士師記 10章

「行け。そして、あなたがたが選んだ神々に叫べ。あなたがたの苦難の時には、彼らが救うがよい。」(14節)

チャック・スミス師は、この箇所に関してこんなコメントをしています。

「人々は、どんな神に仕えていても、すべての道は天国に通じると言います。しかしそれは間違っています。問題や助けが必要な時に、それは本当に大きな違いがあります。」

聖書にこういう箇所もあります。

「神様は私たちの隠れ家、また力、そして苦難にあえぐ時の確実な助けです。」(詩46:1LB)

父、子、聖霊の三位一体なる聖書の神は今生きて働かれている神です。私たちの祈り、叫びを聞いて御業をなしてくださる神です。苦難の時の確実な助けです。主から『しかし、あなたがたはわたしを捨てて、ほかの神々に仕えた。だから、わたしはこれ以上あなたがたを救わない。』(13節)と言われないように、日々主だけに、仕えていけますように。

士師記 9章

「今、あなたがたはまことと真心をもって行動して、アビメレクを王にしたのか。あなたがたはエルバアルとその家族とを、ねんごろに取り扱い、彼のてがらに報いたのか。」(16節)

この箇所から私たちが学ぶことが出来ることの一つは、誰を自分たちの指導者に選ぶかという選ぶ側の責任です。3節を見ると、そもそも「身内の者」ということで人々はアビメレクを支持したことが記されています。つまり、公正さよりも関係を重視しました。そして、それが悲劇を生みました。どういう人物か知らないのに、知り合いの紹介だから、身内だからと支持してしまい、その結果もたらされてきた悲劇は、歴史も証明しています。アビメレクの場合、野望の問題がありました。聖書は言います。

「聖書に約束されているように、神様は、謙そんな者には力をお与えになりますが、高慢な者は敵視なさるのです。」(ヤコブ4:6LB)

士師記 8章

「そのとき、イスラエル人はギデオンに言った。『あなたも、あなたのご子息も、あなたの孫も、私たちを治めてください。あなたが私たちをミデヤン人の手から救ったのですから。』しかしギデオンは彼らに言った。『私はあなたがたを治めません。また、私の息子もあなたがたを治めません。主があなたがたを治められます。』」(22,23節)

イスラエルの人々はギデオンをイスラエルの国の王としようとしました。そして、世襲制度的な指導体制まで進言しました。しかし、ギデオンは言いました。

「私は王になる気はない。息子も同じだ。神様こそあなたがたの王だ。」(LB)

私たちはすぐ誰か人間に導きを求めてしまう傾向があります。しかし、ギデオンは、自分に依存するのではなく神に依存するように言いました。今年の年間聖句は、

「すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」(ヨハネ10:4)

主に聴従していくことができますように。

士師記 7章

「そのとき、主はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。」(2節)

ミデヤン人は13万5千人(8:10)、イスラエル人は4分の1以下の3万2千人。すでに人数的には不利な状況のはずでした。しかし、神様はそれでも多すぎると言われました。なぜなら、私たちがすぐに自分の力で勝ったつもりになって、傲慢な態度をとるからだというのです。神様はあえて、神様が介入してくださらなければどうしようもない状況に追い込まれることを許されます。私たちがただ膝を屈めて祈るしかない状況に追い込まれることを許可されるのです。そうするならば、すべての栄光は神様に帰されるからです。

「主よ、あなたが必要です。私たちの状況にご介入して下さい。栄光は主のものです。」

士師記 6章

「・・・このとき、ヨアシュの子ギデオンはミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で小麦を打っていた。主の使いが彼に現われて言った。『勇士よ。主があなたといっしょにおられる。』」(11,12節)

ミデヤン人の目を避けて、酒ぶねの中でこっそりと麦を打っていた小心なギデオンの前に主の使いが現れて言いました。

「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」

ギデオンは自分が勇士だと思っていなかったことは明らかです。実際彼は、自分がどんなに価値のない小さな存在かを告げます。服部師は、

「神の召命に応える者にとって、それがどのような事情の下であったとしても、神が共にいてくださるという神の約束こそが、どのような物質的な保証や約束よりも尊いのであり、力強い支えなのである。」

と言います。聖書は言います。

「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。」(Ⅱテモテ1:7新共同訳)

士師記 5章

「主の使いは言った。『メロズをのろえ、その住民を激しくのろえ。彼らは主の手助けに来ず、勇士として主の手助けに来なかったからだ。』」(23節)

メロズは地名ですが、その明確な位置は分かっていません。しかし、彼らは協力できたはずなのに、協力しなかったがゆえに主の使いに責められます。聖書は「何もしない」ということを警告しています。聖書が教える黄金律は

「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」(マタイ7:12)

私たちは「自分にして欲しくないことを他の人にもしないように」と、「迷惑をかけない」、「しない」ということを教育されます。しかし、聖書は「自分にして欲しいことを他の人にもするように」と、することを勧めます。

「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。」(ヤコブ4:17新共同訳)

教会がもっとも必要としている協力は祈りです。祈りが教会を建て上げます。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

士師記 4章

「そのころ、ラピドテの妻で女預言者デボラがイスラエルをさばいていた。彼女はエフライムの山地のラマとベテルとの間にあるデボラのなつめやしの木の下にいつもすわっていたので、イスラエル人は彼女のところに上って来て、さばきを受けた。」(4,5節)

神様が用いられた士師の一人は、女性でした。男性優位という当時の社会において、神様があえて女性を用いられたことには意味があると思います。神様は男性も用いられますし、同じように女性も用いられます。聖書にはっきりと書いてあります。

「神にはえこひいきなどはないからです。」(ローマ2:11)

「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」(ガラテヤ3:18)

神様は今も、世界中いたるところを見渡して、性別に関係なく、御自分と心を一つにする人を探しています。

士師記 3章

「イスラエル人が主に叫び求めたとき、主はイスラエル人のために、彼らを救うひとりの救助者、カレブの弟ケナズの子オテニエルを起こされた。」(9節)

士師記には一つのサイクルがあります。まず「背信」。

「イスラエル人は、主の目の前に悪を行ない、彼らの神、主を忘れ」(7節)。

その結果、彼らは蒔いた種を刈り取り、他国の支配に屈します。何年間かの苦しみの後、人々は神に叫び求めます。神は彼らの叫びを聞かれ、士師と呼ばれる人々を起こされ、彼らを救います。(この箇所ではオテニエル)

「しかし、さばきつかさ(士師)が死ぬと、彼らはいつも逆戻りして、先祖たちよりも、いっそう堕落して、ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝んだ。彼らはその行ないや、頑迷な生き方を捨てなかった。」(2:19)

このサイクルが繰り返されます。このサイクルから解放される方法が聖霊です。

「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ8:2)

士師記 2章

「その同世代の者もみな、その先祖のもとに集められたが、彼らのあとに、主を知らず、また、主がイスラエルのためにされたわざも知らないほかの世代が起こった。」(10節)

出エジプトという神の偉大な救い、解放を知らない世代が起こったと言います。知らないと言っても、親やいろいろな人から、知識としては話を聞いていたと思います。ですから問題は、彼らはそれらの話を単なる昔話、彼らとは直接関係がない物語としてしか聞いていなかったということだと思われます。N・T・ライト師はこう言います。

「『聖書の権威』に生きるとは、その物語の語っている世界に生きることを意味する。その中に、共同体としても、個人としても、自分たちを浸すことである。」

「聖書は、私たちの目の前にある務めを把握させ、その務めに私たちを取りかからせ、それを達成させるためにある。」

主を知らない世代とならないように、聖書をしっかり学ぶことができますように。

※ 本日のSSCは、婦人会後の13時半よりキリスト教書店(オアシス横浜)の移動販売があります。

士師記 1章

「主がユダとともにおられたので、ユダは山地を占領した。しかし、谷の住民は鉄の戦車を持っていたので、ユダは彼らを追い払わなかった。」(19節)

榎本師はこの文章の意味をこう説明しています。

「主がユダと共におられたので、ユダはついに山地を手に入れたが、平地に住んでいた民は鉄の戦車をもっていたので、彼らはそれに恐れおののき、ついに神により頼むことをしなかったので、彼らはこれを追い出すことができなかった。」

つまり、彼らは自分の力で何とかできる敵に対しては神によりたのんで進んでいったのですが、自分たちの手には負えない敵に対しては、神によりたのんで前進するということをしなかったので、勝利を得ることができなかったというのです。私たちは何とかなりそうな問題は神様に信頼できるのですが、どうしようもないように思える問題は、神様にも不可能と思ってしまうところがないでしょうか?