ヘブル 9章

「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」(27,28節)

聖書は言います。

「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ6’23共)

キリストは、私たちの罪のために、「罪が支払う報酬」を払ってくださいました。そして、キリストは死に勝利され、復活されました。そして、再びこの世の終わりに、この地に来られます。この世全体の終わりが来なくても、すべての人には、個人的なこの世の終わりが存在します。人は死亡率が一〇〇%、無視できません。聖書はさらに、その後、神の御座の前に立つことも定まっていると言います。しかし、キリストを救い主として信じているのならば、その日を恐れる必要はありません。

ヘブル 8章

「それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(10節)

この箇所はエレミヤ31章の引用です。

「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。―主の御告げ。―わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(33節)

この新しい契約の実現は、聖霊を授けることでした。

「わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。」(エゼキエル36:17)

まさに、これがペンテコステの日に起きた出来事でした。今、イエス・キリストを信じる者の内には聖霊が授けられていて、聖霊が神の御言葉に従って歩むように私たちを導かれています。

はじまりました

先週木曜日からいよいよ会堂の修繕工事が始まりました。あっという間に足場が組まれ、外壁と屋根が高圧洗浄機で綺麗になり、作業は梅雨明けの猛暑の中今日も続けられています。足場の関係で、しばらくは駐車しづらくなると思いますが、どうぞご勘弁ください。実は教会堂を建てるにあたり、予算の関係で表からは見えない外壁の一部に違う種類のものを使用してあります。それが今回、すべて同じ色で塗りなおすので、ようやくどこから見られてもいい状態になることを個人的には非常に喜んでいます。汚れたものの上に新たに塗りなおす、ではなくきれいに汚れを取ってから塗るという作業に信仰生活と共通するものを感じています。高圧洗浄機で壁の汚れを洗い流すように、私たちの心に溜まっていった汚れをイエス様の血潮によって洗い流していただき、日々主の前に新たな気持ちで立つことができればどんなにすがすがしく幸いだろうかと思うのです。教会の外壁がどんどんきれいになるように、教会に集う私たちもまたきよめられていきたいものです。 (小山晶子牧師夫人)

ヘブル 7章

「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(24,25節)

新約聖書の中心的なメッセージは、イエス・キリストは、私たちのために十字架の上で死に、葬られ、三日目に死の力を打ち破ってよみがえられ、今も生きておられるということです。イエス・キリストは永遠に存在される神ですから、イエス・キリストによって父なる神に近づく人々を完全に救うことができます。キリストが届くことができない人、また場所はどこにもありません。しかも、キリストは天において今、私たちためにとりなしをしてくださっているのです。イエス・キリストは今も生きて、働かれています。今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

ヘブル 6章

「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」(10節)

私たちは行いによって救われるわけではありません。キリストがすでに十字架で成し遂げてくださった御業のゆえに救われるだけであり、それに、何も加えることはできません。しかし、それは、私たちの行いがどうでもいいと言う意味ではありません。キリストを信じ救われたのならば、人としてすべき応答があります。エペソ2:10に、こう書いてあります。

「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」(口語訳)

誰も見て評価してくれなくても、神様は私たちの行いも見ておられ、忘れないと言います。

へブル 5章

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」(7節)

私たちが見習うべき祈りの姿勢は、イエス様です。イエス様がどのように祈られたか、私たちはそれを心に留める必要があります。イエス様は、ご自身の問題をお弟子さんたちに分かち合って、心が軽くなるまで話しあったわけではありませんでした。イエス様は、人が経験する不安と恐れを神の前に注ぎだす祈りというのを実践して教えてくださいました。私たちもまた、「叫び声と涙とをもって」という心を注ぎだす祈りを神様に捧げることを学ぶ必要があります。感情を人にぶつけても、傷つけることはあっても、解決することはありません。神様に心を注ぎ、神さまに感情もぶつけ、祈ることを学ぶ必要があります。

ヘブル 4章

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(15,16節)

イエス様は、天の御座から私たちを見下ろして、蜘蛛の糸をたらすという方ではありません。実際に人となられて、この地上を歩かれ、私たちと同じように試みを体験されました。ですから、私たちが日々直面する問題、悩みを理解してくれます。私たちの弱さをご覧になって、切り捨てる方ではありません。また、達観して、あきらめの境地に私たちを導こうというわけでもありません。私たちにおりにかなった助けを与えたいのです。私たちは助けを受けるために、主の御前に大胆に出て行く必要があります。恵みの御座は開かれています。

へブル 3章

「しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。」(6節)

モーセの時代の神の家は、イスラエルの民でした。キリストが建てた神の家は、教会です。私たちがキリストを歓迎する時、キリストは私たちのただ中に住んでくださっているのです。イスラエルの国が完全ではなかったように、教会も完全ではありません。しかし、イエス・キリストが教会を忠実に治めてくださっているということは、心に留める必要があると思います。キリストが管理してくださっているのならば、これほど素晴らしいことはないのではないでしょうか。LBでは、こう訳しています。

「もし、最後まで揺るがない確信を持ち続け、喜びと主への信頼を失わなければ、私たちも神の家となるのです。そして、神がそこに住んでくださるのです。」

ヘブル 2章

「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(14,15節)

LBでは、今日の箇所を、こう訳しています。

「神の子どもである私たちは、血も肉もある人間です。そこでイエスも、血肉をもった人間の姿でお生まれになりました。それは、人間として死ぬことにより、死の権力をふるう悪魔の力を打ち砕くためです。これだけが、一生涯死の恐怖の奴隷となっている人間を救い出す方法だったのです。」

どうして、イエス・キリストが人の子として生まれてこなければいけなかったかを明確に語っています。神の御子が、人として生まれてきてくださったから、私たちには救いがあります。無限の神の子が、有限な血肉を持たれた理由がここにあります。

ヘブル 1章

「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」(1,2節)

旧約聖書を見ますと、神が様々な方法で語られたことが分かります。しかし、この終わりの時代は、イエス・キリストにあって語られるというのが聖書が明確に教えていることです。イエス・キリストにあって語られるという意味は、三位一体である聖霊によって語られるということです。聖書の本当の著者は聖霊です。ですから、今、聖書を通して語られるということです。聖書は物語(ストーリー)です。ですから、聖書の物語を通して、神が語られているということを心に留める必要があります。六法全書ではなく、聖書の物語が与えられたのは、私たちが今、聖書の物語の民として生きるように求められているということでもあります。そのためには聖書の物語を自分のものとする必要があります。