2コリント 5章

「肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」(9.10節)

すべての人は、やがて、キリストのさばきの座に立ちます。しかし、キリストを信じる者たちにとってのさばきの座というのは、賞を受けるさばきの座です。ここで使われている「さばき」という言葉は、オリンピック・ゲームの審判に使われる言葉です。この地上で、私たちが良い行いをして、人々から称賛されたら、私たちの報酬はこの地上ですでに受け取ったことになります。しかし、主のために奉仕しても、誰からも評価してもらえないことがあります。それらの報いを、このキリストのさばきの座で受けるのです。「よくやった」と言われるその日まで、主に喜ばれることをしていこうではないでしょうか!

2コリント 4章

「こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。」(1,2節)
使徒パウロは、神のみことばを教えることに対して聖なる畏れをもっていました。異端や新興宗教は、平気で神のことばを曲げて話しますが、それは大変恐ろしいことです。LBでは、
「書かれてもいないことを、聖書の教えであるかのように思わせることも、決してしません。」
とあります。神のみことばに対する畏れは、神のみことばを教える立場にある人には必須条件です。聖書はいろいろと解釈できるという人がいますが、そんなことはありません。聖書は、自分が言いたいことにつじつまを合わせるために存在しているわけではありません。聖書には聖書の文脈があります。私たちは聖書に自分の言いたいことを読み込むのではなく、神が語られていることを読み取ります。

2コリント 3章

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(16-18節)

神が私たちに一番求められていることは、主に向くことです。問題やこの世の楽しみに私たちが向いているならば、神が与えようとしている自由を体験することは難しいからです。聖書は言います。

「私たちの指導者であり、教師であるイエス様から、目を離さないようにしなさい。」(ヘブル12:2LB)

ペテロが、イエス様から目を離した瞬間、沈んでいってしまったように、イエス様から目を離してしまうと、私たちは沈んでしまいます。しかし、イエス様の方に向くのならば、聖霊なる神様が必ず私たちの人生を栄光から栄光へ変えて下さいます。

※ 本日の10時から12時まで、「クリスチャンの生活と証コース」が栄シャロームでもたれます。(婦人会は合流)申し込み、登録は不要です。自由にご参加ください。

2コリント 2章

「あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。」(7節)

日本人は道徳観が比較的に高い国民だと思います。そのため、それぞれが持つ倫理規準に達さない人を切り捨てやすいという側面もあると思います。しかし、それはイエス様がしたこととは違います。イエス様は逆に、自分の基準で裁く人を裁かれました。同じようにキリストのからだである教会にいつも必要なのは恵みの雰囲気です。教会は恵みのビニルハウスである必要があります。神の前に悔い改める人が、切り捨てられるのではなく、回復できる場所である必要があります。使徒パウロは言います。

「今はむしろ、赦し、慰めてやりなさい。そうしないと、余りの悲しみと絶望に打ちひしがれて、立ち直れなくなるかもしれません。」(LB)

神様は私たちを切り捨てたいのではなく、回復したいのです。

2コリント 1章

「これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。」(9節)

使徒パウロはアジアで体験した苦しみに言及し、自分の無力さを痛いほど思い知らされ、自分の許容範囲を超え、死を覚悟したと言います。ところがパウロはこのように告白します。

「しかし、それがよかったのです。というのは、そんな状態の中で、何もかも神様にお任せしたからです。救い出すことができるのは、神様だけです。」(LB)

パウロは、自分ではどうすることもできないがゆえに、神様に頼ることを強制的に学んだと言うのです。神様は時に、私たちが自分自身ではなく、神により頼むことを学ぶために、私たちにはどうしようもないような状況に追い込まれることを許可します。私たちはいつになったらパウロのように謙そんになって、キリストを離れては何もできない(ヨハネ15:5)と認めることができるのでしょうか。

1コリント 16章

「主がお許しになるなら、あなたがたのところにしばらく滞在したいと願っています。」(7節)

使徒パウロは、自分の宣教旅行計画をコリントの教会の人々に伝えるのですが、こう付け加えました。

「主がお許しになるなら。」

ヤコブの手紙の中にこういう箇所があります。

「明日どんなことが我が身に起こるか、どうして分かるでしょう。・・・ですから、こう言うべきです。『主がお許しくださるなら、私は、あのこと、このことをしよう。』」(4:14,15LB)

神の民として、私たちは未来に関してこのような柔軟な姿勢を持つ必要があります。自分の計画にこだわって、神の介入を受け止めることができないのは、寂しいことです。神様は私たちの人生を最善に導きたいと願っておられます。自分の願いに固執せず、柔軟に対応していく必要があります。ある牧師はこう言います。

「幸いなるかな、柔軟な人。その人は、折れることはない。」

1コリント 15章

「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」(10節)

使徒パウロは、「今あるは神の恵み」と告白しました。恵みとは、受けるにふさわしくない者が受けることです。パウロは、過去の自分を振り返り、今自分が存在し、今自分が携わっていることを考える時、自分にはふさわしくないと、畏れを感じたのです。しかしパウロはそれで終わりません。そのことをよく理解していたからこそ、神の恵みに感謝して、人一倍努力して神に仕えてきたと言います。ところが、自分が努力できたことでさえも、考えてみると、神の恵みであったことを悟ったと言うのです。自分の功績を証するのでなく、パウロのように神の恵みに日々感謝して歩むことができますように。今日は主の日。主の恵みに感謝して、共に礼拝を捧げましょう!

※ 本日の第3礼拝(18時から)は、清水が丘教会でもたれるマイケル・W・スミスのコンサートに合流するため、お休みです。

コリント 14章

「ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行ないなさい。」(40節)

使徒パウロのポイントは40節にまとめられています。

「何事も適切に秩序正しく行うようにしなさい。」(LB)

コリント教会の問題は、極端で、混乱していたということです。教会の中で、誰もが好き勝手なことを言ったり、行ったりしたら大変です。33節にこうあります。

「神様は、無秩序や混乱の神ではなく、秩序と平和の神だからです。」(LB)。

私たちの教会は、極端にならないように、バランスを大事にしています。教会の中だけでなく、様々な所でもこの原則を適用することができると思います。神は秩序と平和の神ですから、どんなことにおいても、適切に秩序正しく行うことを心がけることは神が喜ばれることです。自分が遣わされているその場所で、極端になって混乱をもたらせる者ではなく、秩序と平和をもたらすことができますように。

※ 明日の第三礼拝(18時から)は、清水が丘教会でもたれるマイケル・W・スミスのコンサートに合流するため、お休みです。

1コリント 13章

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」(4節)

1コリント13章は、「愛の章」と呼ばれ、結婚式で引用されます。「愛」というところに自分の名前を入れると、自分の愛のなさが痛いほど分かる箇所でもあります。どんなに素晴らしい賜物をもっていても、どんなに献身的に慈善を行っても、結局、愛がなければ意味がないというのが聖書が教えている内容です。愛を語るのに、まず「寛容」があげられているのは興味深いと思います。「辛抱強い」という意味の言葉ですが、「寛容な心」がなければ結局意味がないということだと思います。大和カルバリ―チャペルの大川師は「本質以外は寛容であれ」と言います。まさに、そのような寛容な心がなければ、何の役にも立たないということだと思います。
「本質以外は寛容であることができますように。」

1コリント 12章

「さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。」(1節)

使徒パウロが

「ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。」

と言っている箇所は、大体、今も混乱しています。

イエス・キリストの再臨に関する箇所(Ⅰテサロニケ4:13)、

イスラエルに関する箇所(ローマ11:25)

も同じ表現が用いられています。

「御霊の賜物」とは、聖霊が与える賜物のことです。ここでは、超自然的な賜物です。31節に

「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。」

とあるように、私たちは今も熱心に賜物が与えられるよう求める必要があります。賜物は何かと考える以上に、与えられるように求めなさいと言います。ただパウロが

「私は、さらにまさる道を示してあげましょう。」(31節)

と言い、13章があることも忘れてはいけません。「愛すること」はそれ以上に大事だからです。