詩篇 100篇

「知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。」(3節)

「知れ。主こそ神。」

これほど力強い言葉はないと思います。LBは、

「主が神であるとはどんなことか、肌で感じ取りなさい」

と訳しています。英語の聖書では、

「これを知りなさい。神は神。」

私たちは、自分の命を自分で一日も伸ばすことができないのと同じように、自分にはどうすることもできない領域があることを謙虚に受け止める必要があります。人は永遠に神になることはありません。神は神です。神は私たちを造られた方です。私たちは、この神に属する者であり、神の民、神のご加護のもとにある民です。パウロは、この真理を苦しみの中で見いだしました。

「ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。」(Ⅱコリント1:9)

主が神であるとはどんなことか、感じられますように。

6月の日曜日 June Sundays

2日(日)  エペソ4:17-:24 「考え方を新しく」 小山英児牧師 

9時(HC)、10時半(HC)、18時(HC)              (HC)=聖餐式

9日(日)  エペソ4:25 -5:2 「神に倣う人」 小山英児牧師

9時、10時半、18時

16日(日)  ゲスト: 中山有太師(Praise Station/東北中央教会Worship Pastor)

9時、10時半 

※ 18時からは、第50回単ペン大会 ユース・プレ大会

23日(日)  エペソ5:3 -:10 「感謝がふさわしい」 小山英児牧師

9時、10時半、18時

30日(日)  エペソ5:11 -:20 「あなたを照らす光」 小山英児牧師

9時、10時半、18時

詩篇 99篇

「主は、雲の柱から、彼らに語られた。彼らは、主のさとしと、彼らに賜わったおきてとを守った。」(7節)

 出エジプト記の中で、カナンの地を目指すイスラエルの民を昼は雲の柱、夜は火の柱が彼らを導いたと記されています。そして、神がモーセと語られる時、天幕の入口に雲の柱が立っていたとあります。雲の柱は神の臨在の象徴です。この天幕において、「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」のです。

今日、神は、祈りと聖書を通してわたしたちと語られます。昔のように雲の柱は出てこないかもしれませんが、イエス様の御名の中で祈るとき、どこにいても神の臨在の中に身を置くことができます。モーセと親しく語られた神は、私たちとも親しく語ってくださいます。

神との対話は、私たちに応答を求めます。

「彼らは従順に従いました。」(LB)

神のみことばに従っていくことができますように。

詩篇 98篇

「立琴に合わせて、主にほめ歌を歌え。立琴と歌の調べに合わせて。」(5節)

  古代の壁画や遺跡などをみると、数多くの楽器がはるか昔から使用されていたことがわかります。わたしたちは聖書に中にも様々な楽器を見ることができるのですが、その実際の音色は残念ながら聴くことができません。これは、たぶん私たちがそれぞれの時代のそれぞれの文化の馴染みのある楽器を用いて神にほめ歌を歌うようにという意味だと考えられます。詩篇は、その歌の調べ(メロディ)も分かりません。これも、その時代のその文化に馴染みのあるものに変えて欲しいという意味だと思われます。詩篇の時代の人々が馴染みのある楽器を用いて、馴染みのある調べで神様にほめ歌を歌ったように、私たちも、この時代に生きているものとして、馴染みのある調べを、馴染みのある楽器を用いながらよい音色をもって神様に賛美をささげることができますように。

詩篇 96篇

「確かに、主は来られる。確かに、地をさばくために来られる。主は、義をもって世界をさばき、その真実をもって国々の民をさばかれる。」(13節)

 確かに主イエス・キリストはこの世界に来られました。しかし、今日の詩篇の箇所は、キリストが生まれたクリスマスの日のことではなく、キリストが再びこの世界に来られる日のこと(再臨)を預言しています。この世界を造られた神は、この世界をどうでもいいと思っているわけではありません。事実、聖書ははっきりと言います。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

神はこの世を愛され、キリストはこの世のために、十字架にかかり、復活され、この世界の王となられました。そして、再び、この地をさばくために来られます。キリストを自分の主として信じる者に義を宣言し、この世界を裁かれます。

詩篇 95篇

「さあ、主に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。」(1節)

 神のことばである聖書が、私たちに主に向かって歌うことを呼びかけているということは、私たちが主に向かって歌うことを神が望んでおられるということでなくて何でしょうか。実際、エペソ書でパウロも、聖霊に満たされて生きている人の特徴に主に向かって心から歌うことを挙げています。

「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」(5:19)

パウロは、主に向かって歌うように、互いに励ましあうことも勧めています。それほど神は私たちが神に向かって歌うことを願われているからです。今日は主の日。共に賛美の歌を神に捧げましょう!

「ハレルヤ!あなたは勝利された。イエス様、あなたはこの世に勝利された。すべての高きものは落とされる。すべての砦は壊される。あなたは勝利の冠をかぶられた。あなたは勝利した。」(Victor’s Crown by ダーリン・チェック)

詩篇 94篇

「私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばしてくださいますように。」(19節)

  LBでは、この箇所をこう訳しています。

「神様、何もかも信じられなくなって動揺している時、どうか私の気持ちを静め、新しい希望を与え、快活さを取り戻させてください。」

私たちは、いろいろなことで動揺したりします。ここでは、詩人は神を恐れないで悪いことをしている人たちが何の問題もなく生きていることに疑問を感じ動揺しています。しかし彼は理解できないことでなく、知っていることに目を留めました。

「耳と目をお造りになった神様が、なんで耳が聞こえず目が見えないものか。」(9節LB)

私たちに分からなくても、主は知っておられます。

「まことに、主は、ご自分の民を見放さず、ご自分のものである民を、お見捨てになりません。」(14節)

「主よ、あなたの恵みが私をささえてくださいますように。」

詩篇 93篇

「主は、王であられ、みいつをまとっておられます。主はまとっておられます。力を身に帯びておられます。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはありません。」(1節)

 「御国が来ますように」と、クリスチャンは祈りますが、「御国」とは、「王国」、「王の支配」という意味です。王はもちろん、イエス・キリストです。イエス様の十字架に掲げられた罪状は、「ユダヤ人の王」でした。十字架と復活は、まさに、キリストにある王の支配がこの地上で始まったことを意味します。ですから、「御国が来ますように」という意味は、「神の主権を認めます」「神の統治を認めます」という意味です。もちろん、私たち人間が認めようと認めまいと、神はすでに王であり、すべてを治めておられます。しかし、完全な支配はまだ施行されていません。神様は人間の自由意志を尊重されておられるからです。しかし、神の主権を認めて、万事感謝と生きる人生は、神の永遠の御国にすでに生きています。

詩篇 92篇

「主に感謝するのは、良いことです。いと高き方よ。あなたの御名にほめ歌を歌うことは。朝に、あなたの恵みを、夜ごとに、あなたの真実を言い表わすことは。」(1,2節)

  私たちが生きていく中で何が良いことなのでしょうか?この箇所ではっきりと私たちに教えられている良いことは、主に感謝することです。すべてのことについて、主に信頼して、主に感謝する人生を歩むことは良いことです。不平不満ばっかり言っている人生よりも、感謝している人生のほうが、良い人生です。いつも神様に感謝することができるように、朝ごとに、そして、夕ごとに、「ハレルヤ!主よ感謝します。」と言って起きる習慣、「ハレルヤ!主よ感謝します。」と言って寝る習慣を身につけることができたらどんなに素晴らしいことでしょうか。

「主よ、あなたに信頼します。万事感謝と信仰をもって歩めますように。ハレルヤ。主よ感謝します。」

詩篇 91篇

「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。」(1節)

  私たちの人生に大きな影響を与えるもの、それは、「恐れ」ではないでしょうか。「恐れるものは何もない」と言っても、問題に翻弄されているならば、ただの強がりでしかありません。この詩は、恐れへの勝利が記されています。

「あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも」(5,6節)

どうやって、そのように恐れに打ち勝つことが出来るのでしょうか?1節に、こう書いてあります。

「全能のお方のふところに住んでいます。」(LB)

全能なる神は、私たちの隠れ場、私たちの苦難の日の砦です。日々神様の御翼の陰に身を置くならば、私たちは何も恐れる必要はありません。

 「全能の神、主よ、あなたのふところに、私を引き寄せてください。」