創世記 38章

「そのとき、タマルに、「ご覧。あなたのしゅうとが羊の毛を切るためにティムナに上って来ていますよ。」と告げる者があった。」(13節)

興味深いことに、新約聖書のマタイの福音書一章のイエス様の系図に、このタマルが登場します。

「ユダはタマルによってペレツとゼラを」(1:3新共同訳)。

タマルの次に出てくる女性は、遊女と紹介されたラハブ、その次は、モアブという異邦人のルツ、次にダビデがウリヤから奪ったバテシェバ。マタイの福音書に出てくる四人の女性は、ユダヤ人ではなく、この箇所のように隠したくなるような過去をもっていた女性たちでした。しかし、ここに神の恵みがあります。どんなに恥ずかしい過去があっても、神は私たちを用いることができないというわけではありません。逆に、私たちを赦し、きよめ、神の恵みの現われとして、用いてくださいます。

創世記 37章

「見ろ。あの夢見る者がやって来る。さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか。」(19,20節)

ヨセフは「夢見る者」と呼ばれ、迫害されました。もっともヨセフが未熟で、配慮なしに語ったことや、また、父親の偏愛がその理由だったと思います。兄たちはヨセフを殺して、夢の実現を阻もうとしました。彼らはヨセフを殺しはしませんでしたが、ミデヤン人の商人に売り飛ばしてしまいました。しかし、ヨセフの夢の実現を阻むものは何もありませんでした。神の夢は時が来れば実現します。夢を阻もうとした兄たちはへりくだらされ、ヨセフはその兄たちに言います。

「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。」(50:20)

神に不可能はありません。

「神の夢を見る者として生きていくことができますように。」

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創世記 36章

「これはエサウ、すなわちエドムの歴史である。」(1節)

この箇所の重要なポイントは、「エサウ」は「エドム」だということです。ヘロデ王がエドム人だったということも重要ですが、この民族の存在自体が、イスラエルの歴史に密接に関係しています。旧約聖書のオバデヤ書は、エドムについての預言です。

「オバデヤの幻。神である主は、エドムについてこう仰せられる。私たちは主から知らせを聞いた。使者が国々の間に送られた。「立ち上がれ。エドムに立ち向かい戦おう。」」(1節)

エドムが裁かれる理由はこのように記されています。

「あなたの兄弟の日、その災難の日を、あなたはただ、ながめているな。ユダの子らの滅びの日に、彼らのことで喜ぶな。その苦難の日に大口を開くな。」(12節)

エサウはヤコブの兄でした。エドムはイスラエルにとって兄のような存在のはずでした。しかし、イスラエルが危機的な時、助けようとしなかったことが裁きの対象だと言います。

創世記 35章

「彼女が死に臨み、そのたましいが離れ去ろうとするとき、彼女はその子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた。」(18節)

ヤコブの妻のラケルは、たいへんな難産だったので、生まれた子をベン・オニ、「私の苦しみ(悲しみ)の子」と呼びました。ところが父親のヤコブは、ベニヤミン、「私の右手の子」と名づけました。新共同訳では「幸いの子」と訳しています。ラケルは「苦しみの子」だと言ったのに、ヤコブは、「それは違う。幸いの子だ。」と言ったのです。私たちはヤコブの信仰に学ぶ必要があります。ヤコブは苦しみは幸いに変わると告白したのです。誰が何と言おうと、私たちも信仰をもって宣言しましょう。「神様を愛し、神様のご計画どおりに歩んでいるなら、自分の身に起こることはすべて、益となることを知っているのです。」(ローマ8:28LB)

創世記 34章

「レアがヤコブに産んだ娘ディナがその土地の娘たちを尋ねようとして出かけた。」(1節)

どうして神はこんな記事を入れたのだろうかと思うほど、悲しくなるような出来事がこの章に記されています。しかし、その悲劇の始まりは、ディナというヤコブの娘がその土地の娘たちを尋ねようとしてでかけたことでした。その土地とあるように、ヤコブたちが、その土地にとどまってしまったことから問題が始まっています。35章を見ると、元来、ヤコブは天のはしごを見た、ベテルまで戻るべきでした。しかし、ヤコブたちは、疲れからかベテルまで行かずにシェケムにとどまってしまいました。行くべきところに行かなかったことによって悲劇が起こったという記事は、聖書の他の箇所でも見ることができます。

今日は主の日、イエスの御名によって教会に集まり礼拝を捧げる日です。

創世記 33章

「ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをした。エサウは彼を迎えに走って来て、彼をいだき、首に抱きついて口づけし、ふたりは泣いた。」(3,4節)

20年間エサウとヤコブは絶縁状態でした。ところが、エサウは彼を受け入れました。人間関係は回復することが可能です。関係回復のためにヤコブがしたことは、まず祈ることでした。(32章9節以下参照)ヤコブは、与える性格ではありませんでした。しかし、祈った後、ヤコブはエサウに贈る贈り物を決めました。祈りは私たちを変えます。次に、ヤコブはエサウに対して尊敬心をもって接しました。尊敬心をもって接していくなら、相手も尊敬心をもって接してくださいます。祈りつつ、尊敬心をもって相手と接するならば、神がその関係をいやしてくださいます。

創世記 32章

「彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものためにびっこをひいていた。」(31節)

ヤコブは神の御言葉を握って、約束の国に戻ってきました。しかし、自分がだました兄のエサウに殺されると恐れていました。ヤボクの渡しのところで、家族を渡した後、ヤコブは自分だけそこに残りました。ヤコブはそこで天の使いと格闘します。ヤコブの自我(エゴ)があまりにも強かったため、天の使いも彼を負かすことができません。それで、ヤコブのもものつがい、すなわち、関節をはずしました。彼は片足を引きずらなければならなくなりました。もう誰からも逃げられなくってしまったのです。どう見ても負けたのはヤコブの方ですが、御使いはヤコブが勝ったと言いました。本当の勝利は、砕かれることによってもたらされるということだと思います。それが、たとえ足をひきずる人生を意味していたとしても。

創世記 31章

「主はヤコブに仰せられた。『あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる。』」(3節)

神はヤコブに約束の地に戻るようにおっしゃられました。叔父のラバンも、ラバンの息子たちも、ヤコブに対して悪口を言い始めていました。しかし、彼は居心地が悪くなったから帰ることにしたのではなく、神のみことばが来たから帰ることを決断しました。これは大切なことです。神が私たちにみことばを与えない限り、私たちは信仰の冒険に踏み出すべきではありません。しかし神のみことばがあるならば、自分の感情ではなく、神のみことばによって、信仰の冒険に踏み出すべきです。神が私たちを導かれるる時、神は必ず私たちが立つことができる聖書のみことばも与えてくださいます。聖書は言います。
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105)

創世記 30章

「ラケルは自分がヤコブに子を産んでいないのを見て、姉を嫉妬し、ヤコブに言った。『私に子どもを下さい。でなければ、私は死んでしまいます。』ヤコブはラケルに怒りを燃やして言った。『私が神に代わることができようか。」(1,2節)

ラケルは、神ではなく、ヤコブに子供を与えるように求めました。私たちも自分たちの必要を、ラケルのように、神ではなく、人に求めてしまうことがあります。よく考えますと、求められる方も大変です。なんとか期待に答えたいと奮闘するのですが、神の代わりを務めることが出来る人はいないからです。神ではありませんから、求めるものを何でも提供できるわけではないからです。教会も、クリスチャンも、神の代役をすることはできません。私たちの役割は、私たちのすべての必要に唯一答えることができる、今、生きておられる主、イエス・キリストを人々に指し示すことです。イエス・キリストに信頼しましょう。

創世記 29章

「彼女はまたみごもって、男の子を産み、「今度は主をほめたたえよう。」と言った。それゆえ、その子を彼女はユダと名づけた。」(35節)

 ヤコブは父をだまし、兄をだまし、憎まれたため、叔父の家に逃走しました。しかし今度は、ヤコブの方が叔父にだまされてしまいました。まさに、彼は蒔いた種を刈り取ります。(ガラテヤ6:7参照)彼は叔父の次女、ラケルと結婚するために叔父のもとで働きました。しかし、長女のレアと結婚させられてしまいます。ヤコブは結局、両方と結婚します。(注・聖書は一夫多妻制を肯定していません。マタイ19章・Ⅰテモテ3章参照)ここに悲劇が起こりました。レアは、ヤコブに愛されていないことを知り、努力しました。悲劇ですが、その状況の中で彼女が最終的に主をほめたたえる(ユダの意)ことを選ぶ姿に教えられます。このユダの子孫からキリストが生まれます。賛美することを選ぶことから奇跡がもたらされます。