使徒 18:18-28

「「神のみこころなら、またあなたがたのところに戻って来ます」と言って別れを告げ、エペソから船出した。」(18:21)

パウロの行動の指針は「神のみこころ」でした。

人々は、もっと長くとどまるように頼んだ」(20節)

とありますが、そんなに自分を歓迎してくれる町なら、そこにとどまって伝道したいと思うのが普通だと思います。

しかし、彼に対するこの時の神のみこころはエルサレムに上ることでした。

もっとも、この後、十九章でパウロはエペソに戻ってきます。

神のみこころ」を第一にするためには、日々、聖書の御言葉によって心を新たにすることです。

そうすれば神のみこころが分かります。

この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」(ローマ12:2)

使徒 18:9-17

「ある夜、主は幻によってパウロに言われた。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。」」(18:9,10)

コリントは、アテネの西にあるギリシヤの港町で、ローマ帝国の東西を繋ぐ交通の要所でした。

イオニヤ海とエーゲ海を左右に持っていて、ギリシヤの本島と半島を結びつける役割をはたしていました。

歓楽街のある豊かで、栄えた町でした。

コリントの丘には「豊穣の女神」の神殿があり、神殿娼婦が千名ほどいたと言われています。

ですから、ギリシヤ人にとって、「コリント風に生活する」とは不道徳なことをおこなうことを意味していました。

しかし、イエス様は

この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。

と言われました。

私たちはイエス様の視点で町を愛し、福音を伝えていくことが大切です。

使徒 18:1-8

「シラスとテモテがマケドニアから下って来ると、パウロはみことばを語ることに専念し、イエスがキリストであることをユダヤ人たちに証しした。」(18:5)

パウロは、シラスとテモテがマケドニアから下って来たことによって、みことばを語ることに専念できたと言います。

それは、彼らがマケドニアのピリピの教会から支援金を携えてきたからです。

パウロはこのように回想しています。

「ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、福音を伝え始めたころ、私がマケドニアを出たときに、物をやり取りして私の働きに関わってくれた教会はあなたがただけで、ほかにはありませんでした。テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは私の必要のために、一度ならず二度までも物を送ってくれました。」(ピリピ4:15,16)

「私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)

使徒 17:16-34

「なぜなら、神は日を定めて、お立てになった一人の方により、義をもってこの世界をさばこうとしておられるからです。神はこの方を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人にお与えになったのです。」(17:31)

パウロはギリシア哲学の中心地、アテネに行きました。

そこで、

エピクロス派とストア派の哲学者たちも何人か、パウロと議論していた。」(18節)

とあります。

エピクロス派は、神がたとえ存在していたとしても遠い存在で、私たち人間とは関係がない存在だと考えました。

これに対してストア派は、「神」と「世界」は同じことと捉えました。

28節でパウロが引用したギリシア哲学者のことばも、このストア派の哲学者のことばです。

パウロのポイントは、歴史はストア派やエピクロス派が考えるのとは違うゴールに向かって進んでいるということです。

イエス・キリストがすべてのことを正す、裁きの日が来ます。

イエス様の復活は、その証拠です。

使徒 17:1-15

「そして、「キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならなかったのです。私があなたがたに宣べ伝えている、このイエスこそキリストです」と説明し、また論証した。」(17:3)

パウロのメッセージの中心はイエス・キリストでした。

今も、キリスト教会が伝えるメッセージの中心はイエス・キリストです。

「キリスト」は名前ではなく「油注がれた者」(メシア)というタイトルです。

ユダヤ人は王に油を注ぎましたので、それは、王を意味するタイトルでもありました。

また、「救い主」も「主」も、ローマ皇帝のタイトルでした。

ですから、イエスを「主」と呼ぶことは、ローマ皇帝は違うということを意味しました。

それで

やつらは反逆罪を犯しています。カイザル(ローマ皇帝)でなく、イエスという別の王がいる、とふれ回っているのです。」(7節LB)

と訴えられたのです。

イエス・キリストを王の王、主の主としてふれ回ることが福音宣教です。

使徒 16:19-40

「真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。」(16:25)

パウロたちはルデヤが導かれた川岸の「祈り場」に行こうとしていました。

しかし、実際に行った「祈り場」は牢獄でした。

ライト師はこう言います。

イエスに従う者は、世界が苦しんでいる場所で祈りの民となるように召されています。

「世界が苦しんでいる場所」、まさに真夜中の牢獄の中で祈りつつ神を賛美する歌を歌う、これがキリスト者が召されていることだと言うのです。

聖書が私たちに教えている真理の一つは「祈り場」に奇跡が起こるということです。

真夜中の「祈り場」で地震が起こり、看守とその家族が信仰を持ちました。

神は「祈り場」を用いて御業を行われます。

力は神のものですが、祈りの特権がキリストを信じる者たちに与えられています。

キリスト者は天の現実をこの地に祈りによって解き放つエージェントです。

休符

今週から8月に入ります。

2023年も後半に入り、教会もわたしもトップギアで年末まで駆け抜けるようなイメージです。

9月は岩渕まことさんを招いての伝道コンサート、

対面でのイーストフェロシップデイ、

バングラデシュ宣教、

リラのCD発売。

10月はリラ30周年記念コンサートが複数回、

オープンチャ―チ準備。

11月はオープンチャ―チ、

静岡コンサートツアー、

12月はクリスマスマーケット、

キャンドルサービス等々。

ただ行事をこなすということではなく、一つ一つ主の御心を求めながら丁寧に行なっていくことができるよう祈ります。

皆さまの日々はいかがでしょうか。

忙しさの中に埋没し、神様の御心を求めないまま前に進みそうになる時、楽譜の休符のようにひと呼吸置いて静まることが大切だと思います。

酸素や栄養がないまま走り続けると必ず行き詰まってしまいますから。

地上での限られた時間を今週も有効に用いるとができますように。

(小山晶子牧師人)

使徒 16:11-18

「リディアという名の女の人が聞いていた。ティアティラ市の紫布の商人で、神を敬う人であった。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた。」(16:14)

パウロの宣教方法は、まず、ユダヤ人の会堂に行くことでした。

しかし、ピリピにはユダヤ人の会堂がありませんでした。

それで、パウロたちは、ユダヤ人たちが集まる「祈り場」を探して川岸に行きました。

そこで、そこに集まってきたユダヤ人、そして、「神を敬う人」と呼ばれたユダヤ人ではありませんが、聖書の神を信じる人たちに、話をしました。

興味深いことに、聖書はこう言います。

主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。

彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされたのは主なる神だと言うのです。

今日も、主が一人一人の心を開いて、牧師が語る説教に心を留めるようにしてくださいますように。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

使徒 16:1-10

「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである。」(16:10)

ユージーン・ピーターソンはこんなことを言っています。

「この幻がなければ、世界が小さく、利己的になる。」

神の世界はいつも、私たちの世界よりも広いものです。

しかし、神の幻(ビジョン)がなければ、私たちはどうしても自分の小さな世界に収まってしまう傾向があります。

聖書は言います。

「幻がなければ、民は好き勝手にふるまう。」(箴言29:18)

私たちは神の幻(ビジョン)を求める必要があります。

ユージーン・ピーターソンはまた、こんなことも言っています。

このビジョンは、神の世界の次元に入るために、私たちの能力を拡大します。

私たちは、広い神の世界の次元に入るためにも、神の幻(ビジョン)が必要です。

私たちは神の幻(ビジョン)に生きる群れでありたいと願います。

使徒 15:30-41

「バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネを一緒に連れて行くつもりであった。」(15:37)

聖書はパウロを偶像化することはありません。

パウロがいつも正しかったわけではありません。

パウロは再びバルナバと共に宣教旅行に出発する予定でした。

しかし、マルコを連れていくか、行かないかでもめてしまいます。

バルナバは「慰めの子」(4:36)という名の通りの人でした。

パウロを使徒たちのところに連れて行ったのもバルナバでした。

パウロを見つけて、アンティオキアに連れて来たのもバルナバでした。

しかしパウロは、前回の宣教旅行で離脱して、先に帰ってしまったマルコを連れていくことに反対でした。

バルナバはマルコにもう一度チャンスを与えたかったのだと思います。

しかし、パウロにはそれができませんでした。

後にパウロはこのように記しています。

マルコを伴って、一緒に来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。」(2テモテ4:11)

バルナバの愛の行動がマルコを回復させたのです。