マルコ 12:1-12

「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。」(12:10)

詩篇118篇からの引用で、建物を建てる時に、どこにも合わないと捨てられた石が、アーチ構造の頂上の「要石」として必要とされたものだったという話から来ています。

(「要の石」は諸説あり、基礎の角に最初におかれる礎石という説もあります。)

この石が、アーチの両側からかかる力を受けとめてバランスをとることで、建造物の構造は保たれます。

外すと崩れてしまう重要な石で、アーチの両端をつなぐ役割を果たす欠かせない石です。

神の御子イエス様が来られたのに、「建てる者たち」、祭司長をはじめとするユダヤ人指導者たちが考える建物のどこにも合わないと、拒絶し、捨ててしまうという話です。

彼らが必要ないと捨てたイエス・キリストによって神の救いの計画は完成しました。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

マルコ 11:20-33

「イエスは彼らに言われた。「わたしも一言尋ねましょう。それに答えなさい。そうしたら、何の権威によってこれらのことをしているのか、わたしも言いましょう。」(11:29)

「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。」という質問に対して、イエス様は質問で答えられました。

これは、ラビと呼ばれる教師が議論する時に用いた一般的な慣習でした。

イエス様は、彼らのバプテスマのヨハネに対する判断が、イエス様に対する判断を決定すると言われました。

当時の宗教指導者たちは、自分たちが「神殿」を管理しているから権威があると考えていました。

そして、この箇所で明確にされたことは、彼らが神のみこころを拒絶していたという現実です。

彼らの動機は神ではなく、民衆であり、自分でした。近年、教会のマック化が懸念されています。

いわゆるお手軽さ、効率化に対する警鐘です。

教会は消費者の欲望ではなく、神のみことばを第一にする責任があります。

マルコ 11:11-19

「そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」」(11:17)

「強盗」は「過激な国粋主義者」に対して使われていた単語でもありました。

イスラエルの国は、世界の光として用いられるために選ばれたはずでした。

ところが、彼らは国粋主義に陥り、誤った選民思想で世界を裁いていました。

神殿は世界のために神の臨在を象徴するものでした。

ところが、ユダヤ人以外を除外する場所となっていました。

実際、イエス様が追い出したその売り買いをしていた場所は、「異邦人の庭」と呼ばれるユダヤ人以外の人たちのために設けられた礼拝のための場所でした。

それでイエス様は「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」と、ユダヤ民族だけではない「すべての民」の祈りの家なのだと強調されたのです。

これは引用元のイザヤ書56:7の文脈です。

マルコ 11-1-10

「もしだれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐに、またここにお返しします』と言いなさい。」(11:3)

イエス様が「ろばの子」に乗って入城されたことには意味がありました。

ゼカリヤ書9:9にこのような預言があります。

「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。」

王であるならば、白馬に乗った方がイメージがいいと私たちは考えます。

もちろん、イスラエルに馬がいなかったからではありません。

あえて、同じウマ科の動物でありながら、愚鈍で見ばえのしないろばに、それもろばの子に乗ることを選ばれたのです。

「ちいろば」は、その背にイエス様をお乗せしたがゆえに、前進を放棄することはありません。

人知れず「主のお入用」に生きる「ちいろば」の存在が、神の国をこの地にもたらします。

マルコ 10:46-52

「彼は、ナザレのイエスがおられると聞いて、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めた。」(10:47)

「ティマイの子のバルティマイ」と、癒された人の個人名が登場するのは、マルコの福音書ではとても珍しいことです。

これは後の教会で彼がよく知られていたからだと言われます。

この書き方はバルティマイを、私たちが「見習うべきモデル」として描いているようです。

見習うべき4つのポイントがあります。

第一番目は、彼はイエス様が誰であるか認識していたということです。

「ダビデの子」は旧約聖書で約束されてきた「メシヤ」のことです。

第二番目は、イエス様が彼を助けることができると明確に信じていたということです。

第三番目は、彼は物ごいを捨てたということです。

第四番目は、彼はその道で、イエス様に従いはじめたということです。

イエス様は彼に単なる視力の回復だけではなく、新しい視点(世界観)を与えられました。

マルコ 10:32-45

「あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。」(10:44)

十字架のメッセージは私たちの視点に挑戦します。

私たちのプライドや、この世の支配、権力に挑戦します。

イエス様がもたらす「神の国」は、この世界の権力や支配をひっくり返してしまうものでした。

イエス様はそのことを語られ、実践されました。

「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」(45節)

十字架は「私たちの罪の赦しのため」という意味があります。

イエス様は

「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」(38節)

と問われましたが、それは、私たちの身代わりとなって、罪の報いとしての神の裁きをあの十字架で受けられることでした。

神は、独善的な支配者ではなく、仕える者を用いて、この世界を変革されます。

マルコ 10:17-31

「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」(10:31)

ユダヤ人は、神がその人を喜ばれているから、この人は裕福なのだと考えていました。

それで

金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。

というイエス様の言葉は驚きを与えました。

「金持ちこそ神から祝福された人だと考えられていたからです。」(LB)

聖書は神を信じる者に「祝福を与え、繁栄を与える」という約束を与えていますが、目の前の一時的な状況を私たちが自分勝手な憶測で判断して、祝福されているとか祝福されていないとか言ってはいけないということです。

あくまでも神の領域なのです。

ですから、イエス様は言われました。

「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」(27節)

富んでいるから祝福されているとは限りません。

貧しいからといって祝福されていないとは限りません。

あきこの知らない世界

リラメンバー松浦千登勢の17歳年下夫が30歳で総合格闘家を目指すと言った時、びっくりするやら呆れるやらで何も言えなかった数年前。

しかもプロを目指すという言葉に腹立たしさすら覚えました。

畑は違えどプロになるということの厳しさは精神的にも経済的にもどれほど大変か少しは知っている者として、手放しで賛成は正直できませんでした。

だいたい総合格闘技って何?

殴り合うんでしょう?

生活どうすんの?

妻がいるのになんて無責任な。

わたしの心はおおよそこんな思いでした。

ところが千登勢は夫を支え続け、一番の理解者となって時にはセコンドをやり、祈り励まし続けたのです。

厳しい総合格闘技の世界で彼は本当にプロになり、本日東京で新人王決定戦に出場することになりました。

この数年間、千登勢を傍で見ながら思いました。

これこそ無償(アガペー)の愛だ、と。

聖霊なる神様も、危なっかしい私たちの歩みを見捨てることなく励まし、セコンドにつき、支えてくださってるんだと。

あの時賛成できなくてごめん。

応援できなくてごめん。

だからきょうはその分も全力で勝利を祈るからね。

(小山晶子牧師婦人)

マルコ 10:1-16

「イエスは立ち上がり、そこからユダヤ地方とヨルダンの川向こうに行かれた。群衆がまたイエスのもとに集まって来たので、再びいつものように彼らを教え始められた。」(10:1)

イエス様の声を聞きたいのであれば、イエス様のもとに集まらなければなりません。

西洋の個人主義の影響か、インターネットの普及の影響か、否、初代教会の時代から、信仰の個人的な側面を強調するあまり集まることを軽視する人たちがいました。

ですから聖書は言います。

「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。」(ヘブル10:25)

いつものように…教え始められた。」とあるように、イエス様の働きの中心は「教えること」でした。

イエス様は今も聖書のみことばを通して私たちに教えてくださるお方です。

イエス様の「教会」に集まってきて期待できることは、聖書のみことばが教えられることです。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

マルコ 9:38-50

「また、わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、むしろ、大きな石臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれてしまうほうがよいのです。」(9:42)

世界には多くの「わたしを信じるこの小さい者たち」がいます。

私たちの生きている文化とはまったく違う「わたしを信じるこの小さい者」がいます。

自分は苦手なタイプと思うような「わたしを信じるこの小さい者」がいます。

私たちがもし、そのような人を排斥してしまうならば、これは大きな問題だとイエス様は言われます。

私たちは自分の好みや、育ってきた文化で優劣をつけるべきではありません。

切り捨てるべきではありません。

様々な人、様々なグループが存在する理由は、キリストのからだには様々な器官があるからです。

神は目的をもって一人一人を導かれます。

必要とされていない人などいません。

私たちは互いの存在を尊重することが求められています。