マタイ25章

「主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」(21節)

「それぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。」(15節)とあるように、人にはそれぞれ、賜物が与えられています。その賜物で商売をしたとありますように、与えられた賜物をどのように用いるかは私たち一人一人に任されています。預けられたタラントの額はそれぞれ違いますから、互いに比較することには意味はありません。大事なのは、神の御前に出た時に、「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と言ってもらえるかどうかです。「地の中に隠しておきました。」(25節)という言い訳は通じません。神様が造られた目的に生きることができますように。

マタイ24章

「ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(36節)

イエス様は、この世の終わりがいつなのかは、だれも知らないとはっきりと言われました。ですから、「知っている」という人は偽預言者です。教会はその日がいつなのかは言及してはいけないのです。その日がいつなのかはだれも分からないので、私たちは日々、良い緊張感の中で生きることができます。いつ、キリストが再び来られても良いように一日、一日を生活することを聖書は勧めています。キリストは言います。

「ちょうど、ノアの時代のように。当時の人々は洪水が襲う直前まで、宴会だ、結婚式だと陽気に楽しんでいました。何もかも押し流されてしまうまで、洪水のことなど信じようとしなかったのです。わたしが来る時も、それと同じです。」(同37‐39LB)

今日は主の日。ともに主に礼拝を捧げましょう。

マタイ23章

「ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。」(3,4節)

当時の宗教指導者たちは、自分たちが神の律法を守っていると自負していました。しかし、それは表面的であり、実際はできていないことをイエス様は指摘します。彼らはそのことに気づきもせずに人々を裁いていました。自分でさえ達成できない基準で人を裁くことはイエス様が一番嫌われたことでした。自分が出来ないことを他者に要求して、裁いていないでしょうか。イエス様は私たちを裁く代わりに、私たちの身代わりになって十字架で裁きを受けられました。ですから、私たちが傲慢になって、自分を棚に上げて人々を裁くことを嫌われます。

マタイ22章

「王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。」(12節)

「礼服を着ないで」というのは、別に結婚式に単にフォーマルを着て来なかったという意味ではありません。当時、招待する側は、その時着てくる礼服も準備するという習慣がありました。つまり、「礼服を着ないで」ということは、準備されていた礼服を着て来なかったという意味があるのです。礼服を準備するには、それなりに費用も、犠牲もかかったことでしょう。それなのに、それを着てこないというのは、準備した側に対して失礼な話であることは間違いありません。神は私たちを招待するだけでなく、私たちに義の衣という礼服をすでに用意されました。それは、キリストの十字架と言う犠牲によって作られた礼服です。神はすべての人を神の国に招待してはいますが、この礼服を着なければ、神の国に入ることはできません。

マタイ21章

「わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」(13節)

「強盗の巣」と訳された単語は、「暴徒(革命家・ゲリラ)の巣窟」とも訳せます。この表現を理解するのには旧約と新約の間に起こった出来事を知る必要があります。クリスマスの時期にハヌカの祭りをユダヤ人たちはお祝いしますが、それは、この中間時代に、ゲリラ戦でユダ・マカバイがシリア軍に打ち勝ち、神殿をきよめたという史実に基づきます。神殿はユダヤ民族主義の象徴となっていたのです。しかし、本来は

「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。」(イザヤ56:7)

とあるように、神殿はユダヤ民族のためだけではありませんでした。イエス様が追い出した「売り買いしている者たち」は異邦人の庭と呼ばれる場所を占拠し、異邦人が祈ることを妨げていた人たちです。神はユダヤ民族だけでなく、全ての民族の神です。

マタイ20章

「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」(28節)

神の御国の価値観とこの世の価値観は違います。イエス様は言われます。

「この世の普通の人たちの間では、王は暴君であり、役人は部下にいばり散らすものです。だがあなたがたの間では違います。リーダーになりたい者は、仕える者になりなさい。」(25、26節LB)

この世の人たちは自己顕示欲を満たすために人を蹴落としてでも、人の上に立とうとします。しかし、神の御国に生きる者はそうであってはいけません。私たちの模範はイエス様です。イエス様は王の王、主の主なるお方なのにも関わらず、私たちと同じ人間となり、人々に仕えられました。神の御国では、「皆に仕える者」が偉い人、偉大な人です。

マタイ19章

「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちがみもとに連れて来られた。すると弟子たちは、連れて来た人たちを叱った。しかし、イエスは言われた。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」そして手を子どもたちの上に置いてから、そこを去って行かれた。」(13‐15節)

子どもたちをイエス様に手を置いて祈っていただける距離に連れて行く姿勢はとても大切です。幼い子どもたちが、たとえ理解することができなくても、教会の霊的雰囲気の中で育てられることは大変意味があることです。シュバイツァーは、親の敬虔な姿を見て、神を畏れることを学んだと言います。大人が神を第一にして生きることが、次世代に対する祝福になるということも心に留めておきたい内容です。子どもたちがイエス様のところに来るのを邪魔することがありませんように。

マタイ18章

「あなたがたは、この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい。あなたがたに言いますが、天にいる、彼らの御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。」(10節)

イエス様が天使の存在について教えている箇所です。ここでのポイントは、子どもたちをどう扱うか注意するようにと言うことです。なぜなら、

「天国では、子どもたちを守る天使が、いつでもわたしの父のそば近くにいるのです」(LB)

もちろん天使たちは子どもたちだけでなく、キリストを信じるすべての人を守るために存在しています。聖書は言います。

「天使は、救われる人々を助けるために遣わされた、霊の使者なのです。」(ヘブル1:14LB)

天使を礼拝することは禁じられています。

神が天使たちを遣わして私たちを、特に社会的弱者、子どもたちを守っていることを意識する必要があります。

マタイ17章

「彼らが目を上げると、イエス一人のほかには、だれも見えなかった。」(8節)

使徒ペテロにとってこの時の出来事はあまりにも印象的だったらしく、後に手紙の中でもこう記しています。

「この方が父なる神から誉れと栄光を受けられたとき、厳かな栄光の中から、このような御声がありました。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」私たちは聖なる山で主とともにいたので、天からかかったこの御声を自分で聞きました。」(2ペテロ1:17,18)

イエス・キリストは生ける神なので、今も私たちはペテロと同じような山頂の体験をすることがあります。山頂の体験は素晴らしいものですが、私たちが求めるのは体験ではなく、イエス・キリストです。

「イエス一人のほかには、だれも見えなかった。」

とあるように、私たちは現象や体験ではなく、イエス・キリストだけを見る必要があります。
今日は主の日。ともに主に礼拝を捧げましょう。

マタイ16章

「シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」(16-18節)

ペテロは自分の口から出た信仰告白がどんなに意味のあることかこの時理解していなかったと思います。聖霊なる神様が彼にそう言わせたのだと思います。イエス様はこの信仰告白の上に「わたしは、わたしの教会を建てます。」とおっしゃられました。その信仰告白は

「イエスは、生ける神の御子キリスト」。

教会の土台は、生ける神イエス・キリストです。キリストは過去の偉人というだけでなく、未来に来られるお方というだけでなく、今、生きて働かれるお方です。