1サムエル 20:12-23

「しかし、あなたの恵みを私の家からとこしえに断たないでください。主がダビデの敵を地の面から一人残らず断たれるときにも。」(20:15)

ヨナタンは王子でしたが、

主が父とともにおられたように、あなたとともにおられますように。」(13節)

と、神がダビデを王として選ばれたことを謙遜に認めていました。

そして、ダビデが権力の座に着いた時に、自分の家族に親切を示すことを求めました。

ヨナタン自身は、ダビデが権力の座に着く前に死んでしまいますが、ダビデはこの約束を守りヨナタンの家族に親切を尽くします。

ヨナタンの謙遜で、神を恐れ、神の主権を認める姿勢が次世代の祝福へとなりました。

1サムエル 20:1-11

「ダビデはなおも誓って言った。「父上は、私があなたのご好意を受けていることを、よくご存じです。『ヨナタンが悲しまないように、このことを知らせないでおこう』と思っておられるのです。けれども、主は生きておられます。あなたのたましいも生きておられます。私と死の間には、ほんの一歩の隔たりしかありません。」」(20:3)

ヨナタンは父サウル王がダビデを殺そうとしていることが信じ難かったと思います。

しかしダビデはヨナタンに、

ほんとうに、私は死と背中合わせなのです。」(LB)

と告げます。

もっとも、これは私たちすべてに関しても真理です。

人は死亡率100%だからです。

聖書ははっきりと言います。

人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)

王の王に会う日は近いです。

備えはできているでしょうか。

1サムエル 19:18-24

「彼もまた衣類を脱ぎ、サムエルの前で預言し、一昼夜、裸のまま倒れていた。このために、「サウルも預言者の一人なのか」と言われるようになった。」(19:24)

サウル王のダビデへのねたみは、ダビデ殺害への追撃と変わりました。

ダビデはサムエルがいるラマに行き、サウルが自分にしたこといっさいをサムエルに話しました。

ダビデに油を注いだのはサムエルですが、サウルに油を注いだのもサムエルです。

サムエルはどんなに複雑な思いだったでしょうか。

サウルはその知らせを聞くと、殺害の思いに駆られてサムエルのもとに来ました。

サウルを王として奮い立たせた同じ主の霊は、その終わりを示すがごとくサウルに臨みました。

サウルが「衣類を脱ぎ」預言したということは、王服を脱がされたということです。

主は生きておられます。

神が人間に国々を分け与え、お選びになった者に国を与えることを悟るだろう。」(ダニエル4:32LB)

越冬ジェニー

三月に入り暖かい日が増えてきました。

家の中で冬を過ごした亀のジェニーは今年も冬眠することなく、先週からは元気に外で過ごしています。

ときどき「ジェニーは何を考えているのかな?」と想像したりしますがそもそも感情がなさそうなので考えたりも多分しないだろうな、、。

不思議ですよね。

将来の心配をする生き物って人間だけです。

ちなみにジェニーよりは知能がありそうな猫のジョシュが次の日のごはんの心配をしているところも見たことがありません。

お祈りするサルも、元旦に計画を立てる犬も存在しません。

自分の存在意義を探求するカラスも、ましてや死後の世界について悩むペンギンも。

やはり人間は神のかたち、神の息が吹き込まれた「特別な」存在なのだと思います。

そのすべての答えは聖書の中に記されています。

今週もわたしたちがイエス様を通して神様との関係をより深め、今生かされている目的に生きることができますように。

心が疲れて何もしたくないときは、神様が与えてくださった「春」に身を浸してリフレッシュしてください。

そのすべてが「神様があなたを愛している」ことを教えてくれます。

(小山晶子牧師夫人)

1サムエル 19:8-17

「サウルは槍でダビデを壁に突き刺そうとした。ダビデがサウルから身を避けたので、サウルは槍を壁に打ちつけた。ダビデは逃げ、その夜は難を逃れた。」(19:10)

槍が投げられたらどうすればいいのか。

ダビデは逃げました。

このような内容は問題をただ回避しているような感じがして、納得がいかない人もいると思います。

しかし、ジーン・エドワーズの「砕かれた心の輝き」(三人の王の物語)という本の中にこんなことが書いてあります。

「あなたは、悪いサウル王に目を注いでいる。(中略)注意した方がいい。というのは、神はもう一人のサウル王にも鋭い視線を注いでおられるからだ。それは、あなたに槍を投げようと、あなたのそばに立っている人のことではない。・・・神はあなたの中にいるサウル王を見ておられる。」

神は私たちの心に潜むサウル王のような気質を取り扱うことに関心を持っておられます。

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう。

1サムエル 19:1-7

「サウルは、ダビデを殺すと、息子ヨナタンやすべての家来に告げた。しかし、サウルの息子ヨナタンはダビデを非常に愛していた。」(19:1)

サウル王は、今までは内密にダビデを殺そうとしていましたが、公に殺害することを告げました。

サウル王の息子ヨナタンは父の命令に従いダビデを殺す手伝いをすることもできましたが、ダビデを助けました。

その理由を聖書は、ヨナタンがダビデを非常に愛していたからだと言います。

LBでは「深い友情で結ばれていた」と訳しています。

キリスト者もヨナタンのように和解の務めがあります。

こういうわけで、私たちはキリストの大使です。神様が、私たちの口を通して語りかけてくださるのです。キリストが懇願しておられるかのように、キリストに代わって、あなたがたにお願いします。どうか、差し出された愛を拒まず、神様と和解してください。」(2コリント5:20LB)

1サムエル 18:17-30

「サウルは、主がダビデとともにおられ、サウルの娘ミカルがダビデを愛していることを見、また知った。」(18:30)

サウル王がダビデを妬み、殺そうとすればするほど、ダビデは成功していきました。

サウル王の動機がどんなに悪意に満ちていても、神はそれらをダビデの成功へと導くものとしました。

サウル王はそのことを見ただけでなく、「知った」、すなわち体験したと言います。

その結果、残念ながらサウル王は、

ますますダビデを恐れるようになりました。それで、以前にも増して激しくダビデを憎むようになっていったのです。」(29節LB)

サウル王は、自分の罪を悔い改めて、神を恐れ、ダビデを認めるべきだったと思います。

神に反抗しても何もいいことはありません。

誰かを妬むのではなく、主の前にへりくだり、膝を屈めることができますように。

1サムエル 18:10-16

「サウルはダビデを恐れた。それは、主がダビデとともにおられ、サウルを離れ去られたからである。」(18:12)

サウル王がダビデに槍を投げた理由は、悪霊の影響でもありますが、恐れからだと言います。

人は恐れる相手を攻撃しようとします。

サウル王はダビデが戦いで死ぬことを期待して、悪意から指揮官に任命しました。

しかし、聖書は言います。

「主が彼とともにおられたので、ダビデは、行くところどこででも勝利を収めた。」(14節)

逆境は神が共におられることを示す時となりました。

ヨセフも兄たちから嫌がらせを受け、エジプトに奴隷として売られました。

数々の逆境も、神が彼と共にいることを証明するものとなりました。

やがてヨセフはエジプトの首相となり、自分を貶めた兄たちに言います。

「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。」(創世記50:20)

1サムエル 18:1-9

「その日以来、サウルはダビデに目をつけるようになった。」(18:9)

サウル王は、何よりも民の意見を重んじていました。

その結果、ダビデの方が自分よりも評判が良いことに腹を立てます。

この時から、王の目は、ねたみを帯びてダビデに注がれるようになりました。」(LB)

つまり、サウル王はこの時からダビデと自分を比較して生きるようになってしまったのです。

比較の人生に平安はありません。

神は私たち一人一人をユニークに造られました。

一人一人に与えられている賜物も違えば、使命も違います。

私たちは皆、自分一人で完結するように造られていません。

互いに助けあって完結するように造られています。

私たちが比較している人の長所が、私たちの短所かもしれませんが、私たちの長所がその人の短所かもしれません。

私たちはねたみに縛られて自分を悲観したり、相手にかみついたりするのではなく、補完し合うことが大切です。

互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。」(ガラテヤ6:2)

1サムエル 17:50-58

「ダビデの手に剣はなかったが。」(17:50)

ダビデは剣さえ持っていませんでした。

しかし、巨人ゴリヤテを倒しました。

自分たちの代表戦士が倒されたのを見たペリシテ人たちは逃げます。

逆にイスラエルの民は力を得て勝利します。

なぜなら、ダビデが

すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るだろう。」(46節)

と言ったように、生ける神の存在、その力を知ったからです。

すべての人は生ける神の存在、その力を知る必要があります。

聖書は言います。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)

信仰者はこの世界に生ける神の存在、その力を知らしめる役割があります。

神の限界を自分で勝手に作らずに、信仰をもって祈りましょう!