創世記 17章

「アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」」(1,2節)

神はアブラムが九十九歳になるまで待っていたと言います。どうして、神はそんなに長い間、待っていたのでしょうか。なぜか神は、私たちの望みが絶たれるまで待たれることが多々あります。溺れた人を助けるためには、直後に助けてはいけないと言われます。力が残っている分、一緒に溺れてしまうのです。その人の力が尽きるまで待たなければなりません。同じように、私たちが万策尽きるとき、神が栄光の計画を始められます。人間の不可能は、神の機会となります。神は私たちの力ではできないことを成し遂げられます。

創世記 16章

「主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、」(7節)

聖書で一番最初に「主の使い」という言葉が登場する箇所です。多くの学者は、「受肉前のキリストではないか」と考えます。女奴隷のハガルは、あまりにも不公平で、ひどい扱いをアブラムとサライから受けます。アブラムが神の約束を自分の力で実現しようとしたからです。しかし、神は女奴隷のハガルにも目をかけられました。逃げていたハガルに目を留め、親しく、優しく声をかけた主の使いは、人を避けて寂しく疲れ果てた人生を歩んでいたサマリヤの女に声をかけられたイエス様に重なります。神はアブラハムだけでなく、すべての人を気にかけ、関わられるお方であることが分かります。私たちが不公平な扱いを受けたり、人生の荒野を一人ぼっちで歩む姿を、神は放っておくことはできません。神はエル・ロイ、ご覧になる神です。

創世記 15章

「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」」(5節)

 アブラムには、目に見える現実しか見えませんでした。そんな彼を、神は外に連れ出し、星空を見上げさせました。もちろん、アブラムが見た星空は都会の星空ではありません。街の灯りがない夜空ですから、天の川も見たかもしれません。アブラムは神のビジョンでその眼を満たしました。私たちも同じように、神のビジョンを見上げる必要があります。もちろん、自分がそれを実現しなければならないと気負うならば、それはしんどく感じると思います。ですから神はアブラムに言いました。

「わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である。わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる。」(七節新共同訳)

神は夢を与えただけでなく為し遂げられます。

創世記 14章

「アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。」(20節)

収入の十分の一を捧げる什一献金は律法的だと言う人がいますが、いわゆるモーセが十戒をいただく前から行われていたことでした。つまり、収入の十分の一を捧げるという信仰の行動は、アブラハムの信仰が求められているということです。それは、また、アブラハムの祝福に生きることです。ですから、旧約聖書の最後の書、マラキ書にもこう記されています。

「十分の一の献げ物をすべて倉に運び/わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと/万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために/天の窓を開き/祝福を限りなく注ぐであろう。」(マラキ3:10新共同訳)

必ず祝福を限りなく注ぐというのは、まさに、このアブラハムの信仰に生きる人に与えられた約束です。什一献金にチャレンジするならば教会会計を潤すだけでなく、アブラハムの祝福を体験します。

創世記 13章

「彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、以前天幕を張った所まで来た。そこは彼が最初に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。」(3,4節)

ベテルは「神の家」という意味があります。アブラムはベテルで神に出会い、最初の祭壇を築きました。しかし、彼はそこにとどまらずにエジプトに行き、そこで失敗を犯します。しかし、アブラムはもう一度神と出会った場所に戻ってきました。もちろん、私たちはどこでも神に祈ることができます。しかし、「場所」を過小評価すべきではないと思います。日々の生活の中で、忙しさの中で神との関係から離れていくのならば、神の約束されている祝福を受けることはできません。アブラムは、その所で主の御名によって祈ったとあります。私たちは「教会」という場所で、主に礼拝を捧げる意味を考える必要があります。今日は主の日。教会で主に礼拝を捧げましょう。

創世記 12章

「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(2,3節)

神はアブラハムを祝福するだけではなく、アブラハムを通して地上のすべての民族に祝福を与えることを約束しました。この約束は、アブラハムの子孫として生まれ、ユダヤ人の王として十字架にかかられたイエス・キリストによって成就しました。今、キリストを信じるすべての人に適用されます。ですから、使徒ペテロは言いました。

「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」(1ペテロ3:9)

私たちはこの地に祝福をもたらすために存在しています。

創世記 11章

「それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」(9節)

人が一致して行おうとしたことは、天に届く搭を建てるということでした。それは、いわゆるオカルト的な意味合いがあったと言われています。問題は、今も似たようなことが起こっているということです。人は創造主なる神を求めることよりも、自分たちが神になろうとします。そして、その結果は、バベル、混乱です。神を無視して自分が神のように世界を動かそうとする時、そこには、混乱(バベル)が待っています。彼らがすべきだったことは、はっきりとしています。創造主である神に、聴くということです。静まって、聖書を開き、神のみことばに耳を傾けることをなおざりにするならば、同じような混乱(バベル)は避けられません。

 

創世記 10章

「これはノアの息子、セム、ハム、ヤペテの歴史である。大洪水の後に、彼らに子どもが生まれた。」(1節)

旧約聖書の特徴の一つであり、私たちが読みにくく感じることの一つは、系図だと思います。まず、アダムからアブラハムに至るまでの系図が記録されていきます。次に、アブラハムから、ダビデに至るまでの系図が記録されていきます。そして、最終的に、ダビデからイエス・キリストの誕生までに至る系図が絞られていきます。だからマタイの福音書は「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」と始まります。つまり聖書は、当時の人が気づいていたかどうかは分かりませんが、最初の人、アダムからイエス・キリストに至るまでの系図をしっかりと記録してきたのです。歴史は、Historyと英語で言いますが、まさに、His Story、神の話です。歴史を支配されているのは神です。

創世記 9章

「わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。」(13節)

聖書は大洪水でこの世界が滅びる事は二度とないと言います。

「当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」(Ⅱペテロ3:6,7)

この世界は、洪水ではなく、火によって焼かれると聖書は言います。大規模な山火事を見ると、その脅威を感じずにはいられません。しかし、「この世界はどうせ滅びる」という姿勢で生きるべきではありません。神が洪水の後、二度と洪水で人が滅びることがない約束のしるしとして虹を与えられた意味を考える必要があります。虹は嵐の後に見ることができます。人生の嵐をくぐり抜けた時に、主のみ約束が変わることがないしるしの虹を見ます。

創世記 8章

「神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。」(1節)

嵐の中にいたノアたちは、どんな思いだったのでしょうか。彼らは、木の葉のように揺れる真暗闇の箱舟の中にずっと閉じ込められていたのです。しかし、神様はそんなノアたちを心に留めておられたと聖書は言います。ノアが、そのことを感じることができたとは思えませんが、神の約束を信頼し続けたことは事実です。ヘンリー・ナーウェンはこう言っています。

「楽天主義と希望は、根本的に違った姿勢です。楽天主義は、天気や人間関係、政治経済などの物事がよくなることを期待します。希望とは、私たちに約束されたことを神が必ず成就してくださるということ、そしてそうすることによって、私たちを真の自由に導いてくださると信頼していることです。」

ノアは、楽天主義者ではなかったかもしれませんが、希望の人でした。