるもの、神のものに関して、人間的な、合理的な発想をすることは危険を伴います。聖なるものは、自分の合理的な判断ではなく、神のみことばに照らして判断する必要があるからです。ヤロブアムは「自分のために祭司たちを任命し」たと言います。彼にとっての神は、自分自身だったのです。このような自分中心の信仰姿勢は、ヤロブアムのようにどんどんとずれていってしまいます。ですから、聖書信仰が重要です。聖書が何と言っているか、聖書を中心とした信仰姿勢が大事です。「聖書は誤りなき神のことばだと信じます。」

Ⅱ歴代誌 10章

「王は民の願いを聞き入れなかった。それは、かつてシロ人アヒヤを通してネバテの子ヤロブアムに告げられた約束を主が実現するために、神がそうしむけられたからである。」(15節)

私たちは、レハブアム王はなんと愚かな事をしたのだろうと思います。しかし聖書は、実はこれは神がしむけられたことだったと言います。詳しくはⅠ列王記11:29-39に出てきます。つまり、問題の発端はソロモン王にあったということです。私たちは、見えるところですべてを判断する傾向があります。しかし、物事はそんなにも単純でない場合が多いと思います。その背後にある意味を見落としてはいけないと思います。「神がそうしむけられた」ということは、神が許可されたということです。神は私たちが神に立ち返るために、あえて、私たちが問題にあうことを許可されるということです。つまり、問題が問題ではなく、私たちがその問題をどうするかが問題です。「主よ、あなたに立ち返ります。」

Ⅱ歴代誌 9章

「実は、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、彼らの言うことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはあなたの知恵の半分も知らされていなかったのです。あなたは、私の聞いていたうわさを上回る方でした。」(6節)

シェバの女王は、うわさ以上にすばらしいソロモンの知恵と事績に圧倒されました。しかし、イエス様は、こうおっしゃられました。
「南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。」(マタイ12:42)
イエス様は、ソロモンよりもまさったお方です。私たちはイエス様のもとにシェバの女王のように地の果てから行く必要はありません。今、この時、この場所で、イエス様のもとに行くことができます。
「主よ、あなたのみ前に今行きます。」