マルコ 5章

「イエスはその話をそばで聞き、会堂司に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」」(36節)

「イエスはその話をそばで聞き」という箇所を、口語訳では「その話している言葉を聞き流して」、新改訳二〇一七の脚注では「無視して」と訳しています。

「現実」を直視することは大切なことです。しかし、イエス様は、時として私たちに「超現実」に生きることを求められます。イエス様は、ヤイロの娘が死んでしまった」という報告に対して、「聞こえないふり」をしました。そして、ただ、こう言われました。

恐れてはいけない。ただ、信じ続けなさい!
神の御業を体験するためには、時として「この世の常識」を聞き流して、ただ、イエス様を信頼する必要があります。

不信仰なことばを聞き流し、恐れずに、信仰の言葉、神のみことばに生きていくならば、必ず、神さまの栄光を拝する時が来ます。

見ゆるところによらずして、信仰によりて歩むことができますように。

マルコ 4章

「夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。」(27節)

今日の箇所を直訳しますとこうなります。

寝て、起きて、夜で、朝で、種は芽を出し、成長する、どのようにしてかは、彼は分からない。

ユダヤ人の一日は日没から始まります。

ですから、起きる前に寝ます。

朝の前に夜なのです。

朝の前に夜が来るように、誰の人生にもマイナスに見える出来事は、必ず起こります。

しかし、それは悲劇の始まりではなく、神の御業の始まりです。

マイナスは必ずプラスになります。

どのように成長するかは分かりません。

どのようにプラスになるかは分かりません。

しかし、神はすべてのことを働かせて益として下さるお方です。

イエス様はご自身のガリラヤでの働きを「小さな始まりだとさげすんではならない」と警告しました。

私たちは神の働きを過小評価してはいけません。

マルコ 3章

「このように言われたのは、彼らが、「イエスは汚れた霊につかれている」と言っていたからである。」(30節)

織田昭師はこう言います。

イエスを目の前にして、『悪魔だ』という激しい拒否反応を示した。これはしかし、神の救いの手を見た時の、罪の中に居座りたい者の必死の逆襲なのです。このまま自分の主権と主体性を守りたい。このままでいい。その時、神の霊は悪魔に見える。無気味なベルゼブルの手に見えるのです。『私に触るな。このまま、そっとしておいてくれ』と。

問題はイエス様の言葉とその御業の中に「何を見るか?」ということです。

この箇所が私たちに伝えていることは、イエス・キリストは「まあまあいい人」とはならないということです。

「神の御国」をもたらした方か、危険な気が狂った人かのどちらかでしかありません。

私たちは、自分の生き方を変えたくないと遠ざかるか、神のあわれみに応答してひざまずくかです。

今日は主の日。ともに主に礼拝を捧げましょう。

マルコ 2章

「それで多くの人が集まったため、戸口のところまで隙間もないほどになった。イエスは、この人たちにみことばを話しておられた。」(2節)

イエス様は集まってきた人たちに

「みことばを話しておられた」

と聖書は言います。

これが、自然なことです。

聖書は、誤りなき神のことばです。

ですから、

「イエス・キリストの家でもある、キリストの教会に行ってみたら、聖書のみことばが語られていた」

というのが、教会のあるべき姿です。

教会の頭であり、

私たちのただ中におられるイエス・キリストは、

今も、

この聖書のみことばを通して、

私たちに語り、教え、導いてくださっています。

イエス様が「家におられることが知れ渡った。」ので、「多くの人が集まったため、戸口のところまで隙間もないほどになった。」と言います。

教会は、イエス様がおられる場所です。

そのことを知るならば、多くの人が集まって、隙間もないほどになることでしょう。

その日を信じて祈り、伝えていきましょう。

マルコ 1章

「さて、ツァラアトに冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願した。「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。」(40,41節)

「ツァラアト」は、何らかの原因により、人体や物の表面が冒された状態で、特定の病名に結びつけられない病気です。感染症なので隔離されていました。イエス様は誰も触れることのない、このツァラアトに冒された人に手を伸ばして触られました。「お心一つで」と訳された単語は、「意志」を表明しますので、「みこころならば」と訳すことができます。ですから、イエス様の言葉はこう訳すことができます。「私のみこころだ。きよくなりなさい。」聖書は言います。

「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」(1ヨハネ5:14)

マタイ28章

「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」(18節)

イエス様は弟子たちに、

「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」(マタイ6:10)

と祈るように教えられました。そして、私たちのために十字架で死に、葬られ、よみがえられました。復活されたイエス様は、みこころが天で行われるように、地でも行われるためのすべての権威が与えられていることを弟子たちに告げました。そして、あらゆる国の人々にこの知らせを伝えるように命じました。つまり、イエス・キリストは今も生き続けておられます。天に昇り、全能の父なる神の右に座しておられると言う意味は、天においても、地においてもすべての権威をもつ、王座に着かれたということです。このお方が言われます。

「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(20節)

マタイ27章

「そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して、言った。「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」しかし、彼らは言った。「われわれの知ったことか。自分で始末することだ。」」(3,4節)

当時の宗教指導者たちは、ユダをそそのかし、間違った方向に彼を導きました。しかし、その責任はとってはくれませんでした。結局は、人は自分で自分の蒔いた種を刈り取るようにさせられてしまいます。日々、様々なメディヤを通して流れてくる情報も、たとえ私たちを誤った方向に導いたとしても、責任をとってはくれません。ですから、日々生ける神、イエス様の導きを求めて祈りつつ生きていく必要があります。自分で聖書のみことばを開いて、聖霊様の導きを求めて生きていく必要があります。イエス様が間違えることはありませんし、私たちを突っぱねることもありません。

マタイ26章

「まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」(13節)

イエス様に高価なものを捧げることは断じて無駄なことではありません。しかし、「非常に高価な香油」をイエス様の頭に注いだ女性に対して、弟子たちは「何のために、こんな無駄なことをするのか。」と憤慨しました。弟子たちは、「この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」と言いますが、そのように批判する人が、本当に、そのすべてを慈善のために捧げる気持ちがあるかどうかもわかりません。そもそも、王の王、主の主なるイエス・キリストに礼拝を捧げるために、惜しみなく資源を用いることをもったいないと言う姿勢は、聖書的ではありません。最高のものをイエス様に捧げたいと言うこの女性の姿勢を、私たちはイエス様が言われたように語る必要があります。

マタイ25章

「主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」(21節)

「それぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。」(15節)とあるように、人にはそれぞれ、賜物が与えられています。その賜物で商売をしたとありますように、与えられた賜物をどのように用いるかは私たち一人一人に任されています。預けられたタラントの額はそれぞれ違いますから、互いに比較することには意味はありません。大事なのは、神の御前に出た時に、「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と言ってもらえるかどうかです。「地の中に隠しておきました。」(25節)という言い訳は通じません。神様が造られた目的に生きることができますように。

マタイ24章

「ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(36節)

イエス様は、この世の終わりがいつなのかは、だれも知らないとはっきりと言われました。ですから、「知っている」という人は偽預言者です。教会はその日がいつなのかは言及してはいけないのです。その日がいつなのかはだれも分からないので、私たちは日々、良い緊張感の中で生きることができます。いつ、キリストが再び来られても良いように一日、一日を生活することを聖書は勧めています。キリストは言います。

「ちょうど、ノアの時代のように。当時の人々は洪水が襲う直前まで、宴会だ、結婚式だと陽気に楽しんでいました。何もかも押し流されてしまうまで、洪水のことなど信じようとしなかったのです。わたしが来る時も、それと同じです。」(同37‐39LB)

今日は主の日。ともに主に礼拝を捧げましょう。