エレミヤ書 1:1-2:30

「だから、彼らがあなたと戦っても、あなたには勝てない。わたしがあなたとともにいて、――主の御告げ。――あなたを救い出すからだ。」(1:19)

神は決して偽の口実を通して人を呼ばれることはありません。神はエレミヤに、わたしの方法に従えば、何の問題もなく簡単にやり遂げられるとは言いませんでした。逆に、戦いがあると言いました。

「彼らを怖がるな」(17節LB)

とありますが、恐れるような状況に直面することも伝えています。しかし、同時に神は約束されました。

「彼らがあなたと戦っても、あなたには勝てない。」

なぜなら、

「わたしがあなたとともにいて、必ず救い出すからだ。」(19節LB)

神を恐れない人に神が語られることを語ることは勇気のいることです。エレミヤは涙の預言者と呼ばれました。涙を流して人々に神に立ち返るように勧めたからです。しかし、人々からあざけられ、迫害されました。それでも語り続けました。神が共にいて、救い出したからです。

ゼパニヤ書1:1-3:20

「その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」(3:16,17)

ゼパニヤの預言は、この世の終わりに関する内容で閉じられています。この預言も、この世の終わりに成就します。しかし、その前味を私たちは今、キリストがこの地に来て下さったことによって味わっています。キリストは言いました。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ一八・二〇)キリストこそ「救いの勇士」。礼拝をささげるそのただ中に、「救いの勇士」はおられます。キリストは墓を打ち破り、よみがえり、今も生きておられる「救いの勇士」です。このお方は、私たちの賛美を喜ばれ、楽しまれます。今日は、主の日。共に、賛美と礼拝を捧げましょう。

ナホム書1:1-3:19

「主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主に身を避ける者たちを主は知っておられる。」(1:7)

ナホム書は、アッシリヤ帝国の首都、ニネベに対する裁きの宣告の書です。ですから、全体的に裁きのことばが続くのですが、その中で、突然今日の箇所が登場してきます。それほど、私たちが心に留めておくべきことだからだと思います。神様の裁きの中にあってさえも、私たちが覚えるべきことが三つあります。それは、まず第一番目に、神様は「いつくしみ深い」(良い・GOOD)お方。第二番目に、私たちの苦難の日のとりでとなってくださるお方。そして、第三番目に、主に身を避ける者たちを知っておられるお方、気にかけてくださるお方です。私たちが理解できないことはたくさんあります。しかし、分からないことのゆえに、分かっていることを手放す必要はありません。

イザヤ書65:17-66:24

「狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない。」と主は仰せられる。」(65:25)

主は言われます。「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。」(十七節)神は天地を新しくされると言います。そこでは狼と小羊がいっしょに草を食べ、ライオンは牛のようにわらを食べ、蛇はちりを食べて、人にはかみつかないと言います。傷つく者は一人もなく、壊れるものは一つもないと言います。そのような完全な新しい天と新しい地は、この世界の終わり、イエス・キリストが再び来られる時にもたらされます。その日まで、我慢するのではなく、そのような平和をこの地に作り出す役目が私たち一人一人にあります。「平和をつくり出す人は幸いです。」(マタイ五・九LB)

イザヤ書 63:1-65:16

「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」(63:9)

私たちが苦しむとき、神はいつも共に苦しまれています。「足跡」という詩があります。「

ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上にふたりの足跡が残されていた。一つはわたしの足跡、もう一つは主の足跡であった。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上の足跡に目を留めた。そこには一つの足跡しかなかった。わたしの人生で一番辛く、悲しい時だった。(中略)主は、ささやかれた。『わたしの大切な子よ。わたしはあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。足跡が一つだった時、わたしはあなたを背負って歩いていた。』」

イザヤ書60:1-62:12

「太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず、主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。」(60:19,20)

終わりの日、やがてもたらされる新しい天と新しい地の預言がここにあります。ヨハネの黙示録にも、こういう箇所があります。

「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。」(21:23)

神の栄光に輝く都、それが、永遠の天の都です。それは、キリストの永遠の支配を意味し、私たちの嘆きや悲しみが終わる日を意味しています。ですから、キリストの支配を歓迎できない人にとっては、天国は苦痛だと思います。だから、キリストの支配を歓迎する人だけが天国に行けるのだと思います。

イザヤ書 57:14-59:21

「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」(57:15)

協会共同訳ではこう訳しています。「打ち砕かれた人、低められた人と共にいて、低められた人の霊を生き返らせ、打ち砕かれた人の心を生き返らせる。」自分でへりくだることもありますが、へりくだらされることがあります。自己卑下したり、自分をかわいそうに思うことはへりくだることではありません。自分は神が必要な存在であると認め、神と共に生きることがへりくだることです。自ら、神を神、人は人と認められれば良いのですが、時として、低くされることを通して、打ち砕かれることを通して体験する時があります。しかし、神は低められた人の霊を生き返らせ、打ち砕かれた人の心を生き返らせるお方です。

イザヤ書 55:1-57:13

「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。」(55:1)

聖書の神は「出て来い」と私たちを招かれる神です。イエス・キリストも言いました。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

どんな問題であったとしても、キリストのもとに来るなら、キリストが解放を与え、安らぎを与えてくださいます。さらにこうおっしゃられました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

キリストのもとに行くならば、解放だけでなく、生ける水の川、聖霊に満たされ、私たちの内から溢れるようになり、自分の周りの人までも祝福するようになります。

ああ葡萄

今年は例年に比べてかなり葡萄の房が多く、夏の初めには小山牧師がそのひと房ひと房に袋をかけて収穫を心待ちにしていました。ところが先日の台風の折にその多くが地面に落ちてしまいました。せっかく残った房もそのすべてに爪で後をつけたような傷が入っており、よく見ると蟻がせわしげに葡萄の実に出入りしながらせっせと働いています。なんということでしょう。ヨハネ福音書にはイエス様が御自身と私たちを葡萄の木と枝にたとえて語っておられますが、枝についていたってまともな実ができないことがあるんですね。確かに、15章5節には 「人が私にとどまり、私もその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」この箇所の意味がずーんと心に響いてきました。まだ黙想の最中なのですがすっかりダメになってしまった多くの葡萄の実を見ながら、こうはなりたくないなあと思うのです。良い実を実らせるためには、良い水と正しい栄養が必要なことを思うと、自分の信仰生活を反省せずにはいられませんでした。     (小山晶子牧師人)

イザヤ書 51:17-54:17

「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神が王となる。』とシオンに言う者の足は。」(52:7)

聖書が言う「良い知らせ」(福音)とは、『あなたの神が王となる。』と告げ知らせることです。四つの福音書すべてに、イエス・キリストが十字架に架かられた時、その罪状書きに

「ユダヤ人の王」

と書いてあったことが記録されています。神はキリストが十字架に架かられることによって王となられました。復活を通して死のとげは切り取られました。よみがえられたイエス様は言われました。

「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」(マタイ28:18)

福音とは、十字架の御業を宣べ伝えることです。
今日は、主の日。共に主に礼拝を捧げ、福音を宣べ伝えましょう。