使徒 15:12-29

「『その後、わたしは倒れているダビデの仮庵を再び建て直す。その廃墟を建て直し、それを堅く立てる。」(15:16)

当時の教会の指導者だったヤコブは、エルサレム会議をまとめて、アモス書の御言葉を引用します。

「その後」という表現は終末を現す表現です。

聖書を読む上で、「終末」を理解する上で「すでに」と「いまだ」ということを前提に考える必要があります。

イエス・キリストの十字架の死と復活により、「すでに」終末の時代は、始まっています。

しかし、完全な終末は、再びキリストが来られる時に完全にもたらされますので、「いまだ」です。

要するに、「ダビデの仮庵」は「すでに」ダビデの子、イエス・キリストによって建て直されました。

しかし、完全な回復はキリストが再び来られる時ですので「いまだ」です。

大事なポイントは、「わたしは・・・建て直す」と言われているように主語は神です。

私たちが建て直すのではなく、神が「すでに」なされました。

そして、なされます。

使徒 15:1-11

「なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか。私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」(15:10,11)

15章のエルサレム会議は、歴史上最初の公会議です。

この後、教会では何度も公会議が開かれるようになり、様々な決定がなされていきます。

エルサレム会議はユダヤ人と異邦人を一つにする決定がなされましたが、この後は、教会を分裂させる決定が中心になっていきます。

宗教改革者ルターは、そんな公会議も間違いを犯してきたと指摘したために当時のカトリック教会から破門されました。

ペテロの発言は、そんな公会議に対する注意喚起のようにも見えます。

「私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」

という謙虚な姿勢は重要です。

使徒 14:19-28

「弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように勧めて、「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」と語った。」(14:22)

パウロとバルナバは以前宣教した地域を再び訪れ、弟子たちの心を強めました。

No Cross, No Crown.

「十字架なくして、冠なし。」

という言葉があります。

残念ながら、苦難を避けて通り抜けることは誰にもできないということなのだと思います。

古代教父テルトゥリアヌスの言葉に、

「殉教者の血は教会の種子である」

という有名な言葉があります。

今、日本に教会があるのは、私たちの信仰の先輩たちが苦労してまいてきた種子が実っているからであることを忘れてはいけないと思います。

もっとも、パウロは苦しみを否定的に考えません。

苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。」(ロマ5:3,4)

使徒 14:1-18

「それでも、二人は長く滞在し、主によって大胆に語った。主は彼らの手によってしるしと不思議を行わせ、その恵みのことばを証しされた。」(14:3)

アンティオキアからイコニオンに移動したパウロたちは、

「ユダヤ人の会堂に入って話をすると、ユダヤ人もギリシア人も大勢の人々が信じた。」(1節)

と言います。

まさにリバイバル現象が起こりました。

しかし、

「信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人たちを扇動して、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。」(2節)

とあります。

福音が前進する時、内外に迫害があることも覚悟する必要があります。

私たちはパウロとバルナバの姿に学ぶ必要があります。

彼らはそれでもなお「主によって大胆に語った。」と言います。

パウロは後に、弟子のテモテに命じます。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」(2テモテ4:2)

私たちは大胆に、聖書の御言葉を語り続けていきたいと願います。

使徒 13:42-52

「次の安息日には、ほぼ町中の人々が、主のことばを聞くために集まって来た。」(13:44)

パウロたちは、ガラテヤ州にあるピシディアのアンティオキアにあるユダヤ人会堂で話しをしました。

その内容は、16節から41節にあるように、旧約聖書の内容です。

そのクライマックスはイエス・キリストの十字架と復活です。

今も世界中で、同じように聖書のメッセージが語られています。

アンティオキアの人たちは、次の週も同じ聖書のメッセージを聞くために集まってきたということは注目に値します。

現代のキリスト者はもっと聖書のメッセージに自信を持つ必要があると思います。

人々が必要としているのは聖書のメッセージだからです。

聖書のメッセージは古くなることはありません。

歴史を超え、文化を超えて語ります。

なぜなら、生ける神のことばだからです。

人々は今も、主のことばを聞くために集まります。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

使徒 13:32-41

「ダビデは、彼の生きた時代に神のみこころに仕えた後、死んで先祖たちの仲間に加えられ、朽ちて滅びることになりました。」(13:36)

リック・ウォーレン師の「人生を導く5つの目的」にこのように記されています。

自分という間違った出発点から出発していたのでは人生の目的にたどり着くことはできません。あなたの造り主である神が出発点なのです。(中略)このことが理解できるまで、人生は決して意味を持ちません。

ダビデは、彼の生きたその時代の文脈で神のみこころに仕えました。

神がダビデをその時代に誕生させ、その場所に置かれたのは偶然ではありません。

ダビデは彼が召されたことを成し遂げました。

私たちは皆、それぞれ独特な時代の文脈で神のみこころに仕えるように召されています。

過去の人も未来の人も、この時代に生きて、神の目的に生きることはできません。

それができるのは私たちだけです。

神は私たちをこの時のために造られました。

使徒 13:13-31

「そこでパウロが立ち上がり、手振りで静かにさせてから言った。「イスラエル人の皆さん、ならびに神を恐れる方々、聞いてください。」(13:16)

16節から41節までパウロの伝道説教が記録されています。

パウロは出エジプトから始めてイスラエルの歴史を語り始めます。

そして、ダビデ王との約束がダビデの子孫として生まれたイエスによって成就したことを説明します。

パウロは、

エルサレムに住む人々とその指導者たちは、このイエスを認めず、また安息日ごとに読まれる預言者たちのことばを理解せず、イエスを罪に定めて、預言を成就させました。」(27節)

と、イエスの十字架が聖書に預言されていた内容であったことを指し示します。

このようにパウロの説教は旧約聖書を土台としたものでした。

パウロのポイントの一つは、

「この救いのことばは、私たちに送られたのです。」(26節)

ということです。

聖書は私たちに送られた神の救いの言葉です。

使徒 13:1-12

「さて、アンティオキアには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどの預言者や教師がいた。彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が「さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」と言われた。」(13:1,2)

アンティオキアには様々な背景、人種の指導者たちがいました。

彼らが主を礼拝していると、聖霊に導かれてバルナバとサウロを宣教師として派遣したとあります。

これが教会の姿です。

教会の第一の優先事項は礼拝です。

神が求めているのは真の礼拝者(ヨハネ4:23)です。

そして、真の礼拝者たちの教会は、聖霊の導きに従い宣教する教会となります。

礼拝なくして宣教はありません。

使徒 12:13-25

「彼が門の戸をたたくと、ロデという名の召使いが応対に出て来た。」(12:13)

奇跡的に救われたペテロは、彼のために祈っていた「マルコと呼ばれているヨハネの母マリアの家」(12節)に行きました。

そこにロデという召使がいました。

召使という表現は、現代にはふさわしくありません。

要するに、ロデは喜んで召使の役割をしたということです。

ロデのように仕える人がいたから、初代教会はうまくいきました。

教会はロデのように喜んで神と人に仕える人たちが必要です。

ただ、彼女はあわてものでした。

彼女は

ペテロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもせずに奥に駆け込み、ペテロが門の前に立っていることを知らせた。」(14節)

とあります。

著者のルカは「喜びのあまり」そういうことをしたのだから許してあげましょうと記しました。

教会は失敗を責める場所ではなく、「喜びのあまりですから」と、赦しあい、愛し合うところだからです。

使徒 12:1-12

「こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。」(12:5)

初代教会のリーダーだったヤコブが殺され、もう一人のリーダー、ペテロが捕まってしまいました。

その時、教会は彼のために熱心な祈りを神に捧げていたと言います。

初代教会は、人に頼ることも、お金に頼ることも、権力に頼ることもできませんでした。

問題は祈るために与えられます。

問題がなければ、祈ることは難しいということがあります。

しかし、問題が起こるたびに祈りに導かれる人は、信仰、人格が整えられ、祈りの器に変えられていきます。

そして、神は祈りを用いられます。

ペテロは奇跡的に第一の衛所、第二の衛所を通り抜け、鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いたと言います。

教会が熱心に祈る時、不可能は可能になります。

鉄の門は開かれます。