マタイ 3章

「しかし、イエスは答えられた。「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」そこでヨハネは言われたとおりにした。」(3:15)

イエス様は罪のないお方ですから、悔い改めのバプテスマを受ける必要はなかったはずです。

実際、ヨハネはそのことが分かっていましたから、「そうさせまい」(14節)としたとまで書いてあります。

しかし、イエス様は悔い改める必要がなくても、私たちの模範として、へりくだってバプテスマを受けられました。

どう考えてもヨハネが言ったように、ヨハネの方がイエス様からバプテスマを受ける必要がありました。

しかし、イエス様はへりくだり、バプテスマをヨハネから受けられました。

このような謙遜な姿勢がキリスト者に求められています。

この後、天が開き、聖霊が鳩のようにくだり、父なる神から声があり、神が三位一体であることが顕されました。

マタイ 2章

「そこで、ヨセフは立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に入った。」(2:21)

イエス・キリストはダビデの子孫として、聖書に預言された通りベツレヘムで誕生しました。

ヘロデ大王はエルサレムの南約十二キロ、ベツレヘムの南東約四キロに要塞宮殿を建築していましたから、ベツレヘムに生まれたと言う話は脅威としか感じなかったかもしれません。

ヨセフはマリアと幼子を連れて、主の使いが夢で言ったようにエジプトに逃亡しました。

当時、エジプトのアレキサンドリアにはユダヤ人コミュニティがあったことが知られています。

エジプトでは博士たちが持ってきた黄金、乳香、没薬を用いて生活をすることができたのだと思います。

神は命じるだけでなく、必要を満たしてくださるお方です。

ヨセフは再び、主の使いが夢で語った時に、従順してイスラエルに戻ります。

みことばに従順する人生です。

今日は主の日。ともに主なる神に礼拝を捧げましょう。

マタイ 1章

「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。」(1:1)

イエス・キリストの誕生は神の驚くような恵みをあらわします。

創世記に出てくるアブラハムとの契約、サムエル記第二に出てくるダビデとの契約を忘れない、信実な神であることをあらわします。

系図には四人の女性の名前が出てきます。

一人目は、ユダの不誠実な行動に翻弄されたタマル。

二人目は、エリコの遊女ラハブ。

三人目は、ユダヤ人ではない外国人(モアブ人)ルツ。

四人目は、ダビデ王の大きな罪と関わったソロモンの母、ウリヤの妻。

ウリヤの妻の名はバテ・シェバですが、あえて、ウリヤの妻と呼ぶところに、ひどい仕打ちを受けたウリヤを神は断じて忘れていていないという神の憐れみを感じます。

イエス・キリストの系図に加えられた人たちは必ずしも聖人とは呼べないような人たちです。

しかし、キリストの家族の一員として数えられました。

誰でもキリストの家族の一員になれるということです。

黙示録 22章

「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。もし、だれかがこれにつけ加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる。」(22:18,19)

私たちの教会は、聖書六六巻、創世記から黙示録まで、誤りなき神の言葉であると信じています。

大事なことは、聖書はこの「六六巻で完成している」ということです。

これ以上も、これ以下もないということです。

正統的なキリスト教か違うかと言う一番大きな基準は、ここにあります。

聖書以外に、経典を持っていれば、それはキリスト教ではありません。

聖書六六巻以外に、神の言葉が存在しているならば、それはキリスト教とは呼べません。

(新共同訳に加えられた旧約続編は歴史的な価値は認めますが、正典ではなく、神の言葉ではありません。)

黙示録 21章

「私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。」(21:22,23)

神殿は神の領域である天と人間が生きる領域である地が重なる場所です。

「神殿を見なかった」という意味は、新しいエルサレム、新天新地は天と地が完全に重なっている都であるということです。

神殿を神殿とするものは神の栄光でした。

神の栄光が都を照らすという意味も、もはや神の栄光は建物ではなく、都全体に満ちているということです。

だから聖書は言います。

見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」(3,4節)

黙示録 20章

「いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」(20:15)

聖書は最終的な裁きはこの世界の終わりにあると言います。

白い御座と呼ばれる裁きの座に着座されている方は、イエス・キリストです。

「彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。」(13節)

というのは善行が認められると言う意味ではなく、納得せざるをえない方法で裁かれるということです。

「死とよみは火の池に投げ込まれた。」(14節)とありますが、よみは「死後の世界全体」を指し、死も死後の世界もなくなることを意味します。

第二の死は永遠の刑罰ということです。

この時、すべてのキリストを信じなかった人は、みな「火の池」に投げ込まれるかどうかは白い御座に着座されたキリストが決められます。

確実なことは、キリストを信じる者は、火の池に投げ込まれることはないということです。

決定的なポイントは「いのちの書」に名前があるかないかだからです。

黙示録 19章

「その後、私は、大群衆の大きな声のようなものが、天でこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救いと栄光と力は私たちの神のもの。」(19:1)

19章には4つのハレルヤが出てきますが、それぞれに、私たちが「ハレルヤ」と神様を賛美する理由が記されています。

第一のハレルヤは1、2節。

神が正しい裁きをされたがゆえに「ハレルヤ」と賛美します。

第二のハレルヤは3節。

神の救いの御業が完成されたがゆえに「ハレルヤ」と賛美しています。

第三のハレルヤは4、5節。

神の命令のゆえに、「ハレルヤ」と賛美をしています。

第四のハレルヤは、6-9節。

キリストと教会の婚礼のゆえに、「ハレルヤ」と賛美しています。

「ハレルヤ」はヘブル語で、「ハレル」とが「さあ賛美しましょう」、「ヤ」は神の名前「ヤハウェ」の短縮形です。

私たちが「ハレルヤ」と賛美するときに、天国の賛美と私たちは心を合わせることによって、この地上にも天国をもたらすことができます。

黙示録 18章

「それから私は、天からもう一つの声がこう言うのを聞いた。「わたしの民は、この女の罪に関わらないように、その災害に巻き込まれないように、彼女のところから出て行きなさい。」(18:4)

ローマ12:2にこうあります。

この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。

世捨て人になるように勧めているのではなく、人生の意味をこの世に求めてはいけないと言う事です。

生きている意味を物欲(12-14節)を満たすことに見出していないでしょうか?

それともエンターテイメント(22節)に見出そうとしていないでしょうか?

自分を喜ばすことに人生の意味を見出そうとする生き方は滅びへと向かいます。

人は聖書によって心(思考)を新たにし、神を第一とした価値観に変えられる必要があります。

黙示録 17章

「彼らは子羊に戦いを挑みますが、子羊は彼らに打ち勝ちます。子羊は主の主、王の王だからです。子羊とともにいる者たちは、召されて選ばれた忠実な者たちです。」(17:14)

17章を理解する上には「大バビロン」(5節)を理解する必要があります。

そのためにはバビロンを理解する必要があります。

バビロンは「混乱」の象徴です。

創世記11章の「バベルの塔」のように、人が成し遂げようとすることは、自分たちの力の誇示であり、神に対抗することでした。

6節に「大バビロン」は、「クリスチャンを迫害することに酔いしれる」とあります。

宗教哲学的な人間組織、人間至上主義は結局、平気で人を迫害したり、殺したりするようになります。

人ではなく、私たちのために死に、よみがえられた神の子羊、イエス・キリストこそ私たちが高く掲げなければならないお方です。

このお方こそ王の王、主の主。今日は主の日。ともに主なる神に礼拝を捧げましょう。

黙示録 16章

「こうして汚れた霊どもは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる場所に王たちを集めた。」(16:16)

聖書の中のことばで有名で、誤解されている言葉は「ハルマゲドン」だと思います。

「ハルマゲドン」は二つのヘブル語を組み合わせたもので、「ハル」は「丘」、「マゲドン」は、「メギド」というイスラエルの北部の地域の場所のことです。

この章にあるように、世の終わりに世界の国々はサタンにだまされて、イスラエルのメギドに世界の軍勢を集結させます。

しかし、神に対抗できるはずはありません。結局は、この後19章に出てきていますように、一方的に、天の軍勢に裁かれます。

「ハルマゲドン」と言いますと、すぐ、この世の終わりの善悪の戦いとしか考えられないと思いますが、今を生きる私たちにとっての「ハルマゲドン」は、サタンにだまされて、「神になろう」、「神に対抗しよう」とする人類の問題です。

神を神として認めることがまず大切なことです。