1テサロニケ 3章

「このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。」(3節)

クリスチャンになったら順風満帆の人生が待っているという約束は残念ながらありません。逆に、

「クリスチャンにとって困難とは、神の計画の範囲内の出来事なのです。」(3節LB)

とパウロは言います。困難は想定内であると言うのです。ですから、問題があることが問題ではありません。問題をどう対処するかが問題です。問題は祈るためにあります。パウロは

「昼も夜も熱心に祈っています。」(10節)

と言いますが、私たちが膝を屈め祈り始めるときに、神の偉大な御業を体験します。私たちの神は今も生きて、働かれておられるお方です。私たちの祈りにこたえてくださるお方です。

1テサロニケ 2章

「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」(13節)

聖書は「神のことば」です。この手紙の著者は使徒パウロですが、聖霊なる神様がパウロに霊感を与えてこの手紙を書かせたと、神のことばとして受け入れることが大切です。そして、この神のことばは、当時のテサロニケの人々のうちに働かれただけでなく、今も、信じる私たちのうちに働いています。LBでは後半部分をこう訳しています。

「事実、この神のことばは、信じる者の生活を一変させるものです。」

神のことばには力があります。ですから、信仰をもって聖書を「神のことば」として読むことに意味があります。神のことばは力があり、信じる私たちのうちに働いているからです。

1テサロニケ 1章

「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。」(6節)

テサロニケ人への手紙第一は、パウロが最初に書いた手紙と言われています。テサロニケは、今も繁栄しているギリシャの都市です。使徒17章にテサロニケでのパウロの宣教が描かれています。「ところが、ねたみにかられたユダヤ人は」(使徒17:5)とあるように、嫌がらせもありました。しかしパウロは言います。

「私たちが語った教えは、あなたがたの人生に重大な影響を与えました。聖霊によって、これこそ真理だという確信があなたがたに与えられたからです。また、私たちの生活そのものも、私たちが語ったことばの正しさを実証したと言えるでしょう。こうしてあなたがたも、私たちや主ご自身のあとに続く者となりました。多くの試練や悲しみにもくじけず、聖霊から頂いた喜びにあふれ、私たちの教えを受け入れたからです。」(5,6節LB)

今日は主の日。主に礼拝を捧げましょう。

※ 本日の栄シャローム福音教会の礼拝は、創立宣教師であるモラー先生ご家族が来られ、分かち合ってくださいます。

詩篇 150篇

「息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。」(6節)

賛美の歌を歌うことは、単なる音楽以上の意味があります。主を賛美することは神の命令だからです。つまり、主を賛美することは、単に歌を歌うこと以上の意味があるのです。ですから、最高の賛美を神に捧げる姿勢が大事になってきます。いつも、どうしたら最高の賛美を神に捧げることができるかを考えることは素晴らしいことです。教会として、賛美を充実させるためにいろいろな設備を充実させることも大事なことです。個人として、賛美を神にいつもささげることができるようにいろいろな賛美のCDを聴いたりして新しい賛美を覚えることも大事なことです。最高の賛美を主にささげるためには、受け身の姿勢にならずに、積極的に捧げていく姿勢が大切です。

「生きているものはみな、主に賛美の声を上げなさい。さあ、あなたも神をほめたたえなさい。ハレルヤ。」(LB)

※ 明日の主日礼拝は、栄シャローム福音教会の創立宣教師であるモラー宣教師ご家族が来られます!

詩篇 149篇

「ハレルヤ。主に新しい歌を歌え。聖徒の集まりで主への賛美を。」(1節)

個人主義の影響で、集まることが過小評価されることがあります。聖書も一人で読めるし、賛美も一人で歌える。インターネットもあると。信仰は、そもそも個人的なものだと。しかし、聖書はそうは言いません。「聖徒の集まりで主への賛美を」と言います。新共同訳では、「主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ。」と訳しています。地域教会は、あってもなくてもいい存在ではありません。私たちは共に集い、共に主を賛美する共同体を必要としています。地域教会は、イエス・キリストの十字架の御業のゆえに聖徒とされた集まりであり、まさに、主の慈しみに生きる人の集まりです。ですから、聖書は言います。

「集会から離れたりする人たちにならってはいけません。主が再びおいでになる日は間近なのですから、互いに励まし合っていきましょう。」(ヘブル10:25LB)

詩篇 148篇

「彼らに主の名をほめたたえさせよ。主の御名だけがあがめられ、その威光は地と天の上にあるからだ。」(13節)

主をほめたたえることは、実は、私たちに命じられていることでもあります。私たちは主を賛美するために存在しています。ですから、主を賛美することを通して、私たちは満たされます。主の御名だけがあがめられることが大切です。主だけがすべての賛美を受けるにふさわしいお方です。教会は、主の御名を何よりも高くするために存在しています。教会の主人公は主であるイエス・キリストです。栄光は主のものです。教会ではいつも、イエス様の素晴らしさが語られるべきです。イエス様以外の誰かがほめたたえられていたら、教会は反省する必要があります。礼拝の時間が終わったとき、「主は素晴らしい!イエス様、感謝します。」と思わず口から出てしまうのが教会のあるべき姿です。

詩篇 147篇

「主は心の打ち砕かれたものをいやし、彼らの傷を包む。」(3節)

心が壊れてしまうかと思うくらい、つらい出来事や悲しい思いを経験することがあると思います。そのようなときを私たちはどのように過ごしているでしょうか。嵐が過ぎ去るのをじっと待つように、心が落ち着きを取り戻すまで時間をかけることができればよいのかもしれませんが、それは根本的な解決にはなりませんし、現実には容赦なくやってくる日々の出来事の中で心の処理をする間もないままに過ごしているのではないでしょうか。そんなときにほんの一言でも

『神様!』

と叫ぶ時間があれば、と思います。私たちの痛みをすべてご存じの主は、私たちがその痛みに気付き、癒しを求めて御前に出ることをずっと待っておられるのです。

詩篇 146篇

「幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は。」(5節)

この箇所の前節には、神以外の者に頼ることのむなしさが記されています。

『人の助けをあてにしてはいけません。…人はみな死ぬ運命にあるからです。呼吸が止まり、いのちの火が消えた瞬間に、その人の人生の計画は、すべて無になるのです。』(3,4節LB)

わたしたちは「誰か」や「何か」に安心や安定を求めようとします。しかし、しばらくするとそれらが万能ではないことに気づき、幻滅してしまうこともあると思います。神は私たちが神以外の何かに信頼している時、その「なにか」を取り去ってしまうことがよくあります。詩篇の中で、繰り返し神に信頼することを語っている背景には、イスラエルの民がなかなかそのような生き方をすることができなかったことが挙げられると思います。失敗しながら、神に正されながら、私たちもまた今日、神にのみ信頼することを学びます。

詩篇 145篇

「代は代へと、あなたのみわざをほめ歌い、あなたの大能のわざを告げ知らせるでしょう。」(4節)

LBではこう訳しています。

「それぞれの時代に生きる人々が、その子どもたちに、神のすばらしさを伝えていきますように。」

私たちは次世代に、神の素晴らしさを伝えていく責任があると言います。子どもたちに、神の素晴らしさを伝える責任は、この時代に生きている私たちにあると言うのです。どのようにして次世代に神の素晴らしさを伝えていくことができるのでしょうか。まず第一に、私たちは祈ることができると思います。そして、次世代に伝えていくために、工夫する必要があると思います。自分たちの心地よいスタイルを押し付けるのではなく、次世代に伝えていくことができる方法を考え、挑戦していく必要があります。私たちもまた、そのようにして、前の時代の人たちから伝えていただいたということを心に留めていくことができますように。