創世記 40章

「ところが献酌官長はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れてしまった。」(23節)

ヨセフは献酌官長の夢を解き明かし、言いました。

「あなたがしあわせになったときには、きっと私を思い出してください。私に恵みを施してください。私のことをパロに話してください。この家から私が出られるようにしてください。」(14節)

しかし、彼はしあわせになったのに、ヨセフのことを忘れてしまいました。二年間、忘れていました。忘れてしまったがゆえに神の御業を遅らせてしまうことがあるのでしょうか。ヨセフはきっと、献酌官長が何かをしてくれると期待して神に祈っていたと思います。しかし、天は沈黙し、彼の希望は途絶えてしまったかのように見えました。しかし、神のご計画は終わっていませんでした。天が沈黙を保っているように感じるからといって、神が私たちを見捨てられたと考えるべきではありません。神のご計画は終わっていません。

創世記 39章

「監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。」(23節)

ヨセフは無実の罪で捕えられ、監獄に入れられてしまいます。しかし、聖書は言います。

「しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。」(21節)

神は監獄の長がヨセフに好意をもつようにされたと言います。そして、ヨセフがすることは何をしても成功させてくださったと言います。聖書は明確にその理由を、主が彼と共にいたからだと言います。聖書の神は祝福の神です。人々からの好意を受けることができるようにしてくださるお方です。何をしても成功するようにしてくださるお方です。ヨセフと共におられた主は、今も、イエス・キリストを信じる者と共におられます。

創世記 38章

「そのとき、タマルに、「ご覧。あなたのしゅうとが羊の毛を切るためにティムナに上って来ていますよ。」と告げる者があった。」(13節)

興味深いことに、新約聖書のマタイの福音書一章のイエス様の系図に、このタマルが登場します。

「ユダはタマルによってペレツとゼラを」(1:3新共同訳)。

タマルの次に出てくる女性は、遊女と紹介されたラハブ、その次は、モアブという異邦人のルツ、次にダビデがウリヤから奪ったバテシェバ。マタイの福音書に出てくる四人の女性は、ユダヤ人ではなく、この箇所のように隠したくなるような過去をもっていた女性たちでした。しかし、ここに神の恵みがあります。どんなに恥ずかしい過去があっても、神は私たちを用いることができないというわけではありません。逆に、私たちを赦し、きよめ、神の恵みの現われとして、用いてくださいます。

創世記 37章

「見ろ。あの夢見る者がやって来る。さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか。」(19,20節)

ヨセフは「夢見る者」と呼ばれ、迫害されました。もっともヨセフが未熟で、配慮なしに語ったことや、また、父親の偏愛がその理由だったと思います。兄たちはヨセフを殺して、夢の実現を阻もうとしました。彼らはヨセフを殺しはしませんでしたが、ミデヤン人の商人に売り飛ばしてしまいました。しかし、ヨセフの夢の実現を阻むものは何もありませんでした。神の夢は時が来れば実現します。夢を阻もうとした兄たちはへりくだらされ、ヨセフはその兄たちに言います。

「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。」(50:20)

神に不可能はありません。

「神の夢を見る者として生きていくことができますように。」

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創世記 36章

「これはエサウ、すなわちエドムの歴史である。」(1節)

この箇所の重要なポイントは、「エサウ」は「エドム」だということです。ヘロデ王がエドム人だったということも重要ですが、この民族の存在自体が、イスラエルの歴史に密接に関係しています。旧約聖書のオバデヤ書は、エドムについての預言です。

「オバデヤの幻。神である主は、エドムについてこう仰せられる。私たちは主から知らせを聞いた。使者が国々の間に送られた。「立ち上がれ。エドムに立ち向かい戦おう。」」(1節)

エドムが裁かれる理由はこのように記されています。

「あなたの兄弟の日、その災難の日を、あなたはただ、ながめているな。ユダの子らの滅びの日に、彼らのことで喜ぶな。その苦難の日に大口を開くな。」(12節)

エサウはヤコブの兄でした。エドムはイスラエルにとって兄のような存在のはずでした。しかし、イスラエルが危機的な時、助けようとしなかったことが裁きの対象だと言います。

創世記 35章

「彼女が死に臨み、そのたましいが離れ去ろうとするとき、彼女はその子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた。」(18節)

ヤコブの妻のラケルは、たいへんな難産だったので、生まれた子をベン・オニ、「私の苦しみ(悲しみ)の子」と呼びました。ところが父親のヤコブは、ベニヤミン、「私の右手の子」と名づけました。新共同訳では「幸いの子」と訳しています。ラケルは「苦しみの子」だと言ったのに、ヤコブは、「それは違う。幸いの子だ。」と言ったのです。私たちはヤコブの信仰に学ぶ必要があります。ヤコブは苦しみは幸いに変わると告白したのです。誰が何と言おうと、私たちも信仰をもって宣言しましょう。「神様を愛し、神様のご計画どおりに歩んでいるなら、自分の身に起こることはすべて、益となることを知っているのです。」(ローマ8:28LB)

創世記 34章

「レアがヤコブに産んだ娘ディナがその土地の娘たちを尋ねようとして出かけた。」(1節)

どうして神はこんな記事を入れたのだろうかと思うほど、悲しくなるような出来事がこの章に記されています。しかし、その悲劇の始まりは、ディナというヤコブの娘がその土地の娘たちを尋ねようとしてでかけたことでした。その土地とあるように、ヤコブたちが、その土地にとどまってしまったことから問題が始まっています。35章を見ると、元来、ヤコブは天のはしごを見た、ベテルまで戻るべきでした。しかし、ヤコブたちは、疲れからかベテルまで行かずにシェケムにとどまってしまいました。行くべきところに行かなかったことによって悲劇が起こったという記事は、聖書の他の箇所でも見ることができます。

今日は主の日、イエスの御名によって教会に集まり礼拝を捧げる日です。

創世記 33章

「ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをした。エサウは彼を迎えに走って来て、彼をいだき、首に抱きついて口づけし、ふたりは泣いた。」(3,4節)

20年間エサウとヤコブは絶縁状態でした。ところが、エサウは彼を受け入れました。人間関係は回復することが可能です。関係回復のためにヤコブがしたことは、まず祈ることでした。(32章9節以下参照)ヤコブは、与える性格ではありませんでした。しかし、祈った後、ヤコブはエサウに贈る贈り物を決めました。祈りは私たちを変えます。次に、ヤコブはエサウに対して尊敬心をもって接しました。尊敬心をもって接していくなら、相手も尊敬心をもって接してくださいます。祈りつつ、尊敬心をもって相手と接するならば、神がその関係をいやしてくださいます。

創世記 32章

「彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものためにびっこをひいていた。」(31節)

ヤコブは神の御言葉を握って、約束の国に戻ってきました。しかし、自分がだました兄のエサウに殺されると恐れていました。ヤボクの渡しのところで、家族を渡した後、ヤコブは自分だけそこに残りました。ヤコブはそこで天の使いと格闘します。ヤコブの自我(エゴ)があまりにも強かったため、天の使いも彼を負かすことができません。それで、ヤコブのもものつがい、すなわち、関節をはずしました。彼は片足を引きずらなければならなくなりました。もう誰からも逃げられなくってしまったのです。どう見ても負けたのはヤコブの方ですが、御使いはヤコブが勝ったと言いました。本当の勝利は、砕かれることによってもたらされるということだと思います。それが、たとえ足をひきずる人生を意味していたとしても。

創世記 31章

「主はヤコブに仰せられた。『あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる。』」(3節)

神はヤコブに約束の地に戻るようにおっしゃられました。叔父のラバンも、ラバンの息子たちも、ヤコブに対して悪口を言い始めていました。しかし、彼は居心地が悪くなったから帰ることにしたのではなく、神のみことばが来たから帰ることを決断しました。これは大切なことです。神が私たちにみことばを与えない限り、私たちは信仰の冒険に踏み出すべきではありません。しかし神のみことばがあるならば、自分の感情ではなく、神のみことばによって、信仰の冒険に踏み出すべきです。神が私たちを導かれるる時、神は必ず私たちが立つことができる聖書のみことばも与えてくださいます。聖書は言います。
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105)