マルコ 10:46-52

「彼は、ナザレのイエスがおられると聞いて、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めた。」(10:47)

「ティマイの子のバルティマイ」と、癒された人の個人名が登場するのは、マルコの福音書ではとても珍しいことです。

これは後の教会で彼がよく知られていたからだと言われます。

この書き方はバルティマイを、私たちが「見習うべきモデル」として描いているようです。

見習うべき4つのポイントがあります。

第一番目は、彼はイエス様が誰であるか認識していたということです。

「ダビデの子」は旧約聖書で約束されてきた「メシヤ」のことです。

第二番目は、イエス様が彼を助けることができると明確に信じていたということです。

第三番目は、彼は物ごいを捨てたということです。

第四番目は、彼はその道で、イエス様に従いはじめたということです。

イエス様は彼に単なる視力の回復だけではなく、新しい視点(世界観)を与えられました。

マルコ 10:32-45

「あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。」(10:44)

十字架のメッセージは私たちの視点に挑戦します。

私たちのプライドや、この世の支配、権力に挑戦します。

イエス様がもたらす「神の国」は、この世界の権力や支配をひっくり返してしまうものでした。

イエス様はそのことを語られ、実践されました。

「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」(45節)

十字架は「私たちの罪の赦しのため」という意味があります。

イエス様は

「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」(38節)

と問われましたが、それは、私たちの身代わりとなって、罪の報いとしての神の裁きをあの十字架で受けられることでした。

神は、独善的な支配者ではなく、仕える者を用いて、この世界を変革されます。

マルコ 10:17-31

「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」(10:31)

ユダヤ人は、神がその人を喜ばれているから、この人は裕福なのだと考えていました。

それで

金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。

というイエス様の言葉は驚きを与えました。

「金持ちこそ神から祝福された人だと考えられていたからです。」(LB)

聖書は神を信じる者に「祝福を与え、繁栄を与える」という約束を与えていますが、目の前の一時的な状況を私たちが自分勝手な憶測で判断して、祝福されているとか祝福されていないとか言ってはいけないということです。

あくまでも神の領域なのです。

ですから、イエス様は言われました。

「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」(27節)

富んでいるから祝福されているとは限りません。

貧しいからといって祝福されていないとは限りません。

あきこの知らない世界

リラメンバー松浦千登勢の17歳年下夫が30歳で総合格闘家を目指すと言った時、びっくりするやら呆れるやらで何も言えなかった数年前。

しかもプロを目指すという言葉に腹立たしさすら覚えました。

畑は違えどプロになるということの厳しさは精神的にも経済的にもどれほど大変か少しは知っている者として、手放しで賛成は正直できませんでした。

だいたい総合格闘技って何?

殴り合うんでしょう?

生活どうすんの?

妻がいるのになんて無責任な。

わたしの心はおおよそこんな思いでした。

ところが千登勢は夫を支え続け、一番の理解者となって時にはセコンドをやり、祈り励まし続けたのです。

厳しい総合格闘技の世界で彼は本当にプロになり、本日東京で新人王決定戦に出場することになりました。

この数年間、千登勢を傍で見ながら思いました。

これこそ無償(アガペー)の愛だ、と。

聖霊なる神様も、危なっかしい私たちの歩みを見捨てることなく励まし、セコンドにつき、支えてくださってるんだと。

あの時賛成できなくてごめん。

応援できなくてごめん。

だからきょうはその分も全力で勝利を祈るからね。

(小山晶子牧師婦人)

マルコ 10:1-16

「イエスは立ち上がり、そこからユダヤ地方とヨルダンの川向こうに行かれた。群衆がまたイエスのもとに集まって来たので、再びいつものように彼らを教え始められた。」(10:1)

イエス様の声を聞きたいのであれば、イエス様のもとに集まらなければなりません。

西洋の個人主義の影響か、インターネットの普及の影響か、否、初代教会の時代から、信仰の個人的な側面を強調するあまり集まることを軽視する人たちがいました。

ですから聖書は言います。

「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。」(ヘブル10:25)

いつものように…教え始められた。」とあるように、イエス様の働きの中心は「教えること」でした。

イエス様は今も聖書のみことばを通して私たちに教えてくださるお方です。

イエス様の「教会」に集まってきて期待できることは、聖書のみことばが教えられることです。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

マルコ 9:38-50

「また、わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、むしろ、大きな石臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれてしまうほうがよいのです。」(9:42)

世界には多くの「わたしを信じるこの小さい者たち」がいます。

私たちの生きている文化とはまったく違う「わたしを信じるこの小さい者」がいます。

自分は苦手なタイプと思うような「わたしを信じるこの小さい者」がいます。

私たちがもし、そのような人を排斥してしまうならば、これは大きな問題だとイエス様は言われます。

私たちは自分の好みや、育ってきた文化で優劣をつけるべきではありません。

切り捨てるべきではありません。

様々な人、様々なグループが存在する理由は、キリストのからだには様々な器官があるからです。

神は目的をもって一人一人を導かれます。

必要とされていない人などいません。

私たちは互いの存在を尊重することが求められています。

マルコ 9:30-37

「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」(9:37)

古代社会において、子どもは親の所有物のように扱われていました。

何の地位もない子どもを、イエス様の御名のゆえに受け入れるならば、イエス様を受け入れることであり、「わたしを遣わされた方を受け入れる」のと同じことだとイエス様は言われました。

つまり、誰でも、子どもでも、イエス様との関係を築いているならば、人々が神のもとへ行くために「用いられる器」になれると言ったのです。

そのような意味で、弟子たちは特別ではないと。

イエス様は、「自分こそ重要人物だ!」と言い合っていた弟子たちの思いをひっくり返されたのです。

イエス様についていくことは特権階級を手に入れられるという類のものではありません。

マルコ 9:14-29

「すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」」(9:29)

イエス様は弟子たちに「修行が足らん!」と言われたわけではありません。

この種のものは、まず、イエス様ご自身が十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえり、天に上り、栄光の御座に着座する必要があると言われたのです。

私たちの祈りは単なる願掛けとは違います。

イエス・キリストの御名によって祈る時、私たちはイエス・キリストの十字架の御業を認識するのです。

そして、イエス・キリストの御名によって祈る時、神の御国の力が解き放たれるのです。

イエス・キリストが、私たちのために十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえられたことを通して、神の目的は成就しました。

このことによって、祈りと礼拝は新しくされました。

天と地は新しい方法で一つになりました。

未来と現在は、新しい方法でつながりました。

マルコ 9:2-13

「ペテロがイエスに言った。「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」」(9:5)

「山の上の体験」は素晴らしいもので、ペテロがそこに幕屋を造りたい、そこに留まりたいと言った意味も分かる感じがします。

モーセの時代からダビデ王の時代まで、「幕屋」というのは、神に礼拝を捧げる場所でもありました。

それは、神の領域である天と私たちが生きているこの地上とが重なり合う場所でもありました。

しかし、注目すべきはその後の出来事です。

「そのとき、雲がわき起こって彼らをおおい、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。」彼らが急いであたりを見回すと、自分たちと一緒にいるのはイエスだけで、もはやだれも見えなかった。」(7,8節)

つまり、私たちが「幕屋」を造るのではなく、イエス・キリストが「幕屋」なのです。

マルコ 8:27-9:1

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。」(8:36)

イエス様が教えられた「神の国」の概念は、一般的な人が想定する「人生で本当に重要なことは何か」ということをひっくり返します。

イエス様は言われます。

「誰でもわたしと一緒に行こうという人は、わたしに導かれなければなりません。

あなたが運転席に座るのではなく、わたしです。

苦しみから逃げてはいけません。

それを抱きなさい。

わたしについてきなさい。

わたしがどうするかを見せましょう。

自己啓発は実際のところ助けになりません。

自己犠牲こそが、自分を、本当の自分を救う唯一の道であり、それがわたしの方法です。

あなたが欲するすべてを得たとしても、本当の自分を失ったら何の益がありますか。

あなたの魂の代わりにあなたは何を差し出しますか?」(34-37節MSG)