エズラ 5章

「さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの、ふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に、彼らとともにおられるイスラエルの神の名によって預言した。」(1節)

  二人の預言者がどんな預言をしたかは、ハガイ書とゼカリヤ書に書いてあります。ハガイ書の2章には、こう記録されています。「仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。―万軍の主の御告げ。―あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。まことに、万軍の主はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。万軍の主は仰せられる。」(4‐7節)

私たちが祈り続けていく中で、世界を揺り動かすリバイバルが与えられます。

 

エズラ 4章

「すると、その地の民は、建てさせまいとして、ユダの民の気力を失わせ、彼らをおどした。」(4節)

 キリストを信じて生きていくならば、逆風は吹かず繁栄するというのは、聖書的ではありません。イスラエルの人々は神殿を建て直そうと礎を据えて建て始めた時、逆風が吹きました。神様のために何かをしようと思い立つ時、その気力を失わせるようなことが起こったりすることがあります。「どうして?」と思うようなことが起こったりすることがあります。逆風は、私たちがあきらめるために吹くのではなく、私たちが空高く舞い上がるために吹きます。もし、私たちが逆風を祈りに変えることができるならば、マイナスは必ずプラスになります。不可能に見える時こそ、神の奇跡を見る時になります。この後、預言者ゼカリヤが気力を失った人々に語った神の言葉は・・・

「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。」

エズラ 3章

「そのため、だれも喜びの叫び声と民の泣き声とを区別することができなかった。民が大声をあげて喜び叫んだので、その声は遠い所まで聞こえた。」(13節)

  神殿の礎が据えられた時、ある人は喜び叫び、ある人々は泣いたとあります。同じ出来事に対しても、私たち人間の反応というのは違うものだと思います。このことを意識することはとても重要です。神様に礼拝をささげる時、ある人は喜び叫び、ある人は泣き、ある人は静まり、ある人は笑います。私たちが気をつけないといけないことは、神様が臨まれている時の私たちの感情を決め付けることはできないということです。涙を流さなければ聖霊に満たされていないというわけではありません。喜び叫んでいなければ、聖霊に満たされていないわけではありません。聖霊なる神様の働きには多様性があることを認めることはとても大事なことです。重要なのは表面に出てくる感情表現ではなく、生ける神様が臨まれることです。

エズラ 2章

「歌うたいは、アサフ族、百二十八名。」(41節)

バビロンからエルサレムへの帰還者たちの名簿がこの章に記されています。指導者、氏族別の帰還者数、そして神殿を司る帰還した祭司、レビ人の数が上げられます。その中に、「歌うたい」(LB)が数えられています。アサフ族は、神に賛美の歌を捧げる役割がありました。ですから、エンターテイメントのための「歌うたい」という意味ではなく、神に賛美を捧げるための「聖歌隊」ということです。神に賛美の歌を捧げることがどれだけ大切かが分かります。礼拝の中で賛美の歌を神に捧げることは、どうでもいいことではなく、重要なことであることが分かります。彼らもまたエルサレムへ帰還した最初の人たちに数えられていることを心に留める必要があります。まず、何よりも賛美の歌を捧げること、賛美が最前線であるべきであることを、聖書は何度も私たちに訴えているからです。

「主よ、賛美の歌を捧げます。」

エズラ 1章

「そこで、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たち、すなわち、神にその霊を奮い立たされた者はみな、エルサレムにある主の宮を建てるために上って行こうと立ち上がった。」(5節)

バビロンに捕囚されていたイスラエルの民は、生活の基盤ができたバビロンから荒廃したエルサレムに戻る気にはなれませんでした。彼らの託された神殿の再建は、決して容易な仕事ではありませんでした。それでもなお、彼らを突き動かしたのは、「神にその霊を奮い立たされた」と聖書は言います。この世界でキリストのからだである教会を建てあげることも同じような状況だと思います。この世でキリストの教会を建てあげることは聖書が命じていることですが、容易なことではありません。私たちもまた、神様に奮い立たされなければ成し遂げることはできません。彼らはまた六節にあるように物資的な援助、励ましもあったことがわかります。キリストの教会がこの世に建てあげるられるように協力も必要です。

Ⅱ歴代誌 36章

「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神、主がその者とともにおられるように。その者は上って行くようにせよ。』」(23節)

 ヘブル語の旧約聖書では、歴代誌が最後の書です。ここに旧約聖書がまとめられています。

「先祖の神様は、再三再四、預言者を遣わし、警告をお与えになりました。ご自分の国民と神殿とを、深くあわれまれたからです。ところが、国民は神様から遣わされた使者をあざけり、警告を無視し、預言者たちをさんざん侮辱しました。それでついに、もうこれ以上、神様の怒りをとどめることができない、絶望的な状態になったのです。」(15,16節LB)

どんな問題であれ、神様は救いの御手を伸ばし続けられます。しかし、その救いの手を拒絶するなら絶望しかありません。しかし、キリストのもとに行くならば希望はあります。

Ⅱ歴代誌 34章

「行って、見つかった書物のことばについて、私のため、イスラエルとユダの残りの者のために、主のみこころを求めなさい。私たちの先祖が、主のことばを守らず、すべてこの書にしるされているとおりに行なわなかったため、私たちの上に注がれた主の憤りは激しいから。」(21節)

  ヨシヤ王は、神様を熱心に求め、ないがしろにされていた神殿を修復し始めました。その時、ほっぽらかされていた聖書を見つけました。そして、聖書の教えから遠くはなれた自分たちの姿に愕然としました。時代は繰り返します。中世の暗黒時代、マルチン・ルターは聖書を学ぶ中で、ヨシヤ王と同じように聖書の教えから遠くはなれた教会の姿に愕然とし、宗教改革が起こりました。いつの時代も私たちは問われます。聖書をないがしろにしていないでしょうか。聖書を読み、聖書を学び、信仰と人生の規範として聖書に生きることを心がけているでしょうか。聖書は誤りなき神のことばです。

Ⅱ歴代誌 33章

「しかし、悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうして、マナセは、主こそ神であることを知った。」(12、13節)

マナセは神様に背を向け、神様が忌み嫌うことを行い続けました。実際、10節にはこんな箇所があります。

「主はマナセとその民に語られたが、彼らは聞こうともしなかった。」 

行き着くところまで行ってしまったマナセは、バビロンへ引かれていってしまいます。しかし、そこで彼は神様の前にへりくだり、悔い改めて神様に祈りました。驚くことは、神様は彼の切なる祈りを聞き、彼にセカンドチャンスを与えます。聖書は言います。

「なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ。――だから、悔い改めて、生きよ。」(エゼキエル18:31,32)

Ⅱ歴代誌 32章

「そこで、ヒゼキヤ王とアモツの子預言者イザヤは、このことのゆえに、祈りをささげ、天に叫び求めた。」(20節)

飛ぶ鳥を落とす勢いのアッシリヤ帝国の襲来は、エルサレムにいる人々を恐怖に陥れました。何よりも、彼らは北イスラエル王国を滅ぼしました。アッシリヤの王セナケリブは、「おまえたちは何に拠り頼んで、エルサレムの包囲の中でじっとしているのか。」(10節)と神を信じ、神にのみより頼もうとしていた彼らを嘲笑しました。イザヤ書では、そんな中傷の手紙を受けとったヒゼキヤ王の行動をこう記録します。「ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上って行って、それを主の前に広げた。」(37:14)ヒゼキヤ王は天に叫び求めました。佐藤彰師はこんなことを言っています。「強大な国に飲み込まれそうになった風前の灯火のヒゼキヤは、祈りしかない、しかも自分独りの祈りだけでなく、イザヤに祈りをお願いした。すると、信じられないような国際情勢となった。」祈りましょう!

Ⅱ歴代誌 31章

「彼は、彼が始めたすべてのわざにおいて、すなわち、神の宮の奉仕、律法、命令において神に求め、心を尽くして行ない、その目的を果たした。」(21節)

  ヒゼキヤ王は、「その目的を果たした」と記録されました。彼は自分の人生の目的を果たしたと言うのです。私たちもまた、そのように記録されたいと思わずにはいられません。彼は自分の人生の目的を果たすために、二つの事をしたことがこの箇所から分かります。一つは、「神に求めた」ということです。私たちは、すべてのことにおいて神の助けが必要です。神に祈り求める姿勢がなければ、人生の目的を果たすことは出来ません。二つめは、「心を尽くして行なう」ということです。神を求めると言うことは、何もしなくていいということとは違います。神様から任された事を、誠実に、一生懸命励むこともまた大事なことです。LBでは、「力の限りを尽くして励み」と訳しています。