1列王記 19:11-21

「しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。しかし火の後に、かすかな細い声があった。」(19:11,12)

風、地震、火といった劇的に神を体験する人がおられます。

しかし多くの場合、そのような刺激的な体験を求めていても、その中に主はおられなかったということがありえます。

エリヤはその劇的な出来事が過ぎた後、「かすかな細い声」を聞いた時、その中に神がおられることを体験しました。

神は今も生きておられ、私たちに語られているのに、それが「かすかな細い声」なので私たちは聞き逃してしまうことがあります。

「かすかな細い声」という言葉は訳すことが難しくて、直訳すると「サウンド・オブ・サイレンス」となります。

沈黙と声は矛盾するので、ユージーン・ピーターソンは声というよりは「息」と言います。

『神の息』は私たちを回復させます。

1列王記 19:1-10

「主の使いがもう一度戻って来て彼に触れ、「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから」と言った。」(19:7)

預言者エリヤはアハブ王を恐れませんでしたが、王女イゼベルの脅迫に恐れ、逃亡し、意気消沈して死さえ求めました。

エリヤは孤独を感じ、絶望を感じ、行き詰まりを感じました。

神はそんなエリヤを叱咤激励するどころか、御使いを送って、彼を起こして、彼に食べ物を与え、休みを与えました。

確かにお腹が空いていたり、睡眠不足だったりすると私たちは否定的になる傾向があります。

私たちが落ち込んでいるのは、霊的な問題というよりも、お腹が空いているから、もしくは、睡眠不足だからということも考えられます。

ちゃんとした食事をすれば、気持ちが上向くことがあります。

ちゃんと睡眠をとるだけで、前向きになれるようなことがあります。

もちろん、霊の糧、聖書のみことばをいただくことは大事なことです。

同時に、肉の糧も大事です。

マイカくん

ノリさんとバービーさんが一年ぶりに来日し、栄シャロームで賛美集会が行われました。

今回のチームは総勢9名、年齢もさまざまです。

集会の中でマイカくん(22歳)が証しをしてくれました。

彼はとても素直な好青年という印象でフレンドリー。

でも実は洗礼を受けたのは昨年12月、今の見た目からは全く想像できない退廃した生活を送っていたとのことでした。

興味のある方はぜひYouTubeでご覧くださいね。

主にあって人はこんなにも変えられるんだということを目の当たりにしてとても感動しました。

そういえばうちの父も、以前とは全く違う柔和で穏やかな爺やとなり、わたしがこれまでの父の悪行の数々を話をしてもだんだん人に信じてもらえなくなって来ました。

本当の意味で人をつくりかえることができるのは聖霊さまだけなのだなあと思います。

自分の無力さを痛いほど思い知らされますが、それが良かったのです。そんな中で何もかも主にお任せしようと思えたからです。」とパウロは手紙の中で語っていますが、今その世界を体験しています。

主に信頼するものは失望させられることはありません。

(小山晶子牧師婦人)

1列王記 18:30-46

「彼は若い者に言った。「さあ、上って行って、海の方をよく見なさい。」若い者は上って、見たが、「何もありません」と言った。するとエリヤは「もう一度、上りなさい」と言って、それを七回繰り返した。」(18:43)

エリヤの祈りは、神の力は祈りによって民の中に解き放たれることを示すものでした。

ヤコブの手紙ではこう記しています。

「エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした。それから彼は再び祈りました。すると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」(5:17,18)

聖書が強調しているのは、「エリヤは私たちと同じ人間でした」ということです。

私たちもエリヤのように祈るならば、神の力をこの地に解き放つ者となると言うのです。

エリヤが神の御業を見るまであきらめずに祈り続けた事を私たちは心に留める必要があります。

今日はペンテコステ。共に主に礼拝を捧げましょう!

1列王記 18:16-29

「おまえたちは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぶ。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」民はみな答えて、「それがよい」と言った。」(18:24)

アハブ王はエリヤを「イスラエルにわざわいをもたらす者」(17節)と言いました。

エリヤははっきりと言います。

「災難の張本人はあなたのほうです。あなたもあなたのご一族も、主を捨ててバアルを拝んでいるではありませんか。」(18節LB)

エリヤは、問題はバアル信仰だと指摘します。

バアルは豊穣の神で、雨を降らせ、作物を育て、民に食物を与えるとされていました。

そして、天から火を送る神と考えられていました。

さらに、エリヤが提案したカルメル山はバアルの聖なる住まいとされていました。

どう見ても、バアルが神ならば、バアルの力を示すのに好条件でした。

問題は、バアルは神ではなく、自分たちの願いをかなえさせるために勝手に作り出した偶像だったということです。

主こそ神です。

1列王記 18:1-15

「アハブは宮廷長官オバデヤを呼び寄せた。オバデヤは主を深く恐れていた。」(18:3)

エリヤの時代の北イスラエル王国の人々は、アハブ王とイゼベルによって導入されたカナンの神バアルと主なる神の両方を信じる、どっちつかずの状態でした。

鎌野師はこのように指摘します。

「そのような信仰の姿を映し出していたのが、アハブに仕えていた宮廷長官オバデヤです。彼は主を恐れ、主の預言者をイゼベルの手から守りつつも、アハブを恐れ続けていました。」

イゼベルの目的は主なる神の礼拝をバアルの礼拝に置き換えることでした。

それでイゼベルは主なる神の預言者たちを殺しました。

オバデヤは、「主を深く恐れていた」ので、命の危険を冒して主の預言者たちを助けました。

ところが、アハブ王から責任を問われて処刑されるのではと怯えていました。

エリヤは言います。

「おまえたちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか。」(21節)

1列王記 17:17-24

「その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」」(17:24)

「シドンのツァレファテ」はフェニキヤという地中海沿岸の国の町、現在のレバノンにあたります。

イゼベルの出身地です。

要するにこのやもめは異邦人でした。(ルカ4:26参照)

彼女は捧げることを通して、そして、自分ではどうしようもない問題を解決していただくことを通して、エリヤの口にある主の言葉が真実であることを知ります。

問題がなくても、聖書のみことばが真実であることを体験することができればいいのですが、なかなか私たちは知性では理解しても、心で理解するのは難しいところがあります。

ですから、神はあえて、みことばを信じる以外に道はないというところに追い込まれることを許されます。

神が問題の起こることを許可されたということは、その問題を通して神を知ることができるからではないでしょうか。

1列王記 17:1-16

「エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかった。」(17:16)

彼女は飢饉でなくても食べていくことさえ事欠くやもめでした。

彼女は自分ができる最善のこと、息子と自分のために薪を拾い集めていました。

そんな彼女のところにエリヤが現れ水を求めます。

雨が降らない干ばつですから、水は貴重でした。

しかし、彼女は水をとりに行こうとしたのです。

するとエリヤは、食物も求めました。

彼女にしてみれば、水を用意するだけでも大変なことでした。

小麦粉と油を十分に満たしてくれていたら、エリヤに作ってあげることは何の問題もないことだったと思います。

しかし、聖書が教える霊的な原則は、捧げる時に満たされるということです。

厳しい中にあっても、神を信頼して捧げていく時に、

「かめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない」

という世界を体験します。

「私の神は・・・あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリ4:19)

1列王記 16:29-34

「それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻とし、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。」(16:31)

「オムリは主の目に悪であることを行い、彼以前のだれよりも悪いことをした。」(25節)

しかし、

「オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行った。」(30節)

アハブはシドン人の王の娘、イゼベルを妻としました。

シドンはフェニキア人の都市国家で、地中海交易で発展しました。

ですから、この結婚によってアハブは経済的繁栄を手に入れました。

しかし、彼は妻が拝むカナン人の神々、バアルに仕えるようになります。

首都のサマリアにバアルのための神殿まで建てます。

また、バアルの女神であるアシェラ像まで造ります。

このようにして、北イスラエル王国は、もはや主なる神(ヤハウェ)への信仰のみの王国ではなくなります。

「あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」(マタイ6:24)

1列王記 16:15-28

「彼は銀二タラントでシェメルからサマリアの山を買い、その山に町を建て、彼が建てたこの町の名を、その山の持ち主であったシェメルの名にちなんでサマリアと呼んだ。」(16:24)

南ユダ王国はダビデ王朝が継続しますが、北イスラエル王国は、ヤロブアムの家がバアシャに滅ぼされ、バアシャの家がジムリに滅ぼされ、ジムリはオムリに滅ぼされます。

そして、オムリは北イスラエルの首都をティルツァからサマリアに移します。

サマリアは「山」とあるように、高地にあったので、要塞としてほぼ難攻不落でした。

このようにして、北王国は経済的繁栄を迎えます。

しかし、「ヤロブアムの道に歩み」と繰り返されます。

「ヤロブアムの道」、それは、神の道ではないということです。

自分の目にはよく見える道です。

しかし、聖書は警告します。

「人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある。」(箴言14:12)