1サムエル 24:1-15

「彼は部下に言った。「私が主に逆らって、主に油注がれた方、私の主君に対して、そのようなことをして手を下すなど、絶対にあり得ないことだ。彼は主に油注がれた方なのだから。」」(24:6)

ダビデは自分の命を狙うサウル王を自分の手で殺すことができる機会が訪れました。

しかし、ダビデはそうしませんでした。

『砕かれた心の輝き(三人の王の話)』(あめんどう)という本の中で、その理由をダビデはこう語ります。

「彼がしたことをわたしが真似るより、殺されたほうがましだ。王のようにわたしがなるより、王に殺されたほうがよい。結局は彼をおかしくさせた手段を、わたしは選ばない。つまり、決して槍を投げない。憎しみをぶつける先を求めない。わたしは決して復讐しない。今もしないし、今後も絶対にしない。」

サウル王のように憎しみに動かされるなら、自分もまたサウル王のようになります。

人の言葉ではなく、神を恐れ行動する者が、洞窟からぬけ出すことができます。

1サムエル 23:15-29

「サウルはダビデを追うのをやめて帰り、ペリシテ人の方に向かった。こういうわけで、この場所は「仕切りの岩山」と呼ばれた。」(23:28)

サウル王とその部下たちは、ダビデたちをほぼ包囲していました。

サウル王とダビデは、同じ山の一方の側とその反対側を進むほどに近づいていました。

しかし、その時、使者がペリシテの攻撃を知らせたため、サウル王は追跡を中止せざるを得なくなりました。

ダビデたちを守ったその岩山は「仕切りの岩山」と呼ばれました。

神が助けてくださったことを覚えることは大切です。

使徒パウロも言います。

私たちは非常に激しい迫害を受け、打ちのめされて、もうこれ以上生き延びるのはむりかと思いました。死を覚悟し、自分の無力さを痛いほど思い知らされました。しかし、それがよかったのです。というのは、そんな状態の中で、何もかも神にお任せしたからです。死者を復活させることさえできるお方なのですから。やはり、神様は私たちを助け、恐ろしい死の危険から救い出してくださいました。これからも、何度でも、救い出してくださるに違いありません。」(1コリ1:8-10LB)

1サムエル 23:1-14

「ダビデは、荒野にある要害に宿ったり、ジフの荒野の山地に宿ったりした。サウルは、毎日ダビデを追い続けたが、神はダビデをサウルの手に渡されなかった。」(23:14)

ダビデは、自分たちのいのちをかけてペリシテ人と戦い、ケイラの人々を救いました。

その知らせを聞いたサウル王がダビデを捕まえにケイラに来ることになりました。

常識的に考えると、自分たちを救った英雄を裏切るようなことはしないと思ってしまいます。

ダビデの賢かったことは、たとえそう見える状況であっても神に尋ね求めたということです。

祈り求める必要がないほど答えが明白な時ほど、私たちは気をつける必要があります。

自分で勝手に結論づけずに、たとえ順調に見えても、常に主に祈り、主の御言葉を待ち望む姿勢が大切です。

ここに、

サウルは、毎日ダビデを追い続けたが、神はダビデをサウルの手に渡されなかった。

理由を垣間見ることができます。

1サムエル 22:11-23

「ダビデはエブヤタルに言った。「私はあの日、エドム人ドエグがあそこにいたので、彼がきっとサウルに知らせると思っていた。私が、あなたの父の家の者全員の死を引き起こしたのだ。」(22:22)

サウル王の「主の祭司たちを殺せ。」という命令に、王の家来たちは従いませんでした。

なぜなら、神を恐れたからです。

しかし、神を恐れないエドム人ドエグは平気で祭司たちに討ちかかりました。

そもそも、サウル王が主の祭司に猜疑心を抱いたのは、神を恐れないエドム人ドエグからの進言でした。

サウル王は、神を恐れる祭司の言葉よりも、神を恐れないエドム人ドエグの言葉を信頼しました。

その結果、主の祭司たちを虐殺するという愚かな決断をしてしまいます。

誰の言葉を信頼するか、私たちは気をつける必要があります。

猜疑心を与えようとする言葉は注意する必要があります。

1サムエル 22:1-10

「ダビデはそこを去って、アドラムの洞穴に避難した。彼の兄弟たちや父の家の者はみな、これを聞いてダビデのところに下って来た。」(22:1)

ダビデは深く傷つきながら、洞窟に避難しました。

すると、多くの者がダビデのもとに集まってきました。

そして、ダビデは彼らのリーダーとなりました。

ヘンリー・ナウエンという神学者はこんなこと言っています。

「人間は苦しむものであり、その苦しみを分かち合うことにより前進することができる」。

さらにナウエン師はこんなことを言います。

「キリスト者の共同体が癒しの共同体であるのは、そこで傷が癒やされ痛みが緩和されるからではなく、傷や痛みが、新しいヴィジョンの生ずる場や機会となるからにほかならない。こうして告白し合うことは希望を深め合うこととなり、弱さを分かち合うことは来るべき力の全てを思い起こさせることとなる。」

まさに、ダビデの洞穴体験はそのことが事実であることを示しているように思われます。

ことしこそ

数年前に購入し、一度ダメにしてしまったアーモンドの木。

コロナ過にもう一度購入し、今度は前回の反省を踏まえて地植えにしました。

何とも心もとない姿で極寒に耐える姿に感動し時には枝に手を触れながら

「主よ、アーモンドの花を見せてください」

と祈ること数か月。

とうとう花が咲きそうなんです!

小さなつぼみが枝につく様子は梅にそっくり。

イスラエルではアーモンドの花が咲くと本格的な春の訪れを感じるそうです。

行きたい行きたいと思いながらもなかなか行くことができないイスラエル。

せめてアーモンドの花をと思い続けてようやく実現しそうな今週。

わたしに強引にアーモンドの木まで連れて行かれた方々、どうぞお許しを。

聖書に出てくる動植物は基本的に現地に行かないと目にするのは難しいので、ぜひぜひ皆様ご覧ください。

いくらわたしでも岩ダヌキやジャッカルを飼いたいとは言いませんから、、、。

アーモンド(聖書にはあめんどうと書いてあります)が咲いたら、次は20年間一度も身を実らせたことのないオリーブの木の原因究明に乗り出したいと思います。

(小山晶子牧師夫人)

1サムエル 21:10-15

「ダビデはその日、ただちにサウルから逃れ、ガテの王アキシュのところに来た。」(21:10)

ダビデは自分がエラの谷で討ち取った、ガテの生まれ(17:4)のペリシテ人ゴリヤテの剣を持って、ペリシテ人の町ガテに、その王アキシュのところに来ました。

もちろん、人々はダビデのことを知っていました。

そして、そのことを知ったダビデは非常に恐れました。

結局、彼はおかしくなったかのように振る舞います。

この時のことを歌ったのが詩篇34篇です。

ダビデによる。ダビデがアビメレクの前で、頭がおかしくなったかのようにふるまい、彼に追われて去ったときに。」(表題)。

このように詩は始まります。

私はあらゆるときに主をほめたたえる。私の口にはいつも主への賛美がある。」(1節)

どんなに人生が混乱していても、ダビデの心は主に向かっていました。

そんなダビデを主は見捨てることはありませんでした。

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう。

1サムエル 21:1-9

「祭司は言った。「ご覧ください。あなたがエラの谷で討ち取ったペリシテ人ゴリヤテの剣が、エポデのうしろに布に包んであります。よろしければ、持って行ってください。ここには、それしかありませんから。」ダビデは言った。「それにまさるものはありません。私に下さい。」」(21:9)

サウル王から逃げたダビデはまず、祭司の町にいきました。

そこで、彼は食料と武器を求めます。

そして、ゴリアテを倒した剣を受け取ります。

しかし、皮肉にも、剣を手にしたダビデに不安がつきまといます。

榎本師は言います。

「彼の心が神から物に移ったとき、神にではなく、物に平安の根拠を求めたとき、彼は不安のとりこになってしまったのである。」

箴言にこういう箇所があります。

人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。」(29:25)

榎本師は言います。

「しっかりと神により頼もうとするとき、私たちは何ものをも恐れない。しかし、ひとたびその目がこの世の物に移り、ゴリアテのつるぎを『それにまさるものはない』と思うようになるとき、その日私たちは不安のとりこになってしまう。」

※ 今日は東日本大震災から12年。被災地のことを覚えて祈りましょう。

1サムエル 20:35-42

「ヨナタンはダビデに言った。「安心して行ってください。私たち二人は、『主が、私とあなた、また、私の子孫とあなたの子孫との間の永遠の証人です』と言って、主の御名によって誓ったのです。」そして、ダビデは立ち去った。ヨナタンは町へ帰って行った。」(20:42)

ヨナタンはダビデとの約束を誠実に果たし、安全に逃亡できるように計らいました。

ヨナタンのダビデへの言葉は、ヨナタンが主を恐れる者であったことの証拠とも言えます。

ヨナタンは父サウルの問題を目の当たりにしました。

そして、父サウルによって、これから国が危機的状況に陥ることも意識していたかもしれません。

しかし、彼は「町へ帰って行った」とあります。

ヨナタンは最後まで忠実に与えられた使命を全うしたということだと思います。

1サムエル 20:24-34

「すると、サウルは槍をヨナタンに投げつけて撃ち殺そうとした。それでヨナタンは、父がダビデを殺そうと決心しているのを知った。」(20:33)

サウル王はヨナタンに対して、

エッサイの子がこの地上に生きているかぎり、おまえも、おまえの王位も確立されないのだ。」(31節)

と言いながら、次の瞬間、

槍をヨナタンに投げつけて撃ち殺そうとした

とあります。

とても矛盾した行為ですが、結局のところ、サウル王の問題が自分自身の保身であったことが明白になってしまいます。

ヨナタンにとって父サウル王のそんな姿はショックだったと思います。

もっともヨナタンは、父の自分に対する脅威ではなく、ダビデに対する恥ずかしい行動に心を痛め、食卓から立ち上がります。

ヨナタンの怒りとサウルの怒りには明らかに違いがあります。

ただ、聖書は言います。

人の怒りは神の義を実現しないのです。」(ヤコブ1:20)