2歴代誌 27章

「このように、ヨタムは勢力を増し加えた。彼が、彼の神、主の前に、自分の道を確かなものとしたからである。」(6節)

ヨタム王は、父ウジヤ王のように、主の目にかなうことを行う王でした。しかも、ウジヤ王のように傲慢になって自分の分を超えることもしませんでした。LBは、

「王は神様の道を踏みはずすまいと注意したので、勢力を増し加えました。」

と訳しています。

「神の道を踏み外すまい」

と注意すること、心に決めることは、私たちの人生の力となります。

 

当時、

「民はなお滅びに向かっていた」(2節)

とあるように、彼の周りには神に背を向け続けている人々がいました。長い物に巻かれることは容易いことです。彼は、注意して、その流れに逆らっても、

「神の道を踏み外すまい」

と生きたと言います。それが、彼の力の秘密であり、彼が勢力を増し加えた秘訣であったことを、私たちは心に留めたいと思います。

2歴代誌 26章

「しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は彼の神、主に対して不信の罪を犯した。彼は香の壇の上で香をたこうとして主の神殿にはいった。」(16節)

ウジヤ王は神を求めた間は栄えました。(5節参照)しかし、力をつけた彼は傲慢になってしまいました。祭司しか認められていない領域に、踏み込んでしまうのです。彼は自分の分を超えてしまったのです。使徒パウロは、こんなことを言います。

「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」(ローマ12:3新共同訳)

チャレンジ精神も大事ですが、自分の分をわきまえるということも聖書的です。

「主よ。お与えください。チャレンジするべきことはチャレンジする勇気を。わきまえるべきことは謙遜に受け止める冷静さを。そしてそのどちらかを判別する知恵を、主よ、お与えください。」

2歴代誌 25章

「アマツヤは神の人に言った。『では、イスラエルの軍勢に与えた百タラントはどうしたらよいのか。』神の人は答えた。『主はそれよりも多くのものをあなたに与えることがおできになります。』」(9節)

アマツヤ王は戦いのためにイスラエルの人々を兵隊として百タラントで雇いました。しかし、神の人は、彼らを一緒に戦いに連れて行ってはいけないと言います。アマツヤ王は、それが百タラント(六千万円LB)を無駄にすることを意味したので、

「あの金が惜しい」(LB)

と主張しました。しかし、神の人は言います。

「神には、助ける力があり、つまずかせる力もあるからです。・・・主はそれよりも多くのものをあなたに与えることがおできになります。」

時に、神は私たちに、より多くのものを与えるために私たちに手放すことを求められます。私たちがもったいないとしがみついているがゆえに、受けることができない、それよりも多くのものがあります。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

2歴代誌 24章

「ヨアシュ王は、ゼカリヤの父エホヤダが自分に尽くしてくれたまことを心に留めず、かえってその子を殺した。その子は死ぬとき、『主がご覧になり、言い開きを求められるように。』と言った。」(22節)

祭司エホヤダはヨアシュを殺害しようとする者の手から彼を命がけで守りました。しかし、そのヨアシュ王は、命の恩人の子、ゼカリヤを助けるどころか殺害してしまいました。ある時、イエス様は言いました。

「こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。」(マタイ23:35共)

創世記に出てくるアベルから、ヘブル語聖書(旧約聖書)の最後の書に出てくるこのゼカリヤに至るまで、イエス様は預言者たちの死は忘れられていないと言います。「殉教者の血は、教会の種子」と呼ばれるように、無駄になることはありません。

2歴代誌 23章

「こうして、全集団が神の宮で王と契約を結んだ。そのとき、彼はこう言った。「ご覧のとおり、主がダビデの子孫について約束されたように、王の子が王となるのです。」(3節)

神の契約は、ダビデ王とその子孫に結ばれたものでした。興味深いことは、どんなにダビデの子孫を途絶えさせようという働きがあっても神の特別な守りがそこにあったということです。祭司エホヤダはヨアシュを隠し、ダビデの子孫が途絶えることはありませんでした。そして、イエス・キリストが永遠の王としてダビデの子孫から生まれます。神の私たちに対する約束も消え去ることはありません。たとえすべてが終わってしまったかのように見えても、神は不思議な方法で継続してくださいます。だから聖書は言います。

「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」(ピリピ1:6)

2歴代誌 22章

「彼はアハブの家にならって主の目の前に悪を行なった。その父の死後、彼らが助言者となって、彼を滅びに至らせたのである。」(4節)

ヨラムの子、アハズヤが王になった時、聖書は彼のことをこう表現しています。

「彼もまた、母にそそのかされて、アハブ王の悪い例にならいました。」(3節LB)

昨日も見ましたように、アハズヤの母は、神の預言者を殺害し、バアル信仰を北王国の人々に強要したアハブ王の娘でした。アハズヤは、母を始めとするアハブ家の影響で悪い王になってしまいました。彼らの助言にいつも耳を傾けていたからです。この世で一番確実な助言者は、不思議な助言者(イザヤ9:6)と呼ばれるイエス・キリストです。ですから、いつも、イエス・キリストの言葉、聖書の言葉に耳を傾ける必要があります。聖書のみことばに聞き従うならば、滅びに至ることはありません。

2歴代誌 21章

「彼らの父は、彼らに銀、金、えりすぐりの品々など多くの賜わり物を与え、また、それとともにユダにある防備の町々を与えたが、王国はヨラムに与えた。彼は長男だったからである。ヨラムはその父の王国に立つと勢力を増し加え、その兄弟たちをひとり残らず剣にかけて殺し、また、イスラエルのつかさたちのうち幾人かを殺した。」(3,4節)

ヨシャパテ王は、父親としてこの世的にはすばらしい遺産を子供たちに残したはずでした。しかし、長男のヨラムは、神に背を向け、自分の兄弟たちを殺してしまいます。その理由の一つは、北イスラエル王国のアハブ王との関係です。

「アハブの娘が彼の妻であったからである。」(6節)

アハブ王は神の預言者を殺害し、バアル信仰を北王国の人々に強要した王です。人はどうしても自分が時間を費やしている人の影響を受けます。神を捨て去ったヨラム王は

「人々に愛されることなく世を去った」(20節)

とあります。考えるべき内容です。

2歴代誌 20章

「それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。『主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。』彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。」(21,22節)

私たちのこの世の常識では考えられないことがここに記されています。戦争で、兵隊の前に聖歌隊を歩かせるという戦略は聞いたことがありません。しかしこの戦略が、私たちが今、現実に直面している霊的な戦いの中では重要です。霊的な戦いの最前線は賛美です。私たちが賛美を神にささげる時、神の御手が動き、敵をけちらします。ですから、賛美はとても大事なのです。サタンは神への賛美を妨げようとします。ですから、賛美の歌声を神にささげ続けましょう。

「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」

2歴代誌 19章

「しかし、あなたには、良いことも幾つか見られます。あなたはこの地からアシェラ像を除き去り、心を定めて常に神を求めて来られました。」」(3節)

 

人は私たちのために十字架にかかり死んでくださったイエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われます。善行はそれに何も加えることはありません。しかし神は私たちの良いことを見られています。聖書は言います。

 

「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(Ⅰコリント15:58)

 

「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」(ヘブル6:10)

 

ですから聖書は言います。

 

「だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。」(ガラテヤ6:10口語訳)

2歴代誌 18章

「すると、ミカヤは言った。「それゆえ主のことばを聞きなさい。私は主が御座に着き、天の万軍がその右左に立っているのを見ました。」(18節)

神はミカヤが天上で起きている場面を見ることを許されました。神は御座に着き、多くの天使たちがその周りに立っていました。神はアハブ王をどのように倒すか提案を求めました。いくつかの案が出され、最後に一人の天使が出てきて、「偽りを言う霊となり」、アハブに助言を与える預言者を通して、彼を惑わすことを進言します。(預言には注意!)理解しづらい内容ですが、ヨブ記にも似た場面があります。はっきりしていることは、神が御座に座していて、何事も神の許可なしには起きないということです。そして、神が許可される時は意味があるということです。私たち人間にはすべてを理解することはできませんが、神は神であり、御座に座しておられます。私たちはそれでもなお神を信頼することが求められています。
今日は主の日です。共に主に礼拝を捧げましょう。