使徒 11:19-30

「弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」(11:26)

アンティオキアはシルクロードの出発点であり、様々な文化が交差する、多文化で、通商が盛んな繁栄した都市でした。

「キリスト者」と訳された単語は、英語ではクリスチャン、原文のギリシア語では「Χριστιανος」、ラテン語から来ている単語ですが、「キリストの家族の一員」という意味があります。

キリストはメシアのギリシア語訳ですので、「メシアの民」「メシア主義者」とも訳すことができます。

キリスト・フリーク、キリスト・マニア、キリスト・おたくとも訳せます。

ローマ人にとっては、奴隷の名前に聞こえ、「奴隷の家の者たち」とからかってつけた名でした。

私たちに問われていることは、「Χριστιανος」と呼んでもらえるような歩みをしているだろうかということです。

キリストの者かどうかも分からない、そんな生き方をしているとしたら、こんなに悲しいことはありません。

KYジーザス

イエスさまはKY(空気が読めない)だと思ったことありませんか?

福音書の様々な場面で「今それを言ったらマズいかも、、、」というイエスさまの発言や態度が頻繁に出てきます。

わたしはそんなイエスさまが嫌いではありません。

わたしも昔から空気を読むのが苦手で散々地雷を踏んできたので、ちょっと親しみさえ感じます。

もっともイエスさまのこの世でのKYは父なる神様の御心をおこなわれているので、単に思ったことをつい口に出してしまうわたしとは全然違うのですが、、、。

言うべきことを言い、やるべき事を行い、弱い立場の人に寄り添うイエスさまの公生涯の記録は、私たちのこの地上での歩み方をよりクリアにするための指針になると思います。

私たちの地上での歩みは思っているより短い。

クリスチャンとして歩む時間は限られています。

鮭が川を上って行くような抵抗を今感じていないとしたら、本当にその歩みが主の御心にかなった歩みであるかどうかを点検してみることが必要かもしれません。

この世の空気を読むことばかり上手にならないように気をつけましょう!

(小山晶子牧師人)

使徒 11:1-18

「ですから、神が、私たちが主イエス・キリストを信じたときに私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが、神がなさることを妨げることができるでしょうか。」(11:17)

異邦人たちがキリスト者になったことを、ユダヤ人クリスチャンたちはよく思わず、ペテロを非難しました。

ペテロは事の次第を順序立てて説明しました。

ペテロは教会に相談したわけではありません。

かといって自分勝手に行動したわけでもありませんでした。

ペテロはただ、聖霊様に従って異邦人に福音を宣べ伝え、洗礼を授けたと主張しました。

ペテロの発言は明白です。

「私のような者が、どうして神のなさることを邪魔することができたでしょうか」(協会共同訳)

私たちは神のなさることを邪魔することがないように、神の働きを非難することがないように気をつけましょう。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

使徒 10:34-48

「神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。このイエス・キリストはすべての人の主です。」(10:36)

キリストによってもたらされたメッセージ、それは平和(シャローム)の福音です。

メッセージ訳では、こんな訳をしています。

神がイスラエルの子たちに送ったメッセージ-それは、イエス・キリストを通してすべてのものが再び一緒になること-神はそれをすべての人の間で、どこでもなされています。

イエス・キリストは、平和を作り出すために、この地に来られ、私たちのために十字架にかかって死んでくださいました。

聖書は言います。

キリストこそ、私たちの平和の道です。この方は、私たちユダヤ人とあなたがた外国人とを一つの家族とし、両者を隔てていた壁を打ちこわして、平和をつくり出してくださいました。 ご自分の死によって、互いの激しい敵意を除いてくださったのです。」(エペソ2:14,15LB)

使徒 10:17-33

「それで、私はすぐにあなたのところに人を送ったのです。ようこそおいでくださいました。今、私たちはみな、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、神の御前に出ております。」(10:33)

コルネリウスがイエス・キリストを知るためには、誰かが彼に伝える必要がありました。

あるイエス・キリストを信じた人が宣教師に尋ねました。

「あなたの国の人はずっと前からこの福音を知っていたのに、どうして今まで伝えに来てくれなかったのですか?」

今も、コルネリウスのように神を畏れ敬いつつも、イエス・キリストを知らず、求めている人たちがいます。

聖書は言います。

信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。」(ローマ10:14,15)

コンサートマスター

コンサートマスター、通称「コンマス」。

 

オーケストラの奏者をとりまとめる職を与えられた人のことで、一般的には第一バイオリンのトップがこの職を担います。

指揮者の指示の細かいニュアンスをボーイング(弓の上げ下げ)を通して伝えたり、楽譜に書く指示を決めたり、かなりの責任と緊張感を必要とする職。

今週土曜日に行われる年に一度のユーオーディアオーケストラコンサートで長男がコンマスに選ばれ、準備に勤しんでいます。

少しづつ世代交代をということだとは思いますが、正直なところわたしは物凄く緊張しています。

かつて何度も受けていたバイオリンコンクールを思い出します。

もう、緊張しすぎて耳が聴こえなくなり、音が遠くの方で鳴っているあの感じ。

少しソロで弾く場所もあるそうです。

本人もわたしも、神様への賛美に集中できるようにぜひお祈りください。

コロナ禍でできなかった会衆賛美「聖なる聖なる聖なる」が今年は復活するそうです!

主の栄光と臨在溢れる時となりますように。

『恥わ我がもの。栄光は主のもの。』

ハレルヤ!   (小山晶子牧師人)

チケットの問い合わせなど、ユーオーディアのホームページはこちら

使徒 10:1-16

「彼は御使いを見つめていたが、恐ろしくなって言った。「主よ、何でしょうか。」すると御使いは言った。「あなたの祈りと施しは神の御前に上って、覚えられています。」(10:4)

コルネリウスは百人隊長でした。

ローマ帝国の百人隊長たちは自分の部隊を教練し、訓練を維持し、軍団兵を戦場へ引率しました。

彼らの存在はとても重要で、兵士や退役軍人の墓には所属していた百人隊長の名が刻まれています。

彼の品性は2節によく描写されています。

彼は敬虔な人で、家族全員とともに神を恐れ、民に多くの施しをし、いつも神に祈りをささげていた。

この箇所が私たちに教えている大切なことは、私たちの「祈りと施し」は「神の御前に上って、覚えられています」ということです。

人は行いによって救われるわけではありません。

イエス・キリストの十字架の御業のゆえに、信じるだけで救われます。

しかし、私たちの「祈りと施し」は、神に覚えられています。

使徒 9:32-43

「またヤッファに、その名をタビタ、ギリシア語に訳せばドルカスという女の弟子がいた。彼女は多くの良いわざと施しをしていた。」(9:36)

初代教会のキリスト者の一人、タビタは、「多くの良いわざと施し」をしていたと言います。

やもめたちはみな彼のところに来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。」(39節)

とあります。

マザー・テレサのような人だったのだと思います。

初代教会は彼女のように献身的に人々に仕える人たちがいて、広がっていきました。

キリスト者は救われるために良いわざをするわけではありません。

イエス・キリストの十字架の御業のゆえに、信じるだけで救われます。

しかし、イエス・キリストを信じる者は、イエス様がなされた働きを継続して行きます。

聖霊様に導かれて、「多くの良いわざと施し」に導かれて行きます。

使徒 9:23-31

「かなりの日数がたち」(9:23)

ガラテヤ人への手紙の中で、パウロはこんなことを言っています。

母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が、異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに啓示することを良しとされたとき、私は血肉に相談することをせず、私より先に使徒となった人たちに会うためにエルサレムに上ることもせず、すぐにアラビアに出て行き、再びダマスコに戻りました。」(15-17節)

パウロはダマスコで福音を伝え始めた当初、アラビアの荒野の行ったと言います。

それから再びダマスコに戻って福音を宣べ伝えたということなので、「かなりの日数がたち」ということのようです。

アラビアに何しに行ったのか、明確には記されていませんが、静まって、祈りと聖書のみことばの時間をとったのだと思われます。

誰かに相談する前に、まず、神の前に静まり、祈り、ただ御言葉に耳を傾ける時間をとることは大切です。

使徒 9:10-22

「さて、ダマスコにアナニアという名の弟子がいた。主が幻の中で「アナニアよ」と言われたので、彼は「主よ、ここにおります」と答えた。」(9:10)

イエス様はアナニヤという一人の信徒を用いました。

彼はイエス・キリストを信じ、どうやって、イエス様の声を聴き分けるかを知っていました。

そして、どんな危険が待ち受けようともその声に聞き従う準備が出来ていました。

彼は愛と恵みと知恵をもって実行することができました。

神は、牧師、伝道師、宣教師と呼ばれる教職者だけを用いられるわけではありません。

信徒を用いられます。

「神様に導かれました・・・」と、神の導きに従う主にある兄弟姉妹がいるからこそ、教会は存在しています。

アナニヤの従順によって、サウロの目は癒され、聖霊に満たされました。

するとただちに、サウロの目から鱗のような物が落ちて、目が見えるようになった。」(18節)

この箇所から「目から鱗が落ちる」という慣用句が生まれました。