申命記 10章

「イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。」(12,13節)

神が私たちに求めていることは何でしょうか?この箇所はかなり明確に記しています。神を恐れ、神のすべての道に歩み、神を愛し、神に仕え、従うことです。単純に聞こえますが、現実はいかがでしょうか。ある青年がイエス様にこんな質問をしました。

「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」(ヨハネ6:28)

イエス様は答えられました。

「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」(同29節)

神が求められていることは、すべて、イエス・キリストを信じることに含まれると言います。

申命記 9章

「あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出されたとき、あなたは心の中で、「私が正しいから、主が私にこの地を得させてくださったのだ。」と言ってはならない。」(4節)

神はイスラエルの人々に何度もあなたが正しいから選ばれたわけではないと言いました。これは私たちが心に留めなければならない内容です。私たちが「正しい」から、神が私たちを用いるわけではありません。私たちが「いい人」だから、私たちが祝福されるわけでもありません。すべては神の恵みだと聖書は言います。神は、私たちが優越感をもたないように注意しています。他者を見下すようなことを決して口にしてはいけません。神の恵み(恩寵)の世界を理解すればするほど、私たちは謙遜にさせられ、神に対する畏れをもつものだと思います。そのことをよく理解していた使徒パウロは言いました。

「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」(Ⅰコリント15:10共)

今日は主の日。主に礼拝を捧げましょう。

申命記 8章

「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。」(2,3節)

イスラエルの人々にとっての荒野の四〇年間は、神に信頼して生きることを学ぶためであったと言います。私たちは残念ながら、試練がないとなかなか神のもとに行かない傾向があります。問題がないと祈りに導かれない、聖書のみ言葉を真剣に求めないという所があります。神はあえて問題が起こることを許されます。そして、私たちが真剣に神を求め祈る時、神を体験します。

申命記 7章

「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。」(7,8節)

イエス・キリストは言いました。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしが、あなたがたを選んだのです。」(ヨハネ15:16LB)

キリストを信じることが出来たのは、実はキリストが選んでくださったからだと言います。神がイスラエルの民を選ばれたのは、彼らが特別な国民だったからではないと言います。神が自分を選んでくださったのも、何か特別だからではありません。それは神の恵みの世界です。だからこそ、私たちは謙そんに歩む必要があります。

申命記 6章

「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(4,5節)

「シェマ」(ヘブル語で「聞きなさい」の意)と呼ばれる有名な箇所です。敬虔なユダヤ人たちは今もこの「シェマ」を毎日唱えています。ある律法学者がイエス様に、

「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」(マルコ12:28)

と尋ねました。その時イエス様は、この「シェマ」を引用されました。

「イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』」(同29,30節)

神は、私たちのためにいのちを捨てるほど愛してくださいました。私たちはその愛に応答しているでしょうか。神は全身全霊で神を愛して欲しいと願っています。まず神を愛することに努めようではないでしょうか。

申命記 5章

「どうか、彼らの心がこのようであって、いつまでも、わたしを恐れ、わたしのすべての命令を守るように。そうして、彼らも、その子孫も、永久にしあわせになるように。」(29節)

神の願いは、人々が神を恐れ神のすべての命令を守ることによって、永久にしあわせになることでした。しかし、残念ながら人は不信仰のゆえに神に背を向け、神は与えようとしていた祝福を与えることができなくなってしまいました。イエスもがイスラエルの人々に対して嘆かれ、言いました。

「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」(マタイ22:37)

神は私たちを愛しているので祝福したいのです。しかし、神のもとに来なければ、その祝福を体験することはできません。まず、主日礼拝を大切にしましょう。

申命記 4章

「そこから、あなたがたは、あなたの神、主を慕い求め、主に会う。あなたが、心を尽くし、精神を尽くして切に求めるようになるからである。」(29節)

せっかくキリストを信じても、キリストから離れて悪魔の領地に再び捕らえられてしまう人がいます。チャック・スミス牧師は、「あなたがキリスト以外の願い、抱負、もしくは、あなたの心や人生にキリスト以外のものに優先順位の一番を譲ってしまう時、信仰から離れてしまう」と言います。すべてにおいて神を第一とする必要があります。神の場所に何かを置く時、人はキリストから離れてしまいます。しかし、まだ望みはあります。もう一度、心を尽くし、精神を尽くし、キリストを慕い求めるならば、キリストに会うことができます。神様はあわれみ深いお方であり、もう一度、あなたの人生に働いてくださいます。あなたを捨てず、滅ぼさず、忘れません。イエス・キリストを自分の心の王座に歓迎しましょう。

申命記 3章

「ピスガの頂に登って、目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。あなたはこのヨルダンを渡ることができないからだ。」(27節)

榎本保郎師はこう記しています。

「モーセは神の強引な召しによって、その所から召し出され、四〇年の荒野の旅を経て今やっと神の約束の地を眼前に見るところまでたどりついたのである。その間、外からの敵、内からの反逆に襲われ、飢え、渇き、疫病に悩まされたにもかかわらず、彼は天の助けを得てやっとここに立つことができたのである。この彼が最後の願いとしてカナンの地に立たせてくださることを主に願ったのである。しかし、主はその祈りを聞きたまわなかった。主は彼に向かって『おまえはもはや足りている。この事については、重ねてわたしに言ってはならない』と言われた。(中略)私たちは主から禁じられるまで祈ったことがあるだろうか。そこまで祈った人だけが、祈りの喜びを味わうことがゆるされるのである。」

主は祈りの世界に上るよう命じてます。

申命記 2章

「事実、あなたの神、主は、あなたのしたすべてのことを祝福し、あなたの、この広大な荒野の旅を見守ってくださったのだ。あなたの神、主は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。」(7節)

神はイスラエルの民に言いました。

「全くこの40年間、わたしが守り、祝福してやったからこそ、おまえたちは果てしもない荒野をさまよいながら、何不自由なく過ごせたのだ。」(7節LB)

荒野の40年間を総括した時、「何一つ欠けたものはなかった。」「何不自由なく過ごせた」とイスラエルの民は告白することができました。震災の時、原発のため故郷を追われ、避難生活を続けておられた福島の佐藤彰先生が、以前そのように証されていました。私たちはどうでしょうか?様々な試練や苦難の人生を総括した時に、「何一つ欠けたものはなかった。」「何不自由なく過ごせた」と告白することができるでしょうか?
今日は主の日。まず、主に礼拝を捧げましょう。

申命記 1章

「主は、あなたがたが宿営する場所を捜すために、道中あなたがたの先に立って行かれ、夜は火のうち、昼は雲のうちにあって、あなたがたの進んで行く道を示されるのだ。」(33節)

神がイスラエルの人々が滞在するのに最適な場所を先に立っていって捜され、導かれたとモーセは言います。神は私たちの人生の旅路においても同じようにされます。前もって私たちのために私たちにとって最適な場所を捜し、私たちの前を行かれ、そこに導いてくださいます。それだけではなく、私たちがその場所で生きていくために、私たち自身をも準備してくださいます。私たちが今おかれている場所、また状況は、神が私たちを最高の場所に導くために必要だからこそだということです。その道程にある荒野はつらいところです。しかし、夜は火のうちにあって私たちを温め、光を与え、昼は雲のうちに暑さを和らげ、みことばをもって道を示してくださいます。