ヘブル 12:1-13

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(12:2)

イエス・キリストは、私たちの信仰の創始者であり、完成者だと聖書は言います。私たちの信仰は、イエス様から賜物として与えられているものです。そして、イエス様は私たちから離れることなく、信仰の働きを完成してくださいます。ですから、使徒パウロは言いました。

「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」(ピリピ1:6)

主は、あなたを見捨てるためにここまで導かれたわけではありません。主は必ず、主の働きを完成されます。ですから、私たちはただ、イエス様から目を離さないことが大切です。

ヘブル 11:17-40

「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。」(11:24,25)

モーセは、エジプトのファラオの娘の息子として何の不自由なく生きることができました。しかし、モーセはそれよりも、神の民とともに苦しむ事を選び取りました。これが信仰の世界です。使徒パウロも、キリストの復活の力だけでなく、キリストの苦しみの交わり(コイノニア)も知りたいと言いました。信仰の世界は苦しみのない生活を保障するものではないということは明らかです。しかし、それはこの世のどんな宝よりもはるかに価値ある人生です。ですから使徒パウロは言います。

「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」(2コリント5:7)

ヘブル 11:1-16

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(11:6)

神に喜ばれる者となるためには、信仰が必要です。私たちは二つのことを真剣に信じる必要があります。

第一番目に「神がおられること」。

神の存在を信じることができなければ、神に喜ばれることはありません。天地万物を創造し、支配される三位一体なる神を、信じる必要があります。私たちを愛し、私たちに関心をもっておられる生ける神の存在を信じる必要があります。

第二番目は、「神を求める者には報いてくださる方であること」を信じる必要があります。

特に、「求める」と訳された言葉は「熱心に求める」という意味があります。熱心に祈り求める姿勢を聖書は肯定しています。私たちの熱心な祈りに答えてくださる神がおられることを信じる必要があります。

もしよろしければ

本日11月11日(日)と18日(日)午前8時30分からTVKテレビ神奈川で放映されているライフラインという番組で先日行われたリラ結成25周年記念コンサートの模様が放映されます。それに伴い番組内で宮脇と塚田のインタビューも併せて放送されますのでもしよろしければご覧くださいませ。いったいどんな風に映像をとり、編集されたのか全く分からないので正直緊張しております。まあでも、「恥は我がもの、栄光は主のもの」と思い、どのようなものでも甘んじて受ける覚悟です。25年と一言で言っても四半世紀。教団も出身も性格も違う私たちがここまでよく一緒に歩んでこれたなあと思います。どんなに違いがあっても、キリストにあって一つとなることができるということ、どんなに困難な状況があっても神様の御心は必ず成し遂げられるということを、リラを通して知っていただけたらこんなに嬉しいことはありません。『リラはいつも満身創痍だからこそ、その賛美が心に響く。』そんな風に言われたこともあります。それもまた感謝なことです。 (小山晶子牧師婦人)

ヘブル 10:19-39

「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」(10:25)
教会と言う時、見えない普遍的教会と見える地域教会が存在すると言われます。今日の箇所は、目に見える地域教会の教会員として、一緒に教会に集まることの大切さが語られています。一緒に集まることによって互いの存在を通して励ましあうことができます。一緒に集まることによって、キリストの体としての機能を果たすことができるようになります。一緒に集まることを通して教会は、キリストの体の一部としての適切な発展をすることができます。教会はこの世界の希望です。教会の創始者はキリストであり(マタイ16:18)、私たちが共に集まるそのただ中に、キリストは臨在されます。(マタイ18:20)教会生活を大切にしましょう。今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

ヘブル 10:1-18

「しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、」(10:12)

「神の右の座に着き」ということばが意味していることの一つは、完了したということです。私たちの罪のために死ぬことも、エレミヤ書に約束された新しい契約も成し遂げられました。繰り返す必要もなければ、付け加える必要もありません。キリストが「ただ一度だけささげられたこと」(10節)で完全でした。聖書のメッセージは明確です。イエスの十字架の御業は「罪の赦しを成就した」歴史における「ただ一度だけ」の出来事です。キリスト教はこの繰り返されることはないイエス・キリストの十字架という歴史的出来事に立っています。

ヘブル 9:16-28

「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」(9:27,28)

聖書は言います。

「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ6:23共)

キリストは、私たちの罪のために、「罪が支払う報酬」を払ってくださいました。そして、キリストは死に勝利され、復活されました。そして、再びこの世の終わりに、この地に来られます。この世全体の終わりが来なくても、すべての人には、個人的なこの世の終わりが存在します。人は死亡率が一〇〇%、無視できません。聖書はさらに、その後、神の御座の前に立つことも定まっていると言います。しかし、キリストを救い主として信じているのならば、その日を恐れる必要はありません。

ヘブル 9:1-15

「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」(9:14)

血によって象徴される動物のいけにえは、私たちの身代わりに死をもっていのちを与える神のあがないのしるしでした。罪の汚れからきよめ、生ける神を礼拝する者としました。キリストの十字架の死も同じように、キリストを信じる者の罪をあがない、きよめ、生ける神を礼拝する者とすると言います。キリストの十字架の御業は動物のいけにえよりも完全です。

「ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(12節)

動物のいけにえとは違い、キリストの贖いは「ただ一度」で「成し遂げられた」のです。

「キリストの血は、どれほど確実に私たちの心と生活を変えることでしょう。」(LB)

ヘブル 8:1-13

「それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(8:10)

この箇所はエレミヤ31章の引用です。

「これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである―主のことば―。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(33節新改訳二〇一七)

この新しい契約の実現は、聖霊を授けることでした。

「わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。」(エゼキエル36:27)

まさに、これがペンテコステの日に起きた出来事でした。今、イエス・キリストを信じる者の内には聖霊が授けられていて、聖霊が神の御言葉に従って歩むように私たちを導かれています。

ヘブル 7:11-28

「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(7:24,25)

新約聖書の中心的なメッセージは、イエス・キリストは、私たちのために十字架の上で死に、葬られ、三日目に死の力を打ち破ってよみがえられ、今も生きておられるということです。イエス・キリストは永遠に存在される神ですから、イエス・キリストによって父なる神に近づく人々を完全に救うことができます。キリストが届くことができない人、また場所はどこにもありません。しかも、キリストは天において今、私たちためにとりなしをしてくださっているのです。イエス・キリストは今も生きて、働かれています。