2列王記 22章

「王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いた。」(11節)

聖書のみことばは、私たちに行動を求めます。聖書は言います。

「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ1:22)

ヨシヤ王は神のみことばに対して真剣だったので、みことばを聞いた時、心を痛め、主の前にへりくだり、自分の衣を裂き、主の前で泣きました。そして、祭司たちに命じました。

「行って、この見つかった書物のことばについて、私のため、民のため、ユダ全体のために、主のみこころを求めなさい。」(13節)

神はそんなヨシア王の姿をご覧になっていました。

今日は今年最後の主の日。私たちも神のみことばの前に襟を正し、みことばに応答していくことができますように。神の前にひりくだり、主のみこころに心を留めることができますように。

2列王記 21章

「また、自分の子どもに火の中をくぐらせ、卜占をし、まじないをし、霊媒や口寄せをして、主の目の前に悪を行ない、主の怒りを引き起こした。」(6節)

ヒゼキヤ王の息子、マナセは、神を捨てていわゆるオカルトに走ってしまいました。オカルトの問題は、まず、神の怒りを引き起こすものであるということです。そして、それらは悪霊問題と関連し、人々を束縛していくということです。ですから、使徒の働きの中で、使徒パウロたちの伝道によって以下のような出来事が起こったことが記されています。

「また魔術を行なっていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった。」(使徒19:19)

彼らは単に不要になったからそのようなオカルトの本を処分したのではなく、それらのものから解放されるためでした。

「堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」(Ⅰペテロ5:9)

2列王記 20章

「引き返して、わたしの民の君主ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられる。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたをいやす。三日目には、あなたは主の宮に上る。」(5節)

ヒゼキヤ王は重病でした。そんなヒゼキヤ王に神は「あなたの家を整理せよ。」と言われました。この時、ヒゼキヤ王は三九歳だったと言われています。彼は顔を壁に向けて祈りました。3節を見ると、彼は

「大声で泣いた。」

とあります。神はそんな涙の祈りに答えられました。

「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたをいやす。」

神は私たちの祈りを聞き、涙も見られるお方です。ですから、イエス様はこの地上でこう祈られました。

「キリストはこの地上におられた時、死から救うことのできるただひとりの方に、うめきと涙とをもって祈られました。」(ヘブル5:7LB)

2列王記 19章

「ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上って行って、それを主の前に広げた。ヒゼキヤは主の前で祈って言った。『ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。」(14,15節)

エルサレムはアッシリヤの軍勢に囲まれ、ヒゼキヤ王は行き詰まりました。彼らはヒゼキヤ王に言いました。

「おまえの信頼するおまえの神にごまかされるな。おまえは、エルサレムはアッシリヤの王の手に渡されないと言っている。おまえは、アッシリヤの王たちがすべての国々にしたこと、それらを絶滅させたことを聞いている。それでも、おまえは救い出されるというのか。」

ヒゼキヤ王は、問題を神の前に持っていきました。そして神は、預言者イザヤを通して彼に語り、実際、彼らを守られました。聖書の神は今生きて働かれ、祈りに答えられるお方です。インマヌエル!

※ 本日のSSCは19時よりキャンドルサービス。主のご降誕を共にお祝いしましょう!メリー・クリスマス!

2列王記 18章

「彼は高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。そのころまでイスラエル人は、これに香をたいていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。」(4節)

荒野を旅していたイスラエルの民が、民数記二一章で、神にぶつぶつ文句を言い始めた出来事が記されています。神が彼らをマナで養っていたのに、彼らは言いました。「私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」(5節)それで神は燃える蛇を送り、多くのイスラエルの人々が蛇に噛まれて死にました。モーセは、神が命じられたように一つの青銅の蛇を作り、人々がその青銅の蛇を見上げると、生きました。しかし、イスラエルの人々は、今度はその青銅の蛇を礼拝するようになっていました。神の約束に対する信仰が彼らをいやしたのであって、青銅の彫像物がいやしたわけではありません。道具を崇めていないでしょうか。

※ 本日、JR港南台駅 高島屋前で、キャロリングを行います。

2列王記 17章

「彼らは今日まで、最初のならわしのとおりに行なっている。彼らは主を恐れているのでもなく、主が、その名をイスラエルと名づけたヤコブの子らに命じたおきてや、定めや、律法や、命令のとおりに行なっているのでもない。」(34節)

17章は北イスラエル王国の滅亡について記されています。神に背を向け続けた北王国は、アッシリヤ帝国に滅ぼされ、アッシリヤ帝国に連れ去られてしまいます。そしてこの北王国、すなわちサマリアの町々には他国の人々が移住させられました。移住した人々は、神を礼拝する方法を教えられます。しかしそれは、形式的なものだったことが記録されています。信仰生活も、気をつけないと以前からの風習を踏襲するだけの形式的なものに陥る可能性があります。私たちは神が何と語られているか、真剣に、一人一人が神のみことばである聖書に耳を傾け、生ける神に出会う必要があります。伝統や伝承の継承ではなく、生ける神との出会いが求められています。

2列王記 16章

「アハズ王がアッシリヤの王ティグラテ・ピレセルに会うためダマスコに行ったとき、ダマスコにある祭壇を見た。すると、アハズ王は、詳細な作り方のついた、祭壇の図面とその模型を、祭司ウリヤに送った。」(10節)

アハズ王は、アッシリヤ帝国の力の背後に神々の存在があると考えました。それで、アッシリヤ帝国と同じ神々を礼拝すればイスラエルの国も繁栄すると短絡的に考えます。悲しいことに、祭司たちもそれに従い、生ける神の神殿はアッシリヤ帝国の神々のために変えられてしまいます。問題の根底にあったのは、神を神とせず、自分の益のために利用できるかどうかとしか見ていなかったという姿勢です。そのような姿勢だったから、自分の思い通りにならなければ、簡単に神を乗り換えてしまったのです。十字架にかかられた生ける神は、私たちの思い通りにはなりません。神は神であり、人は人です。

2列王記 15章

「彼はすべて父アマツヤが行なったとおりに、主の目にかなうことを行なった。」(3節)

15章は、ユダとイスラエルの王たちの事跡が次々とわずかな言葉によってまとめられています。一人一人の人生には様々な出来事があったはずです。しかし、どんな王の人生も数行で片付けられています。榎本保郎師はこう言います。

「しかし、聖書はそうした王たちの事跡を記しながら、最後に必ず彼が神に対してどのように生きたかを記している。このことは私たちの人生にとって何が最も重要なことであるかを示しているのではなかろうか。」

人生は結局のところ、私たちが神に対してどのように生きたかが問われます。さらに榎本師はこう言います。

「しかし、そうした生き方は見よう見まねによることが多い。」

アザルヤ(ウジヤ)は主の目にかなうことを行いましたが、父が行なったとおりにと聖書は言います。私たちの生き様が、次世代に影響を与えることを心にとめたいと思います。

今日はクリスマス特別礼拝。共に主のご降誕をお祝いしましょう。

※第二礼拝の後、祝会をもちます。第三礼拝は、お休みです。

2列王記 14章

「あなたは、エドムを打ちに打って、それであなたの心は高ぶっている。誇ってもよいが、自分の家にとどまっていなさい。なぜ、争いをしかけてわざわいを求め、あなたもユダも共に倒れようとするのか。」(10節)

ユダの王、アマツヤはエドム人に勝利して、心が高ぶり、イスラエルの王ヨアシュを挑発し、争いをしかけました。しかしその結果、ユダはイスラエルに打ち負かされてしまいます。挑発したり、争いをしかけたりすることは、そもそも聖書的ではないということです。もっとも、霊的な勝利を体験する時ほど、私たちは気をつける必要があります。なぜなら、自分の力で世界に勝利できるような感じがしてしまうからです。しかし、真理は、キリストを離れては、私たちは霊的な戦いに勝利することはできません。得意になって、火遊びすると大変な結果を招くことになるというのが、聖書が教える教訓です。

※ 明日は、クリスマス特別礼拝。礼拝後は祝会。第三礼拝はお休みです。

2列王記 13章

「ついでエリシャは、「矢を取りなさい。」と言った。彼が取ると、エリシャはイスラエルの王に、「それで地面を打ちなさい。」と言った。すると彼は三回打ったが、それでやめた。」(18節)

「地面を打ちなさい」と言われて、何度も地面を打つ人は稀だと思います。三回で止めたイスラエルの王に対してエリシャは怒って言いました。

「あなたは、五回、六回、打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを打って、絶ち滅ぼしたことだろう。しかし、今は三度だけアラムを打つことになろう。」

この時代、戦いが一度や二度で決着がつくことは稀でした。決定的に勝利するためには、五回、六回、勝ち続ける必要がありました。イスラエルの王は、そのことを知りながらも、三回で止めてしまったのです。

「この位でいい」

と。

「これ以上は続けられない」

と。

しかし、主は、

「やめてはいけない」、

「打ち続けなさい」

と言います。