ユダ 17-25

「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることができる方、私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、支配、権威が、永遠の昔も今も、世々限りなくありますように。アーメン。」(24,25)

主なる神は、私たちがつまずいたり、倒れたりしないように守ってくださる方です。

そのために、私たちの側がすべきことは、その前の20,21節に書いてあります。

あなたがたは、今のきよい信仰を土台として、自分の生活をしっかり打ち立てなければなりません。そして、聖霊の力と励ましを受けて祈り、いつも神の愛のうちにいなさい。そうすれば、神から祝福がいただけます。永遠のいのちに至らせる、主イエス・キリストの恵みを待ち望みなさい。」(LB)

「神の愛のうちにいなさい」とあるように、神の愛の中に留まることが求められています。

2ぺテロ 2:17-22

「その人たちに自由を約束しながら、自分自身は滅びの奴隷となっています。人は自分を打ち負かした人の奴隷となるのです。」(2:19)

聖書は、多くの人は自由と言いながら、実は滅びの奴隷となっていると言います。

LBではこう訳しています。

彼らはこう言います。「善人になったからといって、救われるとは限らないなら、いっそのこと、悪いことをしたほうがましじゃないか。やりたいことをやるのが自由というものだ。」このように、彼らは「自由」を教えながら、自分自身が罪と滅びの奴隷になっているのです。何かに支配されている人は、その奴隷なのです。

自由は複雑です。

ある人は自分が稼いだお金を何に使おうと自由だと言います。

しかし、生活の基盤を損なうような使い方をするならば、人生をおかしくします。

それは自由と呼べるでしょうか。

自由は自分自身を滅ぼす自由になりかねません。

聖書が教える道徳的に正しい生活を心がけることは大切なことです。

2ペテロ 2:10-16

「口のきけないろばが人間の声で話して、この預言者の正気を失ったふるまいをやめさせたのです。」(2:16)

べオルの子バラムの話は民数記22章に出てきます。

イスラエルの民が約束の地に向かう途中、モアブの王バラクは恐怖を抱きます。

それでバラムにイスラエルの民を呪って欲しいと依頼します。

バラムがろばに乗ってバラクのところに行く途中、ろばが人間の声で話したとあります。

あなたがわたしの道を踏み外していたからだ」(民数記22:32)

と主の使いが言っているところを見ると、バラムは主の命を破ることは断じて出来ないと口では言っていたものの、占い料に目がくらみ、神に逆らい、神が祝福された民を呪うことを考えていたということかもしれません。

この者たちは厚かましく、わがままで、栄光ある人たちをののしって恐れません。」(10節)

とあるように、ここで問題となっているのは、主のしもべたちをそしったり、批判したりしてはいけないということです。

2ペテロ 2:1-10

「そして、不道徳な者たちの放縦なふるまいによって悩まされていた正しい人、ロトを救い出されました。この正しい人は彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたのです。」(2:7,8)

私たちは、この世に生きていますが、この世に染まる必要はありません。

道徳的な堕落が叫ばれるこの世の中で敬虔に生きることを選ぶことは、時には悩まされ、心を痛めるものです。

しかし聖書はこの世界に終わりがあることを明確に伝えています。

そして、この世界が終わる前に、大患難時代と呼ばれる時が来ることも伝えています。

キリストを信じる者は、ロトが救い出されたように、その大患難時代から救い出されます。

その日は遠くありません。

アドベントの時こそ、確実にその日に向かっていることを意識する時です。

キリストは再び来られます。

だからこそ、堅く節操を保ちキリストを待ち続ける姿勢が大切です。

2ペテロ 1:12-21

「ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。」(1:20,21)

聖書を自己流で解釈することは、聖書が禁じることです。

聖書の一箇所だけをとって、自己流の教えを作り出してはいけません。

また、文脈を無視して何でも象徴的(霊的?)に解釈することも、聖書は禁じています。

まず、聖霊に導かれてその箇所を記した聖書記者の意図をくみ取る作業が必要です。

たとえば、今日の箇所で「ペテロがどうしてこのようなことを書いたのか?」と問う必要があります。

理由は明らかに、聖書のことばを利用して、様々なことを言う人たちがいて混乱が生じていたからです。

聖書は聖書に解釈させることが大原則です。

聖書は、聖書全体から解釈するものです。

ですから、私たちは創世記から黙示録まで聖書全体を読み、学ぶ必要があります。

2ペテロ 1:1-11

「神と、私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。」(1:2)

ペテロがこの手紙で強調していることは、イエス・キリストを知ることです。

LBではこう訳しています。

あなたがたは、神の恵みと平安をもっと多くいただきたいと願っているでしょう。それなら、イエス・キリストについてもっと深く学んでください。

もちろん、イエス・キリストがどういうお方か、聖書を通してその知識を深めることも大切です。

しかし、それだけでなく、イエス・キリストとの親しい関係を体験する必要があります。

イエス・キリストは、2000年前に存在していたというだけではありません。

死を打ち破ってよみがえられたイエス・キリストは今も生きて働かれています。

イエス・キリストは、単なる概念ではありません。

今、生きておられる現実であり、今も、私たちと出会ってくださるお方です。

4年ぶりのフルメンバー

先週日曜日は長野市民クリスマスコンサートのため長野市に行ってきました。

リラのメンバー全員揃うのは実に4年ぶり。

まさかこんなに長くコロナの影響が続くとは思いませんでした。

練習で歌を合わせることができるのは当日の約一時間だけでしたが、ともに賛美できる喜びでいっぱいでした。

この4年の間にも二人や三人のピックアップメンバーでコンサートを行うことはありましたが、フルメンバーの何がいいって、自分の役割に集中できるところです。

リラの中での私の役割はハイソプラノですが、宮脇と二人でコンサートだったりすると私が主旋律、宮脇がアルトという感じで本来の自分の場所ではないところの音を取らなくてはならず、音域が苦しかったりするのです。

本当に久しぶりに、自分の音域の場所にいることができてとても感謝でした。

なんと来年はリラ結成30周年なのです。

なにかできたらいいね、とメンバーで話し合っています。

こんなささやかな働きを30年間変わらず祝福してくださる神様のすばらしさと恵みを共に感謝し、賛美できるならこんなに嬉しいことはありません。

全ての栄光を主に!

(小山晶子牧師夫人)

ヨハネ 3:22-30

「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」(3:30)

クリスマスの本当の主人公はイエス・キリストです。

「マス」はミサという意味です。

「キリストのミサ」がクリスマスの原意です。

サンタマスでもショッピングマスでもありません。

キリストマスでクリスマスです。

バプテスマのヨハネの弟子たちは、人々がヨハネから離れてイエスのところに行くことに懸念を抱きました。

しかし、バプテスマのヨハネは、自分の役割をよく理解していました。

だから彼はイエスを指し示し続けました。

これが、私たちの姿であるべきです。

私たちの役割も人々を自分の方に向けることではなく、キリストの方に向けることです。

私たちの役割はイエスの御名が高く掲げられることです。

イエス・キリストの栄光だけが輝き、私たちの存在は薄れていくことです。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

2テサロニケ 3:6-18

「どうか、平和の主ご自身が、どんな時にも、どんな場合にも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてとともにいてくださいますように。」(3:16)

イエス・キリストは「平和の君」として生まれました。

その名はインマヌエルと呼ばれると言います。

その意味は、ともにいてくださる神です。

平和の君は私たちと共におられ、私たちに平和を与えてくださいます。

神の子どもと呼ばれる人は、平和をつくる者です。(マタイ5:9)

聖書の御言葉に従わない人たちに対して注意するようにパウロは厳しい言葉で勧めます。

「もし、この手紙に書いた指示に聞き従わない者がいれば、そのような人には特に注意し、交際しないようにしなさい。自らそのことに気づいて恥じ入らせるためです。しかし、その人を敵視するのではなく、兄弟に対するように忠告しなさい。」(14,15節LB)

大事なのは、「敵とは見なさないで、兄弟として」という点だと思います。

2テサロニケ 2:13-3:5

「ですから兄弟たち。堅く立って、語ったことばであれ手紙であれ、私たちから学んだ教えをしっかりと守りなさい。」(2:15)

「私たちから学んだ教え」とは、使徒たちの教えが収録されている聖書のことです。

いつの時代も、聖書の教えに堅く立ち、しっかりと握る必要があります。

LBは「説教や手紙で伝えた教え」とありますが、私たちは説教であれ、文書であれ、聖書の御言葉を教え続ける責任があります。

だから、パウロは言います。

愛する皆さん。この手紙を書き終えるにあたって、お願いしたいことがあります。どうか、私たちのために祈ってください。主のことばが至る所で急速に広まり、あなたがたのところで起きたと同じように、各地で救われる人が起きるように祈ってください。」(3:1LB)

このクリスマス、聖書の御言葉が広まるために祈ってください。

主は私たちの祈りを用いられます。