マタイ21:1-17

「そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」また、宮の中で、盲人や足なえがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた。」(13,14節)

今日の箇所は「宮清め」と呼ばれます。パリサイ口伝律法は、盲人や足の不自由な人が神殿に立ち入ることを禁止していました。宮の中で売り買いしていた理由の一つは、身体障がい者が宮の中に入ってくることを妨げるためだったと思われます。事実、イエス様が宮の中で売り買いする者たちをみな追い出した時、目の見えない人たちや足の不自由な人たちがイエス様のみもとにくることが出来、いやしを受けることができました。ダビデの子、メシヤは、神のみこころはすべての人が神の恵みの座に来て、祈り、いやしを受けることであることを示されました。

マタイ20:20-34

「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(28節)

イエス・キリストの十字架の死には様々な意味が込められています。一つは、私たちの罪の身代わりとして、贖いの代価として死なれたということです。罪の報酬である死は、キリストの十字架によって支払われました。ですから、今、誰でもイエス・キリストを信じるだけで救われます。イエス様はまた、私たちのために死なれたのは、私たちに対する究極的なお手本でもあると言いました。神の御国の秩序は、仕える者になることによってもたらされます。神の御国では、権力や能力ではなく、仕える姿勢が優先されることを十字架は示します。仕えられるためではなく、仕えるために、私たちはこの地上に生かされています。

マタイ20:1-19

「それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。」(15節)

ぶどう園の日雇い労働者のたとえのポイントは、労働時間に応じて賃金を支払わないぶどう園の主人が

「私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか」

と問うところにあります。神様の寛大な恵みに気づくか、それとも業績重視の人間的見方に縛られて、神の主権までも犯そうとするのかという問いがあります。賃金は最後に来た者たちから支払われます。無意識に最初に来た者たちは最後に来た者たちを軽んじていたために、同じ扱いを受けたことに不満をもらします。

「この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。」(12節)

イエス様の言葉が響いてきます。

「あなたがたは、この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい。」(18:10新改訳二〇一七)

マタイ19:16-30

「イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」」(19:26)

ひとりの富める青年がイエス様に尋ねました。

「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」(16節)

イエス様は答えます。

「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」(17節)

イエス様が言いたかったことは、イエス様に従うことによってのみ、その戒めを守って本当に生きる道を知ることができると言うことです。しかし、彼は自分の力で財産を築いたという思いが強すぎて、神の恵みによって今があるという認識を受け入れることができず、悲しみながら立ち去りました。

「神の恵みによって、私は今の私になりました。」(1コリント15:10新改訳2017)

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう!

本日はギデオン・サンデー。聖書を配布するギデオン聖書協会の働きを覚えます。

マタイ19:1-15

「しかし、イエスは言われた。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」」(14節)

イエス様のところに来ることを邪魔する人がいます。残念ながら、弟子たちのように善意で邪魔をすることがあります。特に、子どものようにこの地上では力がない存在、富も権力もない者がイエス様のところに来ることを妨げないように私たちは気を付ける必要があります。なぜならイエス様は「天の御国はこのような者たちの国なのです。」とおっしゃられるからです。誰かがイエス様に祝福を求めて近づくことを妨げていないでしょうか?イエス様のもとに来る人を、イエス様がお邪魔に思うことは断じてありません。一人でも多くの人が祝福を求めてイエス様のもとに行くことができるように、イエス様を指し示す者となれますように。

マタイ18:10-35

「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(18:19,20)

一人で祈ることができないわけではありませんが、聖書は、共に心を一つにして祈ることを勧めています。信仰生活は気を付けないと独りよがりのものになりかねません。自分だけが正しいと思いあがることは危険なことです。常に、謙遜に他者から学ぶ姿勢が必要です。

「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

とイエス様はおっしゃられました。イエス様がおられる場所は、謙遜に、祈り合う共同体です。

マタイ17:14-18:9

「また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」(18:5)

キリスト教会にとって子どもへの配慮は頭なるイエス様の命令として心に留める必要があります。何よりも子どもたちの背後には天使がいると言います。

「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。」(18:10)

子どもたちを歓迎する時、私たちはキリストを歓迎していることを心に留めたいと思います。

マタイ16:21-17:13

「しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」」(16:23)

「人のことを思っている」と訳された「人」は複数形なので、岩波訳では

「人間のことがら」

と訳しています。つまり、イエス様はペテロの発言は、イエス様のことを気にかけているものではなく、人間的なものだと言います。ペテロの発言の背後には当時のユダヤ教の熱烈な政治的メシア(キリスト)像があります。反乱軍の指導者となるような人物が、そんな不吉なことを言っていてはダメじゃないですかと。軍事的メシヤ像、これが「サタン」が導こうとした方向でした。イエス様は言われます。

「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊がいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」(ヨハネ10:10)

マタイ16:1-20

「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(18節)

ペテロの

「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(16節)

という信仰告白は、神様から直接的に与えられた啓示だとイエス様は言います。そして、この啓示の上に、イエス様は、イエス様の教会を建てると言われました。イエス様は、今も生きて働かれている神の御子であり、イエス様の教会はイエス様が建て上げられているということを私たちは認識する必要があります。教会は単なるコミュニティ・サークルではありません。「わたしはわたしの教会を建てます」とおっしゃられる生ける神イエス・キリストが頭である限り、教会に打ち勝てるものはありません。

マタイ15:10-39

「そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。」(28節)

イエス様のカナン人の女の人に対する言葉には人種差別的発言を感じます。

「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」(26節)

イエス様はどうしてそのようなことを言われたのでしょうか。

イエス様と共にいたユダヤ人たちは、イエス様と同じ思いだったことでしょう。

彼らにとってユダヤ人以外の異邦人は「小犬」のようなものだったことでしょう。

「よく言った!」

と思ったことでしょう。

しかし、それに対する彼女の発言、そして、彼女の信仰告白をほめるイエス様の姿に彼らは言葉を失ったことでしょう。

そして、彼らは知ったことでしょう。

人は信仰によって救われるということを。