マルコ 15章

「キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」また、一緒に十字架につけられていた者たちもイエスをののしった。」(15:32)

人々はイエス様が十字架につけられている理由を理解していませんでした。

あれだけ多くの奇蹟を起こされたイエス様がどうしてつけられたままか考えもしませんでした。

イエス様を十字架につけていたのが、釘ではなく、私たちに対する愛であったことを。

そして、自分たちの思い通りに動いてくれない神は信じられないと言いました。

私たちも、同じようなところがあるのではないでしょうか。

また、「こうしたら信じてやる」という言葉にも私たちは惑わされないように気をつける必要があります。

イエス様はそのような求めに対しては、反応をされず、聞き流さました。

私たちもそのような人のことばに操られるのではなく、神のみこころを行うことに心を留めていく必要があります。

マルコ 14章

「食事をしておられると、ある女の人が、純粋で非常に高価なナルド油の入った小さな壺を持って来て、その壺を割り、イエスの頭に注いだ。」(14:3)

「非常に高価なナルド油」というのは、一デナリが当時の一日分の労賃に相当するので、一年分に相当する額(5節)でした。

それを惜しげもなくイエス様に注いだという意味は、それほどの価値をイエス様に見出したという意味です。

東方の博士たちも、同じように黄金、乳香(香料の一種)、没薬(天然ゴムの樹脂で、古代の貴重な防腐剤)を贈り物として生まれたばかりの赤子のイエス様に捧げました。

この時、

「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。」(4節)

と憤慨し、捧げた女性を責めた弟子たちは、この後、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。

「貧しい人たちに施しができたのに」というのは口先だけでした。

イエス様を、何よりも価値のある方として、口先だけでなく、行動で表すことができますように。

マルコ 13章

「ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。父だけが知っておられます。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。」(13:32,33)

聖書は明確にイエス・キリストの再臨を預言しています。

私たちは、いつ、イエス・キリストが再臨されても

「ハレルヤ!」

と言える生活を心がける必要があります。

問題は、

「偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちを惑わそうと、しるしや不思議を行います。」(22節)

と警告しているように、私たちを惑わす存在です。

「自分こそ再臨のキリストだ」

という人がいれば、それは、どんな人であっても「偽キリスト」です。

イエス様が再臨するときは、

「偉大な力と栄光とともに来るのを見ます。」(26節)

とあるように明確な再臨だからです。

マルコ 12章

「イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」」(12:29-31)

律法学者の「すべての中で、どれが第一の戒めですか。」という問いに対して、イエス様は、

唯一の神を愛すること、

そして、

隣人を愛すること

を挙げました。

 

私たちの教会は

「これらよりも重要な命令は、ほかにありません」

とイエス様が言われたことを真剣に受け止め、

神を愛すること、

互いに愛し合うこと、

私たちの住むこの世界を愛すること

を最優先の目標として掲げ、活動しています。

「聞け、イスラエルよ。」

は申命記6:4からの引用です。

私たちはこの唯一の神が、父、子、聖霊の三位一体の神であると信じています。

マルコ 11章

「また、祈るために立ち上がるとき、だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。」(11:25)

効果的な祈りをするためには、誰かに対して恨んでいることがあるなら、赦す必要があります。

憎しみを棄てる必要があります。

神がイエス・キリストの十字架の御業のゆえに自分のことを赦してくださったことを真剣に受け止め、赦しに生きる必要があります。

その時、私たちは効果的な祈りの生活を送ることができます。

私たちはイエス様の御名によって祈ります。

そもそもイエス様が赦してくださったように赦すことができなければ、どうして、イエス様の御名によって祈ることができるでしょうか。

イエス様はこのように祈るように教えられました。

「私たちの罪をお赦しください。私たちも、私たちに罪を犯す者を赦しました。」(マタイ6:12LB)

マルコ 10章

「イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」」(10:27)

弟子たちの

「それでは、だれが救われることができるでしょう。」

という問いに対するイエス様の答えが

「神にはどんなことでもできるのです。」

でした。

つまり、

救いは人間の業ではなく神の恵みの世界であるということです。

人はどんなに努力して修行をし、善行を積んでも、救いの基準に到達することはできません。

それは人にはできないことです。

しかし、神にはできます。

神は、ひとり子、イエス・キリストを与えてくださり、信じる者を救う道を開いてくださいました。

神にはどんなことでもできるということを、私たちはイエス・キリストの十字架と復活に見ることができます。

人にはできないことも神にできないことはありません。

今日は主の日。ともに主に礼拝を捧げましょう。

マルコ 9章

「するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」」(24節)

私たちは、様々な壁にぶつかり、困難に直面し、辞めたくなる時があります。

逃げ出したくなる時があります。

しかし、膝をかがめ、

「信じます。不信仰な私をお助けください。」

と祈り、

叫ぶ中で、

不思議と不可能に思えたその山を登っている自分に気づくことがあります。

信仰生活というのは、残念ながら、楽なものではありません。

段々、楽になっていくというものでもありません。

年々、神様からの新しい力が必要であることを感じます。

使徒パウロは、晩年、弟子のテモテにこう言いました。

「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」(Ⅱテモテ4:7)

「信仰は守り通すものなのだ」と、次世代のテモテを、パウロは諭します。

この手紙を読んだテモテは、こう祈ったかもしれません。

「主よ!信じ続けます。不信仰な私をお助けください。」

マルコ 8章

「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。」(35節)

メッセージ訳では今日の箇所をこのように訳しています。

自己啓発(セルフヘルプ)は、実際のところ助けにはならない。自己犠牲こそわたしの道、あなた自身を救い、本当の自分を見つける、唯一の道。

逆説的ですが、人は自分に固執すると行き詰まってしまいます。

自己啓発の問題はこの「私」中心の視点です。

人生は「私」が中心ではありません。

ですから、自分の内側を探ってみたところで、人生の目的を見出すこともできません。

「私」から出発する時、人生は迷宮入りします。

自己実現は人生の目的とはなり得ないからです。

私たちは、自分で自分を造ったわけではありません。

私たちは、神によって、神のために造られました。

ですから、神の目的のために人生を捧げる時に、自分が生きている意味を見出すことができます。

マルコ 7章

「そして天を見上げ、深く息をして、その人に「エパタ」、すなわち「開け」と言われた。」(34節)

指を両耳に差し入れ、唾をつけた手でその人の舌に触り、天を見上げて、深く息をして、「開け」と言ったとあります。

この一連の動作は、当時の人々にとって、特異ではない医療行為だったようです。

もっとも注目すべきは、イエス様が「「エパタ。」、「開け。」と言われた。」という箇所です。

イエス様の日常語、アラム語です。

初代教会で一般的に使用されていたのだと思われます。

原文は命令形ですが受動態です。

つまり、「開かれなさい!」。

神的受動態と呼ばれ、主語は「神」です。

「人にはできないことも神にはできる」という信仰をもって、初代教会の人たちは、「エパタ!」、「開かれなさい!」と祈っていたということです。

神は今も生きて、働かれておられます。

私たちの想定を超えて、素晴らしい御業をなされる方です。

私たちも信仰をもって、「エパタ!」と信仰の宣言をしましょう!

マルコ 6章

「イエスは舟から上がって、大勢の群衆をご覧になった。彼らが羊飼いのいない羊の群れのようであったので、イエスは彼らを深くあわれみ、多くのことを教え始められた。」(34節)

群衆をご覧になったイエス様は、岩波訳では

腸(はらわた)のちぎれる想いに駆られた

と訳しています。

単に「かわいそう」に思ったというレベルではありません。

心の底からいたたまれない思いになったのです。

そのイエス様がされたことは「教え」ることでした。

教会がまず提供すべきことは、イエス様の教え、聖書のみことばを教えることです。

「神のことば」には力があります。

人がもっとも必要としているものは「神のことば」です。

「キリストのからだ」であるはずの教会が「神のことば」である聖書を教えなければ、どこが聖書を教えるのでしょうか?

はらわたのちぎれる想いに駆られて教えられたイエス様は、今もご自身のからだである教会を用いて、人々に聖書のみことばを教えられます。