1列王記 20:35-43

「イスラエルの王は不機嫌になり、激しく怒って自分の宮殿に戻って行き、サマリアに着いた。」(20:43)

イスラエルがアラムの軍隊を打ち破ることができたのは、神の御業でした

。しかし、アハブ王はあたかも自分の力であるかのごとく振る舞い、神のみこころを求めることなく、ベン・ハダドと契約を結んで去らせてしまいました。

アッシリアの脅威に対抗するためには、ベン・ハダドと協力する方が有益だと考えたのだと思われます。

ですから、このことを指摘されたアハブ王は悔い改めるどころか、不機嫌になり、激しく怒ったと言います。

自分の計画の方が、神のご計画より優れていると考えたのだと思います。

神を信頼するよりも、自分のやり方の方が優れていると考えたのだと思います。

しかし、神に従うことよりも大事なことがあるのでしょうか。

不機嫌になったり、腹を立てたりするのではなく、へりくだり、悔い改めることができますように。

1列王記 20:26-34

「ときに、一人の神の人が近づいて来て、イスラエルの王に言った。「主はこう言われる。『アラム人が、主は山の神であって低地の神ではない、と言っているので、わたしはこの大いなる軍勢をすべてあなたの手に渡す。そうしてあなたがたは、わたしこそ主であることを知る。』」(20:28)

預言者が預言していたように、アラムの大軍が再びイスラエルに進軍してきました。

イスラエル側も準備をしていましたが、「アフェクを埋め尽くしているシリヤの大軍に比べて、イスラエル軍は二つの小さなやぎの群れのようにしか見えませんでした。」(27節LB)

しかし、神にできないことはありません。

無名な預言者の言葉を握り戦ったイスラエル軍は大勝利を収めます。

アラム軍の上に「城壁が崩れ落ちた」(30節)という内容は、明らかに神のご介入です。

神は神であり、「山の神であって低地の神ではない」という自分勝手な解釈は身の破滅となります。

1列王記 20:13-25

「ちょうどそのころ、一人の預言者がイスラエルの王アハブに近づいて言った。「主はこう言われる。『あなたは、この大いなる軍勢を見たか。見よ、わたしは今日、これをあなたの手に引き渡す。こうしてあなたは、わたしこそ主であることを知る。』」(20:13)

聖書が私たちに繰り返し語っているメッセージはこれです。

「「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。」(1ペテロ5:5)

この時、アハブ王がへりくだっていたかは分かりませんが、明らかに、ベン・ハダドは高ぶっていました。

しかも、彼は「酒を飲んで酔っていた。」(16節)と言います。

これに対し、無名な預言者の言葉にアハブ王は聞き従います。

その結果、イスラエルはアラムの軍隊を打ち破ります。

一人の預言者がイスラエルの王アハブに近づいて言った

という事実は、神の憐れみの深さを感じます。

神は罪に罪を重ねるイスラエルの民さえも顧みてくださる恵み深いお方です。

1列王記 20:1-12

「イスラエルの王は国のすべての長老たちを呼び寄せて言った。「あの男が、こんなにひどいことを要求しているのを知ってほしい。」(20:7)

20章に出てくるベン・ハダドは、15章に出てくるベン・ハダドの子です。

彼はイスラエルの首都であるサマリアを包囲しました。

アハブ王は神に助けを求めることなく、ベン・ハダドの屈辱的な要求通りにすると回答します。

ところがベン・ハダドは、アハブ王の回答に満足することはなく、サマリアで略奪することを告げます。

アハブ王はそれでも神に祈ることはなく、長老たちを呼んで会議し、その結論をベン・ハダドに告げます。

事態は好転することなく、問題は深刻化します。

聖書は言います。

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。」(エレミヤ33:3)

私たちが求められていることは、まず、主の御名を呼び求めることです。

1列王記 19:11-21

「しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。しかし火の後に、かすかな細い声があった。」(19:11,12)

風、地震、火といった劇的に神を体験する人がおられます。

しかし多くの場合、そのような刺激的な体験を求めていても、その中に主はおられなかったということがありえます。

エリヤはその劇的な出来事が過ぎた後、「かすかな細い声」を聞いた時、その中に神がおられることを体験しました。

神は今も生きておられ、私たちに語られているのに、それが「かすかな細い声」なので私たちは聞き逃してしまうことがあります。

「かすかな細い声」という言葉は訳すことが難しくて、直訳すると「サウンド・オブ・サイレンス」となります。

沈黙と声は矛盾するので、ユージーン・ピーターソンは声というよりは「息」と言います。

『神の息』は私たちを回復させます。

1列王記 19:1-10

「主の使いがもう一度戻って来て彼に触れ、「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから」と言った。」(19:7)

預言者エリヤはアハブ王を恐れませんでしたが、王女イゼベルの脅迫に恐れ、逃亡し、意気消沈して死さえ求めました。

エリヤは孤独を感じ、絶望を感じ、行き詰まりを感じました。

神はそんなエリヤを叱咤激励するどころか、御使いを送って、彼を起こして、彼に食べ物を与え、休みを与えました。

確かにお腹が空いていたり、睡眠不足だったりすると私たちは否定的になる傾向があります。

私たちが落ち込んでいるのは、霊的な問題というよりも、お腹が空いているから、もしくは、睡眠不足だからということも考えられます。

ちゃんとした食事をすれば、気持ちが上向くことがあります。

ちゃんと睡眠をとるだけで、前向きになれるようなことがあります。

もちろん、霊の糧、聖書のみことばをいただくことは大事なことです。

同時に、肉の糧も大事です。

マイカくん

ノリさんとバービーさんが一年ぶりに来日し、栄シャロームで賛美集会が行われました。

今回のチームは総勢9名、年齢もさまざまです。

集会の中でマイカくん(22歳)が証しをしてくれました。

彼はとても素直な好青年という印象でフレンドリー。

でも実は洗礼を受けたのは昨年12月、今の見た目からは全く想像できない退廃した生活を送っていたとのことでした。

興味のある方はぜひYouTubeでご覧くださいね。

主にあって人はこんなにも変えられるんだということを目の当たりにしてとても感動しました。

そういえばうちの父も、以前とは全く違う柔和で穏やかな爺やとなり、わたしがこれまでの父の悪行の数々を話をしてもだんだん人に信じてもらえなくなって来ました。

本当の意味で人をつくりかえることができるのは聖霊さまだけなのだなあと思います。

自分の無力さを痛いほど思い知らされますが、それが良かったのです。そんな中で何もかも主にお任せしようと思えたからです。」とパウロは手紙の中で語っていますが、今その世界を体験しています。

主に信頼するものは失望させられることはありません。

(小山晶子牧師婦人)

1列王記 18:30-46

「彼は若い者に言った。「さあ、上って行って、海の方をよく見なさい。」若い者は上って、見たが、「何もありません」と言った。するとエリヤは「もう一度、上りなさい」と言って、それを七回繰り返した。」(18:43)

エリヤの祈りは、神の力は祈りによって民の中に解き放たれることを示すものでした。

ヤコブの手紙ではこう記しています。

「エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした。それから彼は再び祈りました。すると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」(5:17,18)

聖書が強調しているのは、「エリヤは私たちと同じ人間でした」ということです。

私たちもエリヤのように祈るならば、神の力をこの地に解き放つ者となると言うのです。

エリヤが神の御業を見るまであきらめずに祈り続けた事を私たちは心に留める必要があります。

今日はペンテコステ。共に主に礼拝を捧げましょう!

1列王記 18:16-29

「おまえたちは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぶ。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」民はみな答えて、「それがよい」と言った。」(18:24)

アハブ王はエリヤを「イスラエルにわざわいをもたらす者」(17節)と言いました。

エリヤははっきりと言います。

「災難の張本人はあなたのほうです。あなたもあなたのご一族も、主を捨ててバアルを拝んでいるではありませんか。」(18節LB)

エリヤは、問題はバアル信仰だと指摘します。

バアルは豊穣の神で、雨を降らせ、作物を育て、民に食物を与えるとされていました。

そして、天から火を送る神と考えられていました。

さらに、エリヤが提案したカルメル山はバアルの聖なる住まいとされていました。

どう見ても、バアルが神ならば、バアルの力を示すのに好条件でした。

問題は、バアルは神ではなく、自分たちの願いをかなえさせるために勝手に作り出した偶像だったということです。

主こそ神です。

1列王記 18:1-15

「アハブは宮廷長官オバデヤを呼び寄せた。オバデヤは主を深く恐れていた。」(18:3)

エリヤの時代の北イスラエル王国の人々は、アハブ王とイゼベルによって導入されたカナンの神バアルと主なる神の両方を信じる、どっちつかずの状態でした。

鎌野師はこのように指摘します。

「そのような信仰の姿を映し出していたのが、アハブに仕えていた宮廷長官オバデヤです。彼は主を恐れ、主の預言者をイゼベルの手から守りつつも、アハブを恐れ続けていました。」

イゼベルの目的は主なる神の礼拝をバアルの礼拝に置き換えることでした。

それでイゼベルは主なる神の預言者たちを殺しました。

オバデヤは、「主を深く恐れていた」ので、命の危険を冒して主の預言者たちを助けました。

ところが、アハブ王から責任を問われて処刑されるのではと怯えていました。

エリヤは言います。

「おまえたちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか。」(21節)