詩篇 130篇

「私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。」(5節)

主を待ち望む、主のみことばを待つとは、神がされるとおっしゃられたことは、神が行なわれると期待して生きていくということです。神の時に、神の方法で行なわれることを願うことです。私たちが神に、いつ、どうやってと自分のやり方を押し付けることとは対極にあります。神を待ち望んで生きていくならば、失望に終ることはありません。詩人は続けて言います。

「神様を信じて希望を持ちなさい。神様は恵み深く親切で、両腕いっぱいの祝福をかかえておいでになるからです。」(7節LB)

神の時は必ず訪れます。神は来られます。主を待ち望む者を、あふれるほど祝福するために来られます。最高の日は、まだ、これからです。

「主よ、あなたを待ち望みます。今日は主の日です。主の宮で、共に主を待ち望むことができますように。」

詩篇 129篇

「主は、正しくあり」(4節)

 ユージーン・ピーターソンという学者は、「聖書が神が正しいと言う時、神がいつも正しいと言っているのではなく(もちろん、そのとおりだが)、神がいつも私たちと正しい関係にあるということである。」創造者と被造物の間に人格的な正しい関係があるということだと言います。「主は、正しくあり」ということが、キリスト者が人生を振り返り、神をほめたたえることができる理由です。どんなに辛かったことも耐え忍ぶことができたのは、神の真実の結果、神がこの関係に固執されたからです。神は私たちとの人格的な関係を確立し、この関係にとどまられます。キリスト者の訓練というのは、まさにこの神の義にさらに注意を向け、自分自身への注意を減らしていくプロセスです。私たちの人生の意味は、神のみこころ、神の目的を信じることによって見いだしていくことができます。

詩篇 128篇

「あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福で、しあわせであろう。」(2節)

 聖書は、自分の手の勤労の実を食べることが幸せだと教えます。労働に対する報酬を受けることが、人に満足感を与えるのだと。この世においては、

「自分の仕事に生きがいを見いだす以上に幸福なことはない」(伝道者の書3:22LB)

とまで言います。正しく生きることがばからしく見えても、神様を信頼して正しく生きようと努める時に、本当の幸福を体験することができるのです。

「その人へのほうびは、繁栄と幸福です。」(2節LB)

「これこそ、神様を信頼している人たちの姿です。人間的な喜びだけでなく、天の祝福をも、神様は注いでくださいますように!」(4,5節LB)

「主よ、あなたを信じ、従います。あなたの祝福の道を生きていくことができますように助けてください。」

詩篇 127篇

「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」(1節)

  LBでは、こう訳しています。

「神様に建築責任者になっていただかないのなら、家を建ててもむだです。神様に町を守っていただかないのなら、見張りが立つ意味もありません。」

このバランスがとても大事です。神様は建築責任者となってくださいますが、私たちが建てなければ家は建ちません。神さまが守ってくださいますが、見張りが必要ないというわけではありません。私たちの側がすべき分と神がなさる分があるのです。ですから、主を信頼することは、怠け者になることとは違います。逆に、謙遜に自分の分を努めるようになります。しかし、同時に2節のことばを忘れないようにする必要があります。

「神様は愛する者に適当な休息を与えようとなさるお方です。」(LB)

休息もまた、私たちの分です。

詩篇 126篇

「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。」(5,6節)

 神様は、私たちが涙の谷に行くことを許可されることがあります。目を泣きはらして出ていくことを許されることがあります。なぜなら、そのような状況の中で、人はやっと祈りに導かれて神様のもとに行くことができることを知っているからです。砕かれて、神様を求める時、神様が答えてくれます。私たちが求める正しい相手は、生ける神、イエス・キリストです。主は祈りに答えて、私たちの涙を喜びに変えてくださいます。泣きはらした目も、喜びの叫びに変わります。マイナスはプラスになります。万事は益となります。それを見て、人々は言うようになります。

「神様って、すごいことをなさるもんだな。」(2節LB)

「主よ、あなたを求めます。私の人生を喜びに変えてください。」

詩篇 124篇

「「もしも主が私たちの味方でなかったなら。」さあ、イスラエルは言え。」(1節)

もしも神様が私たちの味方でなかったなら・・・、考えるだけで恐ろしいことです。神様がすべてをご存じだから、私たちを気にかけ、愛してくださっているからこそ、私たちは安心して日々生きることができます。神様の側から私たちの手を離すことはありませんが、私たちの側が、神様の御手を振りほどき、自分の思う道を突き進もうとするときに、知らないうちに神様と敵対して歩んでしまうのです。

わたしたちは自分が今どこにいて、どこに向かっているのかを日々確認する必要があるのではないでしょうか。神様とともに、歩む時にパウロが語ったこの約束は確かに私たちとともにあります。

「神様が味方なら、だれが私たちに敵対できるでしょうか。」(ローマ8:31LB)

詩篇 123篇

「あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。」(1節)

今日は主の日、礼拝を捧げる日です。礼拝は、神に目を上げることから始まります。神は天の御座に着いておられます。すべての上におられます。信仰の人は、神を見上げます。見下げたりしません。もちろん、神の御子、イエス・キリストは仕える者となられました。しかし、それは私たちが神を利用できるという意味ではありません。神は、人が自分の快適さを保つために命令できるようなしもべではありません。もし、神を理解したいならば、私たちは目を上げる必要があります。権威の場所、聖書のみことばを見上げる必要があります。立ち位置を間違えないように気をつける必要があります。神は神であり、創造者です。人は人であり、被造物の一つです。驚くことは、そんな私たちを神は心にかけ、愛されているということです。週の初めの日、まず、神に目を上げることから始めましょう。

詩篇 122篇

「エルサレムの平和のために祈れ。『お前を愛する人々が栄えるように。』」(6節)

これは、ダビデによる都上りの詩篇です。エルサレムは、イスラエルの人々にとって国の中心であると同時に、精神的なよりどころでもありました。なぜならそこには神殿があり、神殿は神様の臨在の象徴であったからです。彼らはそこで神様を礼拝し、賛美をささげ、祈りをささげていました。エルサレムの重要性は時代が移り変わったいまでも変わることがありません。現在のエルサレムには、いたるところに戦争の傷跡、弾痕が残っています。神様の臨在の象徴であった都が、傷だらけであるという現実は、イエス様がエルサレムを見て涙を流されたことを思う時に、私たちの心を絞めつけます。エルサレム(神様の臨在の象徴)の平和(シャローム)のために祈りたいと思います。また、神様の臨在の象徴という意味では、自分が所属する地方教会もそれに当たります。地方教会はこの世の希望です。祈りましょう!

詩篇 121篇

「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」(4節)

 私たちが必要なとき、神様はいつもそこにおられます。いつでも私が呼ぶとき、神様は答えることができます。神様はまどろむことも、眠ることもないのです。人間は神にはなれません。すべての必要に人は答えることはできません。人はまどろむこともあれば、眠ることもあるからです。ですから、私たちは神様に期待する必要があります。自分の期待に答えてくれる人を探すのではなく、神様を求めましょう。詩人は、山に向かって目を上げました。目の前に立ちはだかる、問題の山の前に、「私の助けはどこからくるのだろうか」とつぶやかずにいられない心境。誰が助けてくれるのだろうか?そんな中で詩人はこの山さえも造られた創造主なる神様に心を向けます。目の前に立ちはだかる問題も、神の許可なくして存在することはありえません。ならば、神様には、その問題をも解決することができるのです!

詩篇 120篇

 「苦しみのうちに、私が主に呼ばわると、主は私に答えられた。」(1節)

 詩篇120篇から134篇は、「都上りの歌」と呼ばれ、祭りの時などにエルサレムに向かう中で歌われました。120篇は、神の都から一番離れたところからはじまります。私たちが生きている日常の中で、主の臨在を渇望する姿が記されています。

「平和を愛する私に、彼らは挑戦的で、そのどなり声に私の声もかき消されてしまいます。」(7節LB)

時々、そんな詩人の気持ちが分かるのではないでしょうか。毎週日曜日、私たちは日常から離れて、神の臨在を求めて教会に集います。そして、神の臨在は確かに教会の中にあります。

「教会は、キリスト様の体であって、すべてを造り、すべてを満たすキリスト様の霊が満ちあふれる場所です。」(エペソ1:23LB)

「主よ、教会がいつもあなたの臨在で満たされていますように。あなたの平和で満ちあふれていますように。」