pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

創世記 9章

「わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。」(13節)

聖書は大洪水でこの世界が滅びる事は二度とないと言います。

「当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」(Ⅱペテロ3:6,7)

この世界は、洪水ではなく、火によって焼かれると聖書は言います。大規模な山火事を見ると、その脅威を感じずにはいられません。しかし、「この世界はどうせ滅びる」という姿勢で生きるべきではありません。神が洪水の後、二度と洪水で人が滅びることがない約束のしるしとして虹を与えられた意味を考える必要があります。虹は嵐の後に見ることができます。人生の嵐をくぐり抜けた時に、主のみ約束が変わることがないしるしの虹を見ます。

創世記 8章

「神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。」(1節)

嵐の中にいたノアたちは、どんな思いだったのでしょうか。彼らは、木の葉のように揺れる真暗闇の箱舟の中にずっと閉じ込められていたのです。しかし、神様はそんなノアたちを心に留めておられたと聖書は言います。ノアが、そのことを感じることができたとは思えませんが、神の約束を信頼し続けたことは事実です。ヘンリー・ナーウェンはこう言っています。

「楽天主義と希望は、根本的に違った姿勢です。楽天主義は、天気や人間関係、政治経済などの物事がよくなることを期待します。希望とは、私たちに約束されたことを神が必ず成就してくださるということ、そしてそうすることによって、私たちを真の自由に導いてくださると信頼していることです。」

ノアは、楽天主義者ではなかったかもしれませんが、希望の人でした。

創世記 7章

「はいったものは、すべての肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。それから、主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。」(16節)

聖書は、ノアの洪水の時と同じように、この世界の終わりが来ることを預言しています。

「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。」(Ⅱペテロ3:9,10)

神がノアのうしろの戸を閉ざす時が来たように、この世の終わりの日も必ず来ます。聖書は言います。

「彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない」(黙3:7)

神が閉ざされたら、もう、誰も開くことはできません。主が戸を閉ざされるその日まで、福音を伝え続けていきましょう!

創世記 6章

「ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」(9節)

ある時イエス様は、今日のこのノアの洪水の話を引用してこう言いました。

「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」(マタイ24:37-39)

地球温暖化現象が叫ばれていますが、この世界が滅びる日がくることは聖書が預言していることです。イエス様もはっきり言われました。

「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マタイ24:35)

今日は主の日です。ノアのように、この世に流されずに神と共に歩むのならば、その日が分からなかったということはありません。

※ 本日のSSCは、プレイズ・ステーションの中山有太師がゲスト。

18時からはユース賛美集会がもたれます!ご参加ください。

創世記 5章

「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」(24節)

エノクに関する記述は、この数行しか旧約聖書にはないのに、新約聖書には、こう記されています。

「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:5,6)

つまり、神とともに歩むということは、神に喜ばれる者になるということでもあります。それは、まず、私たちを愛し、私たちを気にかけてくださる神の存在を認識することです。

そして、私たちが祈り求めるなら、必ず答えてくださると、信じることです。

※ 本日、13時半より、中山有太師による賛美セミナーが開催されます。

創世記 4章

「アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。」(4節)

神が本当に見ておられるのは、私たちの心だということがこの記述から読み取ることができます。アベルの姿勢には敬服します。彼は、まず、初物を神に捧げました。それも、最良のものを捧げました。それだけではなく、その捧げ物を自分自身で持ってきたといいます。アベルの姿勢に、彼の神に対する思いが明確に表れています。アベルにとって神は、それほど価値のあるお方でした。教会の献金というのは単なる会費ではありません。神が求めているのは、アベルのような姿勢です。ですから、神は言われます。「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」(マラキ3:10)

創世記 3章

「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」(6節)

人類の悲劇は、神のことばよりも自分が感じたことに従ったということです。蛇はサタンを象徴していますが、神が食べてはいけないと言った「善悪の知識の木」から食べるように誘惑しました。しかし、問題は蛇ではなく、人間です。エバは、自分の目に好ましいことを選択しました。神のことばではなく、自分の感情に従ったのです。今も、人類は失敗から学ぶことなく、同じことを繰り返しています。神のことば(聖書)よりも、自分の目に好ましいことを選択しようとします。そして、罪責感から周りの人も一緒に巻き込もうとします。神のみことばに耳を傾けましょう。

創世記 2章

「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(24節)

今、世界中で「結婚」が危機的な状況にあります。聖書が定義する結婚とは、男女がするものです。そのように発言することでさえ、問題視される社会の風潮に戸惑いを覚えます。マリッジ・コースのニッキー・リー先生は、「流れを変えよう」と訴えます。結婚は、人間が作り出した制度ではなく、神が制定されたものです。私たちは結婚を貴ばなければなりません。一体となるという意味は、何も努力する必要はないという意味ではありません。何も言わなくても相手は分かってくれるという意味ではありません。すべての関係に共通するように、育む必要があります。互いに、献身する必要があります。互いに、支え合う必要があります。神様が制定された結婚を私たちは大事にする必要があります。

創世記 1章

「そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(26,27節)

神がご自身を「われわれ」と呼ぶ理由は、まず第一に、原文のヘブル語の言語学的な理由があります。権威者としての言語という意味があります。多神教という意味はありません。(三位一体は表しています。)人は神のかたちに造られたという意味は、神も人間のような容姿があるという意味ではありません。「イマゴ・デイ」と言いますが、神のイメージ、神の像(エイコン)という、神の栄光を反映する、神を象徴する存在という意味です。人が神になることはありません。しかし、神の栄光を現わす存在として造られました。

黙示録 22章

「御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」(17節)

神のことばは、「来なさい」という招きの言葉で閉じられます。神の愛のメッセージを聞き、赦しを受け、キリストと共に生きる喜びを体験した者は、他の人も招きたいと思うようになります。イエス様は仮庵の祭りの終わりの大いなる日に、立って、大声で言われました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37)

この渇きは単なる身体的な渇きではありません。ダビデはこのように表現しました。

「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」(詩篇42:1)

神への渇きです。問題は、人はこの渇きを一時的な快楽や物質などで埋めようとすることです。この渇きを潤すことができるのは神だけです。神は招いています。