pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

Ⅱ歴代誌 34章

「行って、見つかった書物のことばについて、私のため、イスラエルとユダの残りの者のために、主のみこころを求めなさい。私たちの先祖が、主のことばを守らず、すべてこの書にしるされているとおりに行なわなかったため、私たちの上に注がれた主の憤りは激しいから。」(21節)

  ヨシヤ王は、神様を熱心に求め、ないがしろにされていた神殿を修復し始めました。その時、ほっぽらかされていた聖書を見つけました。そして、聖書の教えから遠くはなれた自分たちの姿に愕然としました。時代は繰り返します。中世の暗黒時代、マルチン・ルターは聖書を学ぶ中で、ヨシヤ王と同じように聖書の教えから遠くはなれた教会の姿に愕然とし、宗教改革が起こりました。いつの時代も私たちは問われます。聖書をないがしろにしていないでしょうか。聖書を読み、聖書を学び、信仰と人生の規範として聖書に生きることを心がけているでしょうか。聖書は誤りなき神のことばです。

Ⅱ歴代誌 33章

「しかし、悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうして、マナセは、主こそ神であることを知った。」(12、13節)

マナセは神様に背を向け、神様が忌み嫌うことを行い続けました。実際、10節にはこんな箇所があります。

「主はマナセとその民に語られたが、彼らは聞こうともしなかった。」 

行き着くところまで行ってしまったマナセは、バビロンへ引かれていってしまいます。しかし、そこで彼は神様の前にへりくだり、悔い改めて神様に祈りました。驚くことは、神様は彼の切なる祈りを聞き、彼にセカンドチャンスを与えます。聖書は言います。

「なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ。――だから、悔い改めて、生きよ。」(エゼキエル18:31,32)

Ⅱ歴代誌 32章

「そこで、ヒゼキヤ王とアモツの子預言者イザヤは、このことのゆえに、祈りをささげ、天に叫び求めた。」(20節)

飛ぶ鳥を落とす勢いのアッシリヤ帝国の襲来は、エルサレムにいる人々を恐怖に陥れました。何よりも、彼らは北イスラエル王国を滅ぼしました。アッシリヤの王セナケリブは、「おまえたちは何に拠り頼んで、エルサレムの包囲の中でじっとしているのか。」(10節)と神を信じ、神にのみより頼もうとしていた彼らを嘲笑しました。イザヤ書では、そんな中傷の手紙を受けとったヒゼキヤ王の行動をこう記録します。「ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上って行って、それを主の前に広げた。」(37:14)ヒゼキヤ王は天に叫び求めました。佐藤彰師はこんなことを言っています。「強大な国に飲み込まれそうになった風前の灯火のヒゼキヤは、祈りしかない、しかも自分独りの祈りだけでなく、イザヤに祈りをお願いした。すると、信じられないような国際情勢となった。」祈りましょう!

Ⅱ歴代誌 31章

「彼は、彼が始めたすべてのわざにおいて、すなわち、神の宮の奉仕、律法、命令において神に求め、心を尽くして行ない、その目的を果たした。」(21節)

  ヒゼキヤ王は、「その目的を果たした」と記録されました。彼は自分の人生の目的を果たしたと言うのです。私たちもまた、そのように記録されたいと思わずにはいられません。彼は自分の人生の目的を果たすために、二つの事をしたことがこの箇所から分かります。一つは、「神に求めた」ということです。私たちは、すべてのことにおいて神の助けが必要です。神に祈り求める姿勢がなければ、人生の目的を果たすことは出来ません。二つめは、「心を尽くして行なう」ということです。神を求めると言うことは、何もしなくていいということとは違います。神様から任された事を、誠実に、一生懸命励むこともまた大事なことです。LBでは、「力の限りを尽くして励み」と訳しています。

Ⅱ歴代誌 30章

「あなたがたの神、主は、情け深く、あわれみ深い方であり、もし、あなたがたが主に立ち返るなら、あなたがたから御顔をそむけるようなことは決してなさいません。」(9節)

  LBでは、今日の箇所をこのように訳しています。

「神様は、思いやりにあふれたお方ですから、もしあなたがたが立ち返るなら、そっぽをむいたままでおられることは決してありません。」

メッセージ訳では、最後の部分をこう訳しています。

「戻ってきなさい。そうすれば神様はあなたを両腕を広げて歓迎します。」

放蕩息子の帰りを待っていた父親のように、聖書が一貫して伝えている神様のイメージは私たちが立ち返るのを待っておられるお方です。

「しかし、ただ一つの望みが残っています。神様のあわれみは決してすたれない、ということです。(中略)神様の真実は限りなく、その恵みは朝ごとに新しくなります。」(哀歌3:21-23LB)

Ⅱ歴代誌 29章

「また、彼らは玄関の戸を閉じ、ともしびの火を消し、聖所でイスラエルの神に香をたかず、全焼のいけにえをささげることをしなかったのです。」(7節)

信仰生活の危機は、いけにえをささげることをやめてしまうことからはじまります。私たちが求められているいけにえとは、動物を捧げることではなく、礼拝をささげることです。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)神様に礼拝を捧げる姿勢は、私たちの人生の生命線です。なぜなら、私たち人間は、神を礼拝するために造られたからです。神を礼拝することが、私たちの人生に意味を与え、それが結果的に良いものを引き寄せてくるのです。すべての良いものは、神様から来るからです。

Ⅱ歴代誌 27章

「彼はすべて、主の目にかなうことを行なった。父ウジヤが行なったとおりである。ただし、彼は、主の神殿にはいるようなことはしなかった。民はなお滅びに向かっていた。」(2節)

 ヨタム王は、父ウジヤ王のように、主の目にかなうことを行う王でした。しかも、ウジヤ王のように傲慢になって自分の分を超えることもしませんでした。しかし、南ユダ王国の人々は、それでもなお「滅びに向かっていた」と聖書は言います。それはつまり、神様に背を向け続けていたということです。民がみな、神様の方に向いているならば、自分が神様の方に向くことはそんなに大変なことではないかもしれません。しかし、民が滅びに向かっているのに、その流れに逆らって、自分は神様の方に向くというのは、とても大きな力が必要なことだと思います。

「主よ、周りに流されることなく、主の方に向くことができるように、力を与えてください。」

Ⅱ歴代誌 26章

「しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は彼の神、主に対して不信の罪を犯した。彼は香の壇の上で香をたこうとして主の神殿にはいった。」(16節)

ウジヤ王は神様を求めた間は栄えました。しかし、力をつけた彼は傲慢になってしまいます。祭司しか認められていないことを、彼はやろうとしてしまうのです。彼は自分の分を超えてしまうのです。使徒パウロは、こんなことを言っています。「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」(ローマ12:3新共同訳)チャレンジ精神も大事ですが、自分の分をわきまえるということも聖書的です。

「主よ。お与えください。チャレンジするべきことはチャレンジする勇気を。わきまえるべきことは謙遜に受け止める冷静さを。そしてそのどちらかを判別する知恵を、主よ、お与えください。」

Ⅱ歴代誌 25章

「アマツヤは神の人に言った。『では、イスラエルの軍勢に与えた百タラントはどうしたらよいのか。』神の人は答えた。『主はそれよりも多くのものをあなたに与えることがおできになります。』」(9節)

  アマツヤ王は戦いのためにイスラエルの人々を兵隊として百タラントで雇いました。しかし、神の人は、イスラエルの人々の問題を指摘し、彼らを一緒に戦いに連れて行ってはいけないと言います。アマツヤ王にしてみれば、百タラント(六千万円LB)というお金を無駄にすることを意味していたので、「あの金が惜しい」(LB)と主張しました。しかし、神の人は言いました。「神には、助ける力があり、つまずかせる力もあるからです。・・・主はそれよりも多くのものをあなたに与えることがおできになります。」時に、神様は私たちに、より多くのものを与えるために私たちに手放すことを求められます。私たちがもったいないとしがみついているがゆえに、受けることができない、それよりも多くのものがあります。

Ⅱ歴代誌 24章

「ヨアシュ王は、ゼカリヤの父エホヤダが自分に尽くしてくれたまことを心に留めず、かえってその子を殺した。その子は死ぬとき、『主がご覧になり、言い開きを求められるように。』と言った。」(22節)

 祭司エホヤダはヨアシュを殺害しようとする者の手から彼を命がけで守りました。しかし、そのヨアシュ王は、命の恩人の子、ゼカリヤを助けるどころか殺害してしまいました。イエス様はこんなことを言っています。「こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。」(マタイ23:35新共同訳)創世記に出てくるアベルをはじめ、ヘブル語聖書(旧約聖書)の最後の書に出てくるこのゼカリヤに至るまで、この世界には確かに納得できないことがあります。しかし、イエス様はそんな彼らの死を決して忘れられません。「殉教者の血は、教会の種子」と呼ばれるように、流された血が無駄になることはありません。