ガラテヤ 3:26-4:20

「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」(4:6)

「神」が主語です。新改訳二〇一七ではこう訳しています。

「神は『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。」

聖霊は、「アバ、父」と叫ばせる、私たちを祈りに導かれるお方だと言います。つまり、父なる神に祈りを捧げることは、聖霊が私たちの内に住まわれている証拠ということです。聖霊が私たちの心の中に住んでおられるから、私たちの内側から祈りが沸きあがってくるということです。それは、「洗練された言葉」として湧きあがることもあれば、日本語としては意味をなさない、叫びでしかない、いわゆる「異言」のこともあります。大事なことは、聖霊に導かれて祈ることです。

ガラテヤ 3:11-25

「私の言おうとすることはこうです。先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがないということです。」(3:17)

神はまず、アブラハムと約束をしました。その後、アブラハムの子孫たちがエジプトで奴隷生活を強いられました。神の信実のゆえに、神はモーセを指導者として遣わし、彼らを解放しました。その時、彼らは神から律法をいただきました。ですから、まず、律法ありきではなく、約束ありきです。これは、信仰生活を歩む上で重要です。まず、イエス・キリストを信じるだけで救われるという神の約束があります。「こうした方がいい」というものはあります。しかし、まず、約束ありきです。失敗したからと言って、無効になるわけではありません。私たちの弱さ、欠けのゆえに、取り消されることはありません。

戻りたい過去

皆さんは戻りたい過去がありますか。
先日長男とこの話になりました。さかのぼって戻ってやり直したい時代があるか、という話の中で私にも長男にもそんな過去がないということが判明し、笑ってしまいました。結論は「今が一番いい」というところでしょうか。あの時ああすればよかった、こうすればよかった、あんな経験しないほうが良かった、あんなこと言わなきゃよかった。わたしにもそんな思いがないわけではありません。けれどもその失敗や痛み、後悔、その一つ一つが今の私に至るために必要なことだったと思うのです。何よりも、全てを働かせて益と変えてくださる主にお任せできることは本当に幸いなことだと思います。実は今も、大きな試みの中にいます。でもこの出来事もやがて益となることを知っているのです。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがあることをこれまでの歩みの中で学び、体験的に知っています。皆さんの今の痛みもやがて喜びへと変えられていくことを信じます。
(小山晶子牧師夫人)

ガラテヤ 2:11-3:9

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(2:20)

「神の御子を信じる信仰によっている」と訳された言葉は、

「神の御子の信実の中でわたしは生きている」

と訳すことができます。信仰生活は、もちろん、イエス・キリストを信じる信仰によって生きていくという側面があります。しかし、同時に、それは、イエス・キリストの信実、私たちのために十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえられたという神の御子イエス・キリストが成し遂げられた救いの御業の中で生きていくという側面があります。いずれにせよ、イエス・キリストの十字架の御業が、私たちの生きる原動力です。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

ガラテヤ 2:1-10

「ただ私たちが貧しい人たちをいつも顧みるようにとのことでしたが、そのことなら私も大いに努めて来たところです。」(2:10)

日本では、字を読めない人も電気を使えない人もほぼ0%ですが、たとえば、バングラデシュでは、字を読めない人は41%、電気を使えない人は40%います。毎日食事を食べることが普通ではない国の人たちがいます。また、聖書にはこのように記されています。

「貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。「国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。」」(申命記15:11)

「貧しい人たちを援助することをいつも忘れないように」(LB)

と、聖書は私たちに訴えています。

ガラテヤ 1:1-24

「先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。」(1:17)

アラビアとは、パウロにとっての退修(リトリート)の場所でした。私たちも日常から退却して神との時間をとるアラビアが必要です。友人や家族や批判者の言葉ではなく、神のみことばに耳を傾ける時間が必要です。静かな部屋で神との時間をとるならば、その場所がアラビアとなります。そのような意味で、日曜日の礼拝の時間もアラビアとなります。私たちは、神が愛されていること、赦されていること、受け入れられていることを自分の心に浸す時間が必要です。パウロは焦って自分の働きに出て行くことはしませんでした。彼は神が働かれていることを知っていました。神が彼を必要としているのではなく、彼が神を必要としていたのです。アラビアは、パウロにとって、神を自分の中心に据える訓練の場となりました。

2コリント 13:1-13

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」(13:13)

聖書の神は三位一体なる神です。唯一の神ですが、子なる神キリスト、父なる神、聖霊なる神の三つの位格があります。このことを知的に理解することができないために、学者の中には三位一体を否定する人たちがいます。しかし、聖霊なる神は、はっきりとこの祈りのことばを使徒パウロに書き記させました。私たちが持つ知性で把握することが出来ないからと言って、神のご性質が変わることはありません。神は神であり、三位一体なる神です。コリントの教会に対して、パウロは厳しい言葉を並べてはいましたが、恵み、愛、交わりという三つを一つとしてまとめているところに、教会のあるべき姿を教えられます。

2コリント 12:11-21

「使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間でなされた、あの奇蹟と不思議と力あるわざです。」(12:12)

コリント人への手紙が書かれた理由の一つは、パウロの使徒職に疑問を抱く人たちに対する弁明です。いわゆる「超大使徒様」(11節)がパウロの権威に関してコリントの教会の人たちが疑問視するように仕向けたのです。それで、パウロは使徒としてのしるしを挙げます。それは単なる「奇蹟と不思議と力あるわざ」ではなく、

忍耐を尽くしてあなたがたの間でなされた、あの奇蹟と不思議と力あるわざ」

です。「忍耐」は1コリンント13章の愛の賛歌にも出てきますし、ガラテヤ5章の御霊の実の一つにも出てきます。教会の働きは忍耐が必要です。聖霊の働きを忍耐強く行っていることこそ、使徒である証拠と言う聖書のみことばを心に留める必要があります。

2コリント 12:1-10

「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(12:9)

パウロには問題がありました。多くの学者は、目の問題だと考えていますが、はっきりと分かってはいません。神は彼を用いて多くの人をいやされましたが、彼はいやされませんでした。「いやしてください」と何度も祈った彼に神はただこう言いました。

「いや、治すまい。しかし、わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか。わたしの力は弱い人にこそ、最もよく現れるのだから。」(LB)

私たちに弱さがあるからこそ、神の力が輝きます。自分に足りなさがあるからこそ、神の偉大さが現されます。マイナスは必ずプラスになります。

「なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(10節)

2コリント 11:16-33

「だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。」(11:29)

今日の箇所をLBではこう訳しています。

「誤った道を進んでいる人を見て、悲しまないでいられるでしょうか。倒れている人を見て、知らん顔ができるでしょうか。精神的に痛手を受けている人を見て、傷つけた相手に激しく怒らずにいられるでしょうか。」

この表現に使徒パウロの教会に対する思いを見ることができます。いや、使徒パウロに与えられたキリストの教会に対する思いを見ることができます。教会は、キリストの花嫁だという箇所があるように、神にとって教会は、あってもなくてもいい存在ではありません。西洋の個人主義の影響で、信仰の個人的側面が過度に強調され、地域教会を過小評価する傾向が強くなっていますが、それは、神の思いではありません。「主よ、あなたの教会を大切にできますように。」