使徒 1章

「そのころ、百二十人ほどの人々が一つになって集まっていたが、ペテロがこれらの兄弟たちの中に立って、こう言った。」(1:15)

聖霊が臨んで初代教会が誕生する直前、百二十名ほどの人が一緒に集まって祈っていました。

教会はそこからはじまりました。

私たちの教会も、このことを祈り求めています。

百二十名ほどの人たちが礼拝に集まり、共に祈り、賛美し、礼拝を捧げることができるように。

集まることに意味があることは次のイエス様の言葉からも明らかです。

「まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」(マタイ18:19,20)

次の節でイエス様は赦しについて語っている所を見ると、集まるためには赦し合う姿勢が必要です。

ヨハネ 21章

「ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」」(21:21,22)

私たちはすぐ周りと比較してしまう傾向があります。

ペテロもそうでした。

彼はイエス様から迫害を受けることが預言された後に、

「わたしだけが、そんな目にあうのですか?ヨハネはどうなのですか?」

と尋ねました。

イエス様の答えは、

「ヨハネにはヨハネの使命があるのだから、あなたは、周りの人と比較するのではなく、わたしにただ従ってくればいいのだ」

ということでした。

これは信仰生活でとても大事な部分です。

私たちの信仰は神と自分という直接的である必要があります。

「あの人がこうするから、私もこうしよう」

というのは、イエス様が望まれている信仰ではありません。

「あなたは、わたしに従いなさい。」

ヨハネ 20章

「こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」(20:22)

弟子たちはこの時、イエス様が息を吹きかけたことを通して、聖霊の内住を体験しました。

聖霊は三位一体の神です。

イエス様は弟子たちが聖霊なる神の内住が必要だということを誰よりも理解していたのだと思います。

しかし、イエス様は聖霊なる神が内住されるというだけで、十分だとされませんでした。

この後、使徒1:8にこうあります。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

聖霊なる神が臨む、聖霊に満たされる必要があると言ったのです。

キリストを信じるだけで、聖霊は内住されますが、力あるクリスチャン生活を送ることができるように、聖霊に満たされることを求める必要があります。

ヨハネ 19章

「その後で、イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取り降ろすことをピラトに願い出た。ピラトは許可を与えた。そこで彼はやって来て、イエスのからだを取り降ろした。以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た。」(19:38,39)

人目を恐れていたアリマタヤのヨセフとニコデモが、大胆にもイエス様のからだを葬る許可をピラトに求めて与えられました。

彼らはこのことを通して自分たちの地位や仕事さえ失う可能性がありました。

しかし、彼らはそうしたかったのです。

人がキリストに仕える動機は彼らのように、罪責感や強制されてであるべきではありません。

キリストの愛に迫られて応答していくものです。

キリストの十字架、愛を思うのならば、どうして何もせずにいられるでしょうか。

今日は主の日(PALM Sunday)。共に主に礼拝を捧げましょう。

ヨハネ 18章

「すると、彼らは再び大声をあげて、「その人ではなく、バラバを」と言った。バラバは強盗であった。」(18:40)

「強盗」と訳された単語は欄外中に「扇動者」とあるように、ローマ帝国に対する反逆者の可能性が高いと考えられます。

つまり、バラバは単なる強盗ではなく、ローマ帝国に対する暴徒の一人でした。

人々は自分たちの思うようにローマに抵抗運動を起こさないイエス様より、自分たちが願うように勇ましく戦うバラバを選んだのです。

実際、この後、ユダヤ戦争と呼ばれるローマ帝国に対する抵抗運動が起こり、神殿は壊され、エルサレムは崩壊し、ユダヤ人は流浪の民となります。

人は自分の願い通りに行動してくれない神よりも、自分の願い通り行動する人を好む傾向があります。

しかし、聖書は言います。

人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言14:12)

「わたしの願いではなく、神のみこころがなりますように。」

ヨハネ 17章

「これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた。」(17:1)

イエス様が十字架にかかられる直前、最後の晩餐の時にしたことは、弟子たちの足を洗うことと、祈ることでした。

もちろん、弟子たちはこれが最後の晩餐になるとは知る由もなかったと思います。

しかし、イエス様はご存知でした。

そんなイエス様が最後の夜に選ばれたことはまず、弟子たちの足を洗うことでした。

互いの足の汚れを指摘し合うのではなく、洗い合うように、模範を示されました。

それからイエス様は、「目を天に向けて」祈られました。

この地しか見えていないならば、行き詰まってしまいます。聖書は言います。

「あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。」(コロサイ3:1,2)

目を天に向けて祈る時間を私たちは必要としています。

※ 明後日の日曜日(PALM Sunday)から会堂での礼拝を再開します。
三密にならないよう、第一礼拝と第二礼拝に分散しての出席をお願いします。

また、礼拝の出席には事前連絡が必要です。

第一礼拝・第二礼拝どちらに出席するか、本日の午後 6 時 までに LINE または電子メール (info@sakaeshalom.org) でご連絡をおねがいします。

ヨハネ 16章

「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(16:33)

人間の「正義」感は危うい側面があります。

イエス様は言われました。

あなたがたを殺す者がみな、自分は神に奉仕していると思う時が来ます。」(2節)

自分は正しいことをしていると信じて、人を殺すと言うのです。

自粛警官の問題が報じられていますが、自分の正義を人に押し付けることは怖いことです。

私たちは自分の正義ではなく、イエス・キリストにある神の義に生きる必要があります。

私たちに義の衣を与えるために、私たちの罪のために十字架にかかられたイエス・キリストが言われます。

勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。

私たちは自分の義ではなく、十字架によって与えられた神の義、神の恵みを示します。

ヨハネ 15章

「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(15:5)

枝は幹を離れては生きていくことができません。

すべての養分は幹を通して流れてきます。

ぶどうの木は冬の間、葉はすべて落ちてしまいます。

しかし、幹から栄養が来ますので心配する必要はありません。

ですから、キーワードはとどまることです。

とどまる方法は、イエス様の戒めを守ること。(10節参照)

戒めは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと」(12節)

「あなたがたは枝」とあるように、自分だけが枝と言う話ではありません。

私たちはキリストにつながっている共同体(コミュニティ)です。

ですから、互いに愛し合うことを学ぶ必要があります。

キリストを離れては何もすることができないからです。

ヨハネ 14章

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(14:26)

新約聖書が存在している理由は、聖霊が弟子たちに、イエス様が話したすべてのことを思い起こさせてくださったからです。

同じ聖霊なる神様は、今も、私たちにすべてのことを教え、私たちが聖書を通して読んできた神のみことばを思い起こさせてくださいます。

ですから、私たちは日々、聖霊なる神様を教師として歓迎する必要があります。

聖霊なる神様は、

助け主」(16節)

真理の御霊」(17節)です。

このお方は、

イエス・キリストを信じる者たちと共におられ

内におられます。(17節)
聖霊様、あなたを教師として歓迎します。今日も、あなたのみことばである聖書を通して、私たちに教えてください。

ヨハネ 13章

「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」(13:34,35)

キリストが私たちに与えた「新しい戒め」は「互いに愛し合うこと」でした。

残念ながら教会の歴史を振り返るならば、なおざりにされてきた感が否めません。

キリストの弟子であることを人々が認めるためには、「互いに愛し合うこと」だと言われたのにも関わらず、分裂の歴史が繰り返されてきました。

イエス様は弟子たちの足を洗い、こう言われました。

主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。」(14節)

すなわち、欠点を批判し合うのではなく、補い合うことを命じられたのです。