1列王記 8:22-30

「そして、この宮、すなわち『わたしの名をそこに置く』とあなたが言われたこの場所に、夜も昼も御目を開き、あなたのしもべがこの場所に向かってささげる祈りを聞いてください。あなたのしもべとあなたの民イスラエルが、この場所に向かってささげる願いを聞いてください。あなたご自身が、あなたの御住まいの場所、天においてこれを聞いてください。聞いて、お赦しください。」(8:29,30)

ソロモン王は言いました。

「それにしても、神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。」(27節)

ですから、「地」とは私たち人間が生活するこの地上のことです。

神の「御住まいの場所」は「天」だと言います。

神は時空間に縛られることはありません。

ところが、神殿はそんな「天」と「地」が重なる場所だと言うのです。

今、イエス・キリストが私たちの神殿です。

ですから、イエス様の御名によって祈る祈りを、父なる神は聞いてくださいます。

1列王記 8:12-21

「それから王は振り向いて、イスラエルの全会衆を祝福した。イスラエルの全会衆は起立していた。」(8:14)

主が命じられたように幕屋が造られた時、モーセは民を祝福しました。

「モーセがすべての仕事を見ると、彼らは、見よ、主が命じられたとおりに行っていた。そこでモーセは彼らを祝福した。」(出39:43)

ソロモン王は、モーセがしたように、イスラエルの民を祝福しました。

彼の祝福の言葉は、神への賛美の言葉で始まります。

「イスラエルの神、主がほめたたえられますように。」(15節)

主なる神をほめたたえること、それが、祝福のことばです。

全ての祝福は神から来るからです。

「すべての祝福の源である神を讃えよ
地上のすべての被造物よ、神を讃えよ
天の軍勢よ、神を讃えよ
父と子と聖霊を讃えよ」

1列王記 8:1-11

「祭司たちが聖所から出て来たとき、雲が主の宮に満ちた。祭司たちは、その雲のために、立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。」(8:10,11)

神殿が完成したので、祭司たちは主の契約の箱を担ぎ、神殿に運び上げました。

ソロモン王は、羊や牛をいけにえとして捧げました。

祭司たちは、主の契約の箱を至聖所のケルビムの翼の下に運び入れました。

ケルビムは、エデンの園への道を守っていた天使です。(創世記3:24)

祭司たちが聖所から出てきた時、神殿に主の栄光の雲が満ちました。

これは、出エジプト記で、主の幕屋に主の栄光が満ちたのと同じ出来事です。

「そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。」(出40:34,35)

神の栄光は、モーセの幕屋と同じようにソロモン王の神殿にも満ちました。

1列王記 7:23-51

「こうして、ソロモン王が主の宮のためにしたすべての工事が完了した。ソロモンは父ダビデが聖別した物、すなわち、銀、金、各種の用具類を運び入れ、主の宮の宝物倉に納めた。」(7:51)

ダビデは自分の手で神殿を建てたかったのですが、神がそれを許しませんでした。

それで、ダビデはできる限り準備をして、息子ソロモンに託しました。

聖書にはこう記されています。

「ダビデは言った。「わが子ソロモンは、まだ若く力もない。主のために建てる宮は、壮大なもので、全地で名声と栄誉を高めるものでなければならない。それゆえ、私が用意をしておく。」こうして、ダビデは彼が死ぬ前に多くの用意をしておいた。」(1歴代誌22:5,6)

ソロモンの神殿がダビデとソロモン、二世代に渡る共同作業であったことを心に留める必要があります。

上の世代は下の世代のために用意をし、下の世代は上の世代が用意したものを尊重する姿勢が大事なのだと思います。

1列王記 7:1-22

「また、ソロモンは十三年をかけて自分の宮殿を建て、その宮殿のすべてを完成させた。」(7:1)

ソロモン王は、神殿と共に、自分の住む宮殿も建築しました。

神殿は七年をかけて建築されましたが、自分の宮殿は十三年をかけたと言います。

長さ四十四メートル、幅二十二メートル、高さ十三・二メートルだったと言います。

神殿が、長さ二十六・四メートル、幅八・八メートル、高さ十三・二メートルでした。

つまり、高さは同じですが、広さは、自分の宮殿の方が倍以上広かったことが分かります。

この点に関して、聖書は特に何も言及していません。

ただ、イエス様はこう言われました。

「しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。 今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。」(マタイ6:29,30)

1列王記 6:14-38

「このようにして、彼は神殿に内殿、すなわち至聖所を設けた。」(6:16)

神殿には至聖所が造られました。

それは、

「主の契約の箱を置くために設けた」(19節)

とあります。

「主の契約の箱」の中には、十戒の石板が収められていました。(8:9)

「主の契約の箱」の上に載せられたのは「宥めの蓋」(出25:21)、「恵みの座」(mercy seat)です。神はこう言われました。

「わたしはそこであなたと会見し、イスラエルの子らに向けてあなたに与える命令を、その『宥めの蓋』の上から、あかしの箱の上の二つのケルビムの間から、ことごとくあなたに語る。」(出25:22)

使徒パウロは、このことを念頭にしてこう言いました。

「神はこのイエスを、真実による、またその血による贖いの座とされました。」(ローマ3:25協会共同訳)

十字架の御業のゆえに、イエス・キリストこそ、「宥めの蓋」「恵みの座」だと言います。

人は、今、イエス・キリストを通して神と出会い、神の言葉を聞きます。

ザリガニ池の異変

天候不順が続き低気圧の影響をもろに受ける今日この頃。

なかなかすっきり清々しい日が少ないですがそんな中でも裏の川を少し散歩しては気分転換をしています。

鳥たちの求愛の歌に耳を傾けたり、流れる水のリズムに癒されたり、とても素敵な環境です。

日曜日の礼拝後、ぜひ皆さんも散歩してみてください。

冬の間すっかり枯れてしまっていたハンゲショウも若芽が出始めました。

息子たちが幼い頃は教会学校も男の子が多くて、夏のキャンプや礼拝後の自由な時間によくザリガニ池でザリガニを捕っていました。

先日の大雨の後久しぶりに池を覗いてみたら、何故か小さくて透明なエビが大量発生していました。

もちろんザリガニもいるのですが圧倒的にエビの数が多いのです。

調べてみると川に生息するエビはわかっているだけでもざっと16種類いるそうで、似たような外見のものもいるため捕獲してみないと正確な名前を調べられません。

気になる、、、。

でも大人一人ではちょっぴり恥ずかしいので教会学校のみんなを誘って捕獲しに行こうかと思案中。

誰か一緒に行ってくれるかな?

(小山晶子牧師婦人)

1列王記 6:1-13

「わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てることはしない。」(6:13)

「ソロモン王が神殿の建設にかかったのは、即位後四年目の春のことでした。イスラエルの民が奴隷となっていたエジプトを出てから四百八十年後のことです。」(1節LB)

この後、具体的にどのような建物を建てたかに言及されます。

しかし、11節から13節で、建物に関しての言及が一時中断されます。

そして、この建築の一番重要な目的が何か、神はソロモン王に語られます。

重要なのは「住居」(建物)でなく「住人」、誰がそこに住むかということだと。

準備に心を奪われ、もっとも重要な点を見過ごしてしまうことがあります。

「しかし、必要なことは一つだけです。」(ルカ10:42)

とイエス様は言われました。

神が求めているのは、御霊と真理によって神を礼拝する者です。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

1列王記 5:1-18

「どうか、私のために、レバノンから杉を切り出すように命じてください。私の家来たちも、あなたの家来たちと一緒に働きます。私はあなたの家来たちに、あなたが言われるとおりの賃金を払います。ご存じのように、私たちの中にはシドン人のように木を切ることに熟練した者がいませんから。」(5:6)

ツロの王ヒラムはシドン人でした。

要するにイスラエル人ではない、異邦人でした。

しかし、ソロモン王は、神殿を建築するために彼に応援を依頼したのです。

これは、神殿とは何かを暗示しています。

イエス様は、神殿に関してこう言われました。

「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる」(マルコ11:17)

これは、イザヤ書56章からの引用です。

つまり、神殿はユダヤ人のためだけでなく、あらゆる民が神の契約の中に入るために造られた祈りの家だったということです。

すべての人を救うために、イエス・キリストは、十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえられました。

1列王記 4:20-34

「神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心を与えられた。」(4:29)

ソロモン王の内面的生活は、外面的生活と比例していました。

ソロモン王は、豊かな知恵と理解力があり、彼の知恵はどんな学者よりもまさっていました。

彼の知恵を聞くために、多くの国々の王が、使者を送るほどでした。

しかも、彼は、

海辺の砂浜のように広い心

が与えられていたと言います。

このような彼の内面的、霊的な生活は、外面的、物質的な世界とかけ離れていませんでした。

「ユダとイスラエルは、ソロモンの治世中、ダンからベエル・シェバに至るまでのどこでも、それぞれ自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下で安心して暮らした。」(25節)

このようなソロモン王の人生はヨハネが祈った祈りの成就とも言えます。

「愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。」(3ヨハネ2)