pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

ヨハネ 9章

「弟子たちは彼についてイエスに質問していった。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。』」(2-3節)

長男が先天性の病気で生まれてきたとき、わたしは妊娠期間の自分のなにが悪くてこうなったのだろうと落ち込み、自分自身を責めました。とても辛い経験でした。この聖書の箇所にその後どれほど励まされたか分かりません。ここに出てくる両親も、本人も苦しんでいたと思います。しかも当時はこういった障害は罪の結果だと言う考え方があった様ですから、その心の痛みはいかばかりであったでしょう。しかしイエス様は、全く新しい視点を弟子たちに与えました。このマイナスに見えることも、主によってプラスとなることを人々は目の当たりにしたのです。主の御名を賛美します!

ヨハネ 8章

「イエスはまた彼らに語って言われた。『わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。』」(12節)

やみで行われていることが、光に照らされて明らかにされることはしばしば目にします。それは、組織であったり、個人であったり形は様々ですが、照らされたらまずいと思っているようなことが今もしあなた自身の人生にあるのであれば、イエス様はそのやみからあなたを自由にしてくださる方であることを知っていただきたいと思います。『罪を行っているものはみな、罪の奴隷です。』ともイエス様は語っていますが、事実暗闇で行っていることにわたしたちは縛られ、自由を奪われて神様の御顔を避けて生きていることがあるのです。いま、あなたはどこにいますか?自由の中を歩んでいますか。もしやみの中を歩んでいるように感じるのなら、今すぐにイエス様の下に立ち返りましょう。主は待っておられます。

ヨハネ 7章

「自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし、自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、そこには不正がありません。」(18節)

バプテスマのヨハネは、イエス様に言及してこう言いました。『あの方は盛んになり、わたしは衰えなければなりません。』
イエス様の生き方に習おうとするなら、わたしたちは人間が本来持っている自己中心や名誉欲といったものと戦わなくてはならないことに気づきます。数年前にある大きな聖会に参加した時、いくつかの教会が賛美を導きました。フルバンドで、元気に演奏したある教会の青年リーダーが、自分たちの教会と牧師がどれほど素晴らしいかということを熱く語っていました。その話を聞いているうちに、イエス様への思いがどんどん消されていくのを感じて本当にがっかりしました。わたしたちが目立っても何の意味もありません。教会はイエス様が目立っている場所であるべきです。

ヨハネ 6章

「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えて下さったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。」(38‐39節)

神様の御心をわたしたちはどのようにして知ることが出来るでしょうか。聖書を読むと、イエス様が一人さびしい場所で祈っておられた、という記事がいくつも出てきます。そこは、雑音のない空間。神様と一対一で過ごす特別な時間であったと思います。わたしたちが生きる現代は、音を遮断することがとても難しいと思います。けれども様々な情報や声があふれる中で時間を取り、静まって神様の御前に出ることができなければ、御心が分かるはずがありません。御心や導きが分からない、と嘆く前にまず、主との静かな時間を取ることをお勧めします。

ヨハネ 5章

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(39‐40節)

どんなに聖書を勉強しても、イエス様の元に行かなければ本当の意味するところを知ることはできません。しかし、多くの聖書学者といわれる人々は、信仰を抜きにして学問的に、あるいは歴史的に、神学的に聖書をとらえようとしています。時間の無駄では?といつも思います。事実、イエス様と同じ時代、同じ時間を過ごしていた人々の中にも、イエス様を見ることなく、メッセージの本質に耳を傾けることなく、十字架につけろ、と叫んだ人々もいたのです。皆さんは聖書をどのように位置付けているのでしょうか。旧約から新約を通して貫かれている『イエス・キリスト』に目を向けることができますように。

ヨハネ 4章

「イエスは答えて言われた。『この水を飲むものはだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲むものは誰でも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』」(13‐14節)

わたしたちの欲望、欲求は留まる事を知りません。とてもほしかった何かを手に入れたら、あっという間にまた別の欲しいものを見つけるのではないでしょうか。愛に関しても同じことが言えると思います。愛を求めてさまよっている人がなんと多いことでしょうか。ある人は、人間の心の中には鍵の形をした空洞がある、と言いました。その空洞にぴったりとはまる鍵は、イエス様だけが持っているのだ、と。それを見つけるまで、沢山の別のものでその穴をふさごうとしても無理なのだ、と。イエス様に出会い、渇くことのないいのちの泉がこころにわき出ることを、今、祈りましょう。

ヨハネ 3章

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(16-17節)

幼いころ、神様という存在は「バチ」を与える怖いものだと思っていました。そのためにいつも見張っている。失敗したらダメなんだ、と。けれども神様がこんな自分に目を留め、関心を持っておられ、愛して下さっていることを知った時に私の人生は変わりました。神様の愛は、いま、このデイリーデボーションを読んでおられるあなたにも、もちろん、注がれています。目を閉じで、神様の声に耳を傾けてみてください。あなたがここにいることを喜び、人生を導いて下さる方が、今日も共におられます。

「主よ。きょうも私の歩みを助けてください。」

祈りを持って一日を始めましょう。

ヨハネ 2章

「宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、― しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。 ―」(9節)

奉仕することの素晴らしさは、奉仕した者だけが知ることができる世界があるということです。クリスチャンは皆、奉仕者です。講壇の上に立つ人だけが奉仕者ではありません。人に気づかれないような、水をくむような奉仕が教会にはあります。誰にも評価されないように感じる奉仕であっても、奉仕をしたものでなければ分からない世界があります。もっとも、この箇所の水をくんだしもべたちは、どうして、イエス様が水がめに水を満たすように言われたかは分からなかったと思います。しかし、みことばに従って行動した時、水がぶどう酒に変わるという奇跡を体験しました。今はたとえ分からなくても、みことばに従って、主イエス・キリストのからだである教会に仕えていくことができますように。

ヨハネ 1章

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(14節)

「私たちの間に住まわれた」と訳された言葉は、「幕屋を張られた」という意味です。旧約聖書の出エジプト記に、イスラエルの民が、エジプトを脱出して、荒野を旅して約束の地へ向かったことが記録されています。彼らが荒野を乗り越えることができた理由は、彼らの中心にはいつも、「幕屋」があったからです。「幕屋」が意味したことは、彼らと共に神がおられるということでした。出エジプト記にこう記されています。

「旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからである」(出エジプト40:38)

イエス・キリストは、これと同じように、私たちと共におられるため、私たちの幕屋となるべく、この地にお生まれになられました。

レビ記 27章

「もしその者が貧しくて、あなたの評価に達しないなら、その者は祭司の前に立たせられ、祭司が彼の評価をする。祭司は誓願をする者の能力に応じてその者の評価をしなければならない。」(8節)

定められた評価に達しない人は、祭司に申し出るように求められています。ですから、今、自分の価値を見失っているならば、私たちの大祭司、イエス・キリストに申し出るべきです。自分の能力の乏しさ、自分の存在意義に苦しんでいるならば、大祭司、イエス・キリストの評価を受けるべきです。聖書は言います。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(へブル4:15,:16)

イエス・キリストの評価は、

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」