ローマ 1章

「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」(16節)

「福音」とは、よきアドバイスではなく、よき知らせです。「こうしたらいいですよ」というアドバイスではなく、何かが起こったという知らせです。イエス・キリストの十字架の死と復活によって、何かが起こったことを知らせることです。それは、やがて、何かが起こることを知らせるものでもあります。

「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる。」とシオンに言う者の足は。」(イザヤ52:7)

というイザヤの預言が成就したということです。これは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人に、救いをもたらす知らせです。もうすぐ、キリストが再び来られ、神の国が完成する日が近いことを確信するからです。

ヨシュア 24章

「もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」(15節)

人は自分が選んだ神に仕えます。「神」という言葉で呼んでいなくても、自分が選んだ神を主人として仕えます。快楽を自分の神とする人は、人生の基準が、自分に快楽をもたらすものかどうかで判断します。自分の行動基準も、快楽をもたらすものが中心になります。そして自分の快楽を得るために働きます。人は結局、自分が選んだ神を主人として仕えているのです。もっとも、人は誰を神として仕えるかを選ぶことができます。イエス・キリストを自分の神として選び、仕えることもできます。ただし、私たちは自分で決断しなければなりません。
今日は主の日。主を選ぶことができますように。

ヨシュア 23章

「あなたがたは、十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。」(11節)

ヨシュアの遺言メッセージが記録されています。ヨシュアは、

「十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。」

と言いました。つまり、神を愛することは、意識的にすることだと言うのです。聖書が命じる「愛」は、私たちの気分とは関係ありません。単なる感情とは違います。「信仰」という「決断」を伴うものです。人は、気をつけなければ、愛し続けることは難しいということだと思います。私たちが愛し続けるために気をつけるべきことの一つは、コミュニケーションです。コミュニケーションを気をつけてとるようにしていなければ、愛し続けることは難しいと思います。神とのコミュニケーションは、祈りと聖書を読むことです。気をつけて、祈り、聖書を読まなければ、神を愛し続けることはできなくなります。「十分に気をつけて」、毎日聖書を読み、祈りましょう。

ヨシュア 22章

「祭司ピネハス、および会衆の上に立つ族長たち、すなわち彼とともにいたイスラエルの分団のかしらたちは、ルベン族、ガド族、およびマナセ族が語ったことばを聞いて、それに満足した。」(30節)

ヨシュアから励ましの言葉と祝福を受けて、自分たちの家族の待つヨルダン川の東側の相続地にルベン、ガド、マナセの半部族は帰りました。そして、そこに一つの記念の祭壇を築いたことが、誤解を生み、問題になります。同じ信仰に生きる者の間でも、良い意図をもってなしたことが、誤解を招くことは、いつの時代でも起こることです。ですから箴言にはこんな箇所もあります。

「よく聞きもしないで早合点すると、赤恥をかきます。」(18:13LB)

「最初に訴える者は、その相手が来て彼を調べるまでは、正しく見える。」(18:17)

私たちは何事も、表面だけ、また、他人から聞いたことだけで、判断しないように気をつける必要があります。

ヨシュア 21章

「主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した。」(45節)

神はイスラエルの人々との約束を守られました。約束どおり、彼らに約束の地を与え、勝利を与え、安住を与えられました。もちろん、イスラエルの人々もそのために様々な努力や犠牲を払いました。しかし、自分たちの努力によって成し遂げたと記録されていないところに意味があると思います。服部師はこう言っています。

「神の約束のゆえに、苦難や試練を経験したり、そのような苦難や試練の歴史を聞いてきた者にとっては、いつの時代にも、その約束の成就を見ることは感激以外の何ものでもない!」

「すべての良いことは」とあるように、神は真実なお方であり、悪いことではなく、良いことを実現してくださるお方です。

「それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11)

ヨシュア 20章

「イスラエル人に告げて言え。わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、のがれの町をあなたがたのために定め、あやまって、知らずに人を殺した殺人者が、そこに逃げ込むことのできるようにしなさい。その町々は、あなたがたが血の復讐をする者からのがれる場所となる。」(2,3節)

神様は、計画的でなく(事故など)、誤って人を殺してしまった場合、復讐を避けて逃げ込むことができる逃れの町を作るように命じました。つまり人間というのは、どんなに気をつけていても、過ちを犯す可能性がある存在であると認められているのです。失敗は終わりではありません。誰もがその可能性をもっています。ですから、過ちを犯した時、私たちはキリストの内に逃れることができます。キリストこそ私たちの逃れの町です。キリストは失敗をしたペテロのところに来て、もう一度チャンスを与えました。キリストは失敗したからと言って、私たちを切り捨てることはありません。

ヨシュア 19章

「この地について地域ごとに、相続地の割り当てを終えたとき、イスラエル人は、彼らの間に一つの相続地をヌンの子ヨシュアに与えた。彼らは主の命令により、ヨシュアが求めた町、すなわちエフライムの山地にあるティムナテ・セラフを彼に与えた。彼はその町を建てて、そこに住んだ。」(49,50節)

イスラエルの各部族の相続地の割り当てが終了しました。モーセの後継者として走り続けてきたヨシュアにとっては、大きな責任を果たし、ほっとしたことと思います。この箇所では、そんな指導者ヨシュアに、イスラエルの人々が相続地を贈ったということが記されています。鍋谷師はこんなことを言っています。

「普通、教会の指導者は、その犠牲と功績が大きくても、すぐ忘れ去られるが、ここに神ご自身示されたこのような例外例は、忘恩の現代人に対する大きな警告となっている。」

主のためにその人生を捧げられた教会の指導者たちを覚えたいと思います。

ヨシュア 18章

「そこで、ヨシュアはイスラエル人に言った。『あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで延ばしているのか。』」(3節)

イスラエルの人々は約束の地に入っていったものの、そこにはやはり多くの努力と時間が必要で、自分たちが考えていたように進展しない現実にある種の疲れを覚えていたのだと思います。服部師はこう言っています。

「華々しい人生の進展には積極的になりやすいが、神の導きを信じているイスラエルの民も、そして私たちクリスチャンも、周囲が遅々として進まない現実、地道で毎日が何か単なる繰り返しのように思われる生活事情の現実に直面すると、神の導き、神の約束を忘れてしまうのである。」

私たちは感謝の心を忘れずに、地道に聖書を読み、信仰をもって祈り、前進し続ける必要があります。時が良くても悪くても、福音を語り続けなければなりません。

ヨシュア 17章

「ヨセフ族はヨシュアに告げて言った。『主が今まで私を祝福されたので、私は数の多い民になりました。あなたはなぜ、私にただ一つのくじによる相続地、ただ一つの割り当て地しか分けてくださらなかったのですか。』ヨシュアは彼らに言った。『もしもあなたが数の多い民であるなら、ペリジ人やレファイム人の地の森に上って行って、そこを自分で切り開くがよい。エフライムの山地は、あなたには狭すぎるのだから。』」(14,15節)

ヨセフ族に与えられた相続地は、他のどの部族に与えられた相続地よりも広大でした。しかし、それでも彼らは不満でした。それに対してヨシュアははっきりと言います。自分たちは数が多いなどと、神の恵みを誇り、不満を持つのではなく、数が多いのだから自分たちで開拓すればよいと。受け身にならずに、自発的に行動すべきだと。絶対に成功しない人の特徴は、誰かのせいにすることと言われます。神様は自発的に行動することを待っておられます。今日は主の日。自発的にまず、主に礼拝を捧げましょう。

ヨシュア 16章

「このほかに、マナセ族の相続地の中に、エフライム族のために取り分けられた町々、そのすべての町々と、それに属する村々とがあった。」(9節)

マナセはヨセフの長男でした。しかし、次男のエフライムの方が優勢で、その部族もやはりエフライム族の方が優勢だったことがこの箇所から分かります。ヤコブが死の直前に、ヨセフが連れてきたマナセとエフライムに対して、自分の右手と左手を交差させて祝福を長男のマナセではなく、次男のエフライムに与えたということがその理由として考えられます。(創世記48章参照)神はどうして最初に生まれたマナセでなく、次男のエフライムが祝福されるのを許可されたのでしょうか?ジョン・コーソン師は、キリストを信じる前の自分ではなく、キリストを信じて新生(ボーン・アゲイン)した自分を神が祝福されるからではと言います。聖書は言います。「人は、新しく生まれ(ボーン・アゲインし)なければ・・・」(ヨハネ3:3)