pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

亀と教会

皆さんにかわいがっていただいているお陰で、亀のジェニーはこの夏これまでとは比べ物にならない速さで大きく成長しました。小さな鼻の穴につぶらな瞳。頭と首を撫でてやると、うっとりと心地よさそうにしていてますますかわいくなっています。亀はご存知のようにヤドカリとは違い 柔らかい部分と甲羅が一緒に成長していきます。甲羅だけがそのままということはありませんし、柔らかい部分が成長せずに甲羅にすっかり隠れてしまうということもありません。固い部分と柔らかい部分は文字通り一体なのです。そんな亀の性質をじっと眺めているうちに、教会とはこういうものなのではないかと思いました。固い人、柔らかい人、目や耳、爪。ゆっくりゆっくり、一緒に成長しながらある時は目に見えて大きくなったりする。それが教会のあるべき姿なのではないかと思ったのです。甲羅だけが大きくなっても、柔らかい部分だけが成長しても意味がありません。わたしたちも亀のようにいろんな部分を抱えながらゆっくりと成長できればと願ってやみません。 (小山晶子牧師夫人)

ゼカリヤ書 1章

「あなたは、彼らに言え。万軍の主はこう仰せられる。わたしに帰れ。 ― 万軍の主の御告げ。 ― そうすれば、わたしもあなたがたに帰る、と万軍の主は仰せられる。」(3節)

ゼカリヤは、ハガイと一緒にバビロン捕囚から戻ってきたイスラエルの人々に励ましのメッセージを送った預言者の一人です。「ゼカリヤ」という名前は、

「神は覚えておられる」

という意味です。神は私たちを決して忘れないということです。私たちを見捨てない神のメッセージは、

「わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたに帰る」

です。神に背を向けてしまった人々に対する神の心はいつも、ご自分のもとに帰ってきて欲しいということです。放蕩息子の帰りを待っていたお父さんのように、帰ってきて欲しいのです。そうすれば、神との個人的な、人格的な関係に戻ることができます。神様は両手を広げて一人一人の帰りを待っています。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

ユダの手紙

「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。」(24,25節)

神は私たちがつまずいたり、倒れたりしないように守ってくださるお方です。そのために、私たちの側がすべきことは、その前の20、21節に書いてあります。

「あなたがたは、今のきよい信仰を土台として、自分の生活をしっかり打ち立てなければなりません。そして、聖霊の力と励ましを受けて祈り、いつも神の愛のうちにいなさい。そうすれば神から祝福がいただけます。永遠のいのちに至らせる、主イエス・キリストの恵みを待ち望みなさい。」(LB)

ハガイ書 2章

「この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。」(9節)

ハガイの時代に再建された神殿は、彼らが期待するような以前のような建物ではありませんでした。しかし、ハガイはこれからもっと素晴らしくなると言いました。人は建物や思い出に縛られる傾向があります。年を重ねるごとに、「昔は良かった」と思いやすい傾向があります。伝道者の書にもこういう箇所があります。

「昔の方がよかったのはなぜだろうかと言うな。それは賢い問いではない。」(7:10・新共同訳)

神はノスタルジーの神ではありません。私たちも過去に生きるのではなく、今に、生きることが大切です。これから、もっと素晴らしいことが起こる。

「最高は、まだこれから」(The best is yet to come.)

と、未来に向かっていくことが大事です。過去にも素晴らしいことがあったように、現在にもすばらしいことがあり、これから後に、もっとすばらしいことが待ち受けています。

※ 本日のSSCの祈祷会はお休みです。

 

ハガイ書 1章

「主は、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルの心と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの心と、民のすべての残りの者の心とを奮い立たせたので、彼らは彼らの神、万軍の主の宮に行って、仕事に取りかかった。」(14節)

ハガイは捕囚から帰ってきた人々に神殿の再建を成し遂げるように、励ましのメッセージを語るために遣わされた人です。神は当時の指導者たちだけでなく、

「民の残りの者すべての霊を奮い立たせられたので、彼らは出て行き、彼らの神、万軍の主の神殿を建てる作業に取りかかった。」(新共同訳)

とあります。強要されてではなく、神に霊を奮い立たせられて自発的に働きに携わりました。教会における奉仕も強要されてするものではありません。神が一人一人の霊を奮い立たせて自発的に行うものです。神のため、キリストの体を建て上げるため、何かしたいという思いが起こされたら、ぜひ、牧師に知らせてください。

ゼパニヤ書 3章

「その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」(16,17節)

ゼパニヤの預言は、この世の終わりに関する内容で閉じられています。この預言も、この世の終わりに成就します。しかし、その前味を私たちは今、キリストがこの地に来て下さったことによって味わっています。キリストは言いました。

「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)

キリストこそ「救いの勇士」。礼拝をささげるそのただ中に、「救いの勇士」はおられます。キリストは墓を打ち破り、よみがえり、今も生きておられる「救いの勇士」です。このお方は、私たちの賛美を喜ばれ、楽しまれます。

ゼパニヤ書 2章

「主の定めを行なうこの国のすべてのへりくだる者よ。主を尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。」(3節)

ゼパ二ヤ書のメッセージは裁きの警告です。しかし、裁きには目的があります。裁きは来るべき世界のための備えだと言います。LBでは今日の箇所をこう訳しています。

「集まって祈れ、恥知らずの民よ。まだ時間があるうちに。さばきが始まり、残された機会がもみがらのように吹き飛ばされる前に。主の激しい怒りが襲いかかり、御恐りの恐るべき日が始まる前に。謙遜な者たちよ、従おうと努力してきた者たちよ、神に助けを乞え。謙遜に歩み、正しいことを行え。そうすれば、その運命の日に、主に守ってもらえるかもしれない。」(1‐3節LB)

イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかり、死に、復活された今、すべき備えはイエス・キリストを自分の人生の主として信じ受け入れることです。

「キリスト・イエスに属する人が罪の宣告を受けることはありません。」

ゼパニヤ書 1章

「その時、わたしは、ともしびをかざして、エルサレムを捜し、そのぶどう酒のかすの上によどんでいて、「主は良いことも、悪いこともしない。」と心の中で言っている者どもを罰する。」(12節)

ゼパニヤは、バビロン捕囚前の最後の預言者です。この書は、悲しみで始まり、歌で終わります。今日の箇所は、悲しみの部分です。神を信じていた当時の人の中に、

「主は良いことも、悪いこともしない」、

つまり、自分たちの日常生活に関心もなく、関わりもされないと考え、罪にどっぷりつかっていた人たちがいました。キリスト教会も、気をつけないと同じ失敗を繰り返す可能性があります。イエス・キリストは、ただ2000年前に生きておられただけではありません。十字架にかかり死なれましたが、よみがえられて、今も、生きておられます。イエス・キリストは私たちを愛しておられ、私たちを気にかけておられ、今、私たちに良き働きをされています。

ヨハネの手紙 第三

「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」(2節)

この箇所は「三拍子の祝福」と呼ばれます。聖書の神は、私たちがたましいの救いを得るだけでなく、すべての点でも幸いを得、健康であることを願われているお方です。「シャローム」という単語には、健全、全体的という意味があります。ですから、イエス・キリストが約束された「平和」(シャローム)とは、単に争いがないということではなく、全人格的な祝福を意味します。この全人格的な祝福を「祈ります」とあるように、私たちは互いの祝福を祈り合う姿勢が大切です。

「神様、どうか愛する兄弟姉妹のたましいが幸いを得ているように、すべての点でも幸いを得させてください。経済的にも祝福してください。そして、健康でありますように。」
今日は主の日。共に主を賛美し、礼拝を捧げましょう!

ハバクク書 3章

「主よ。私はあなたのうわさを聞き、主よ、あなたのみわざを恐れました。この年のうちに、それをくり返してください。この年のうちに、それを示してください。激しい怒りのうちにも、あわれみを忘れないでください。」(2節)

ハバククから信仰の姿勢を学ぶことができます。彼は神がユダを裁くためにどうしてバビロンを用いられるか、理解することができませんでした。しかし、彼は信仰の祈りをしました。

「主よ、それを行ってください。」

私たちが理解できないこと、把握することができないこと、それはたくさんあります。

「しかし、主よ、それをしてください。」

と神に信頼して祈ることが大事です。神は間違えることはありません。またハバククは、

「あわれみを忘れないで下さい」

とも祈りました。つまり、

「神様、あなたの御業を行い続けてください、でも、あわれみを忘れないで下さい。」

と。そしてハバククは言います。

「私は主を喜びます。」(17節LB)

これが信仰です。