マルコ 16章

「弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。」(16:20)

よみがえられたイエス様は弟子たちに命じられました。

全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」(16:15)

命じられただけでなく、信じる者たちにしるしが伴う権威を授けられました。

信じる人々には次のようなしるしが伴います。」(17節)

それだけでなく、「主は彼らとともに働き」とあるように、イエス様は今生きておられ、一緒に働いてくださるお方です。

福音を伝えようとする時に、実は、イエス様が一緒に働いてくださると言うのです。

ですからイエス様の現実を感じる一番いい方法は、福音を伝えることです。

福音を伝えていく中で、共に働いてくださるイエス様の現実を体験します。
今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう。本日は宗教改革記念日です。

マルコ 15章

「しかし、イエスはもはや何も答えようとされなかった。それにはピラトも驚いた。」(15:5)

ローマ総督ピラトは政治家で、真理も正義にも興味はなく、群衆を満足することだけを考えていました。

自分に被害をもたらさない限り、どちらに風が吹いているかを気にするタイプの権力者でした。

だから、彼は何も悪いことをしていないことを知っていても、「では、おまえたちがユダヤ人の王と呼ぶあの人を、私にどうしてほしいのか。」(12節)と群衆に尋ねます。

群衆がいつも正しいとは限りません。

群衆が求めたのは「十字架につけろ」(14節)でした。

「それで、ピラトは群衆を満足させようと思い、バラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。」

ここにポピュリズムの脅威があります。

イエス様は、沈黙をもってこの苦難を耐え忍ばれました。

静まれ、私こそが神であると知れ。」(詩篇46:11協会共同訳)

人は神を知る必要があります。

マルコ 14章

「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」(14:38)

ペテロはイエス様に言いました。

たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」(29節)

しかし、その後、イエス様と共に目を覚まして祈っていることさえできず、イエス様が捕らえられると、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。

さらに、

噓ならのろわれてもよいと誓い始め、「私は、あなたがたが話しているその人を知らない」と言った」(71節)

とあります。

そんなペテロが最初の教会のリーダーでした。

イエス様はそんなペテロを裁くどころか、あわれまれて言いました。

霊は燃えていても肉は弱いのです。

初代教会のリーダーは、そのことを理解していた人だったということを、私たちは心に留める必要があると思います。

霊は燃えていても、みんな、肉体は弱いのです。

だから教会は、お互いの弱さを認め、祈り合い、励まし合う場所です。

マルコ 13章

「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(13:31)

この世にあるものは移ろいやすく、そびえたったビルでさえ、いともたやすく壊されて、また、新しい建物が建築されています。

永遠に続くかと思われる制度も、ふとしたことで崩壊します。

哲学も思想も、時代と共に変化し続け、その証拠として世代間に溝ができています。

考え方が変化しているのです。

しかし、聖書は時代を超え、文化を超え、今も、神のことばとして、多くの人々の心を捉え、変え続けています。

どんなに聖書を批判する人がでてきても、その批判者やその批判の内容は廃れて生きますが、聖書は変わらずに多くの人々の心を捉えて離しません。

私たちを愛する神は今も生きておられ、私たちに今も語り続けておられます。

「こはげに古き教えなれど、日々新しき歌とぞなる」(聖歌525)と言う賛美の通りです。

マルコ 12章

「皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」(12:44)

イエス様はこの乏しい人が「生きる手立てのすべてを投げ入れた」のを見ていたと言います。

イエス様は乏しい人が捧げることを引き止めることをしませんでした。

それは、捧げることを通して、天の窓が開かれ、祝福されることを知っていたからです。

乏しい中でも捧げたピリピの教会の人々に使徒パウロはこのように言います。

贈り物を感謝するのはもちろんのこと、何よりもうれしいのは、その親切な行いのゆえにあなたがたが受ける、豊かな報いのことです。」(ピリピ4:17LB)

精一杯捧げる人々に対して、聖書は約束を与えています。

また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(4:19)

マルコ 11章

「そして、前を行く人たちも、後に続く人たちも叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。」(11:9)

イエス様がエルサレム入城をされる時、群衆は「ホサナ」と叫びました。

「ナ」は英語の「プリーズ」に相当する語で、「ホサ」は「お救いください」と言う意味があります。

ですから、「ホサナ」は「お救いください。お願いします」と言う意味です。

もちろん、「お救いください。お願いします」と言う対象は「救い主」以外にあり得ません。

それで、「ホサナ」は賛美の叫びの定型句となりました。

「祝福あれ」も賛美の叫びの定型句です。子ろばに乗られた理由は、旧約聖書の預言の成就だからです。

娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。」(ゼカリヤ9:9)

イエス様は預言された王として入城されたのです。

マルコ 10章

「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」」(10:42-45)
権力主義は神の御国のあり方ではありません。

聖書的ではありません。

聖書が教えるリーダーシップは人々に仕える逆三角形です。

自分の利益のために人を動かすのではなく、一人一人の利益のために導くというものです。

キリストは自分のために弟子を犠牲にしたのではなく、自分のいのちを与えられました。

マルコ 9章

「わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です。」(9:40)

弟子のヨハネはイエス様に言いました。

先生。あなたのお名前を使って悪霊を追い出している人を見かけました。でも、私たちの仲間ではなかったので、すぐにやめさせました。」(38節LB)

するとイエス様は驚くことにこう言われました。

やめさせることはありません。わたしの名によって奇跡を行いながら、そのすぐあとで、わたしに逆らう者はいないのですから。わたしたちに反対しない者は、味方なのです。よく言っておきますが、あなたがたがキリストの弟子だと知って、水一杯でも飲ませてくれる人は、必ず報いを受けます。」(39-41節)

キリスト教会は残念ながらこのイエスの真意を心に留めることなく些細な違いのゆえに分裂を繰り返し、対立してきました。

教団教派の仲間意識を超えて、私たちはキリストにあって互いを味方として認める必要があります。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう。

マルコ 8章

「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。」(8:2)

今日の箇所で、イエスは群衆が食べるものがないことに同情してこう言います。

この群衆に対して、私は腸のちぎれる想いがする。」(岩波訳)

イエスは、私たちが様々な問題に直面している姿を見て、「腸のちぎれる想いがする」と言われるお方です。

イエスは私たち一人一人のことを、心にかけていてくださいます。

三日間、教え続けただけでなく、その後、人々の具体的な必要を満たされました。

極端な人は「「食べ物」なんて、この世的なものは、どうでもいい」と言います。

しかし、イエスが主の祈りの中で

私たちの日ごとの糧(必要な糧)を、今日もお与えください。」(マタイ6:11)と祈るように教えられたように、イエスは私たちの日常の必要も気にかけておられます。

群衆は食べて満腹した。」(8節)とあるように、必要を全て満たしてくださいます。(ピリピ4:19参照)

マルコ 7章

「するとイエスは言われた。「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」」(7:27)

イエスのこのギリシヤ人の女の人に対する対応は、本当に冷たくて、私たちがイメージするイエスらしくない対応だと思います。

私たちが知らなくてはいけないことは、イエスは単なるミラクル・パフォーマー(奇跡を行う人)ではありません。

イエスの奇跡が意味したことは、旧約聖書で約束されてきた神の国がもたらされるということでした。

だから、今日の箇所で「まず」という言葉が示すことは、ユダヤ人以外の異邦人の時はやがて来ますが、今は、ユダヤ人への使命が優先しているということです。

イエスは、単に、奇跡を行うためではなく、聖書が預言した通りに、まず、「ユダヤ人の王」として、全ての人の救いのために死ぬために来られました。