マルコ 9:30-37

「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」(9:37)

古代社会において、子どもは親の所有物のように扱われていました。

何の地位もない子どもを、イエス様の御名のゆえに受け入れるならば、イエス様を受け入れることであり、「わたしを遣わされた方を受け入れる」のと同じことだとイエス様は言われました。

つまり、誰でも、子どもでも、イエス様との関係を築いているならば、人々が神のもとへ行くために「用いられる器」になれると言ったのです。

そのような意味で、弟子たちは特別ではないと。

イエス様は、「自分こそ重要人物だ!」と言い合っていた弟子たちの思いをひっくり返されたのです。

イエス様についていくことは特権階級を手に入れられるという類のものではありません。

マルコ 9:14-29

「すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」」(9:29)

イエス様は弟子たちに「修行が足らん!」と言われたわけではありません。

この種のものは、まず、イエス様ご自身が十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえり、天に上り、栄光の御座に着座する必要があると言われたのです。

私たちの祈りは単なる願掛けとは違います。

イエス・キリストの御名によって祈る時、私たちはイエス・キリストの十字架の御業を認識するのです。

そして、イエス・キリストの御名によって祈る時、神の御国の力が解き放たれるのです。

イエス・キリストが、私たちのために十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえられたことを通して、神の目的は成就しました。

このことによって、祈りと礼拝は新しくされました。

天と地は新しい方法で一つになりました。

未来と現在は、新しい方法でつながりました。

マルコ 9:2-13

「ペテロがイエスに言った。「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」」(9:5)

「山の上の体験」は素晴らしいもので、ペテロがそこに幕屋を造りたい、そこに留まりたいと言った意味も分かる感じがします。

モーセの時代からダビデ王の時代まで、「幕屋」というのは、神に礼拝を捧げる場所でもありました。

それは、神の領域である天と私たちが生きているこの地上とが重なり合う場所でもありました。

しかし、注目すべきはその後の出来事です。

「そのとき、雲がわき起こって彼らをおおい、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。」彼らが急いであたりを見回すと、自分たちと一緒にいるのはイエスだけで、もはやだれも見えなかった。」(7,8節)

つまり、私たちが「幕屋」を造るのではなく、イエス・キリストが「幕屋」なのです。

マルコ 8:27-9:1

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。」(8:36)

イエス様が教えられた「神の国」の概念は、一般的な人が想定する「人生で本当に重要なことは何か」ということをひっくり返します。

イエス様は言われます。

「誰でもわたしと一緒に行こうという人は、わたしに導かれなければなりません。

あなたが運転席に座るのではなく、わたしです。

苦しみから逃げてはいけません。

それを抱きなさい。

わたしについてきなさい。

わたしがどうするかを見せましょう。

自己啓発は実際のところ助けになりません。

自己犠牲こそが、自分を、本当の自分を救う唯一の道であり、それがわたしの方法です。

あなたが欲するすべてを得たとしても、本当の自分を失ったら何の益がありますか。

あなたの魂の代わりにあなたは何を差し出しますか?」(34-37節MSG)

マルコ 8:14-26

「そのとき、イエスは彼らに命じられた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい。」」(8:15)

パン種とはパンを膨らませるために使用されるイースト菌のことで、「神の国の間違った概念」という意味で使用しています。

そして、イエス様の真意を理解しない弟子たちに対してイエス様はエレミヤ書5:21を引用します。

「さあ、これを聞け。愚かで思慮のない民よ。彼らは目があっても見ることがなく、耳があっても聞くことがない。」

つまり、イエス様は「あなたたちは今、エレミヤ時代のイスラエル人たちと同じ道を行く危険にあることが分からないのですか」と訴えていたのです。

イエス様がパリサイ人やヘロデたちに対して問題視していたことは、自分たちのことばかりに執着していたことでした。

自分たちだけが良ければ周りの人はどうでもいいという姿勢が滅びを招きます。

ぶんでんリレー

いのちのことば社文書伝道デー「ぶんでん」。

コロナ前までの20年はどは、いのちのことば社スタッフが日曜礼拝後に教会を訪問し文書の販売と証の働きをしていました。

様々な変化の中で模索し、試験的に始まったのがこの「ぶんでんリレー」です。

コンパクトではありますが評判の良いキリスト教書やグッズを中心にセレクトしたボックスが、近隣の教会を数日ずつ巡っていくというこの企画。

紙媒体のものを読む機会が激減した昨今ですが温もりのある紙のページをめくって読む良さがあると思います。

オアシス横浜になかなか行けないという方にとっては大きな助けになる機会だと思います。

注文することも可能ですので是非ゆっくりとご覧ください。

送料がかからないのも助かりますよね。

現金での取扱のみとなりますのでその点のみご注意ください。

コロナ禍以降、日本のキリスト教会は実は危機的な状況となっています。

閉鎖する教会、牧師がいない教会も増え、わたしの友人牧師も兼牧を余儀なくされています。

小さなキリスト教界でぶんでんの働きが消えてしまうことがありませんように。

 (小山晶子牧師婦人)

マルコ 8:1-13

「すると、イエスはお尋ねになった。「パンはいくつありますか。」弟子たちは「七つあります」と答えた。」(8:5)

よく似た出来事が六章にありました。

五つのパンと二匹の魚で男だけで五千人が食べて、残り物が十二かごになりました。

十二という数字はイスラエルの十二部族を象徴していると考えられ、ユダヤ人世界におけるイエス様の働きを象徴したものと考えられます。

今回は七つのパンと少しの魚で四千人が食べて、残り物が七つの籠になりました。

「男が」という言及はなく、奇跡が行われた場所は、ユダヤ人居住区ではありませんでした。

つまり、五千人の時には数にも入れられなかった女性や子どもや外国人がこの四千人に含まれているのです。

そう考えるならば、このことを通して神がどれほどすべての人を気にかけておられるかが分かります。

また、神は私たちの日々の糧、この地上の営みも大切にされているということが示されています。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

マルコ 7:24-37

「そして天を見上げ、深く息をして、その人に「エパタ」、すなわち「開け」と言われた。」(7:34)

イエス様にとって病気のいやしとは、単に医者が病気を治すこととは違いました。

イエス・キリストが病気をいやされた理由は、旧約聖書の預言の成就であり、神の国がこの地に入り込んできたことのしるしでした。

注目していただきたいのは、イエス様が「エパタ」と言われたとアラム語が使用されていることです。

初代教会で「エパタ」という言葉が使用されていたのだと思われます。

「エパタ」と宣言して祈っていたのだと思います。

「開け」という単語は命令形ですが受動態です。

つまり、正確には、「開かれなさい!」です。

神的受動態(divine passive)と呼ばれますが、主語は「神」です。

「人にはできないことも神にはできる」という信仰をもって初代教会の人たちは、「エパタ!」、「開かれなさい!」と祈っていたということです。

マルコ 7:14-23

「イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。」(7:20,21)

本当の問題は外的な要因ではありません。

イエス様がここでポイントしていることは、

「人は皆、イエス・キリストが必要だ」

ということです。

食物規定のポイントは食べ物ではなく、心の問題であり、人はイエス・キリストを信じ、新しく生まれ変わる必要があるということです。

目に見えるかたちで現れてくることは、 その人の内側から出てくるものです。

つまり、イエス様が言いたいことは、人は皆、問題を抱えているということです。

「ありのまま」では問題解決にはならないということです。

私たちは皆、自分の弱さを認め、聖霊様の助けを求め、イエス・キリストの臨在と共に前進する必要があります。

聖書の御言葉を心に蓄え、前向き、肯定的、信仰的な言葉がいつも口から出てきますように。

マルコ 7:1-13

「またイエスは言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。」(7:9)

イエス様は単純に「伝統」対「聖書」という話をしたわけではありません。

イエス様はご自身の働きによって、神の国 がもたらされたことを伝えているのです。

聖書が語ってきたことが、イエス様が行われていることによって成就していることを伝えたかったのです。

パリサイ人たちは自分たちが作り上げて来た伝統でいっぱいになっていました。

ですから、イエス様を認めるどころか、批判することしかできなかったのです。

「神の国の訪れ」を受け止めることができなかったのです。

農協の創始者、賀川豊彦の口ぐせはこうだったそうです。

「きみ、天国を知っているかね。」

「知りません。」

「人をほめるところだ。」

「地獄を知っているかね。」

「知りません」

「人の悪口を言うところだ。」

(河野進詩集)